「ハンセン病資料館問題」が明らかにしたジャーナリズムの劣化と、「和解」で明らかになった弁護団の欺瞞
文責・藤巻修一(皓星社)
1)ジャーナリズムの劣化
ボクは、ハンセン病資料館で稲葉上道君の不採用問題が表面化した2020年から一貫して、問題の本質はハンセン病資料館で15年以上君臨してきた古株学芸員の閉鎖的・強圧的な運営と他の学芸員たちの資料館運営の改善をめぐる対立であって「労働問題」ではない、「労働組合」「笹川保健財団」「パワハラ」「不採用」といったキーワードに脊椎反射しないで本質を見てほしいと指摘してきた。
しかし、今年7月に唐突に「週刊金曜日」7月21日号は「国立ハンセン病事件が露わにした公務委託の闇」という「事件」「露わ」「闇」といった扇情的なタイトルでこの問題を報じた。問題が表面化してから3年余りたっての記事であるから十分に取材を尽くした結果であると期待したが、まさに脊椎反射の記事にすぎなかった。
ボクが、「脊椎反射しないで」というのは言葉を換えれば「早まった一般化」をしないでということだ。「早まった一般化」とは論理学の命題の一つで、無意識に使えば誤謬を誘い、意識的に使えば詭弁の一種である。例えて言えば、スズメが、ハトが、カラスがと飛ぶ鳥を列挙して「故に鳥はすべて飛ぶ」、あるいは「飛ぶ動物はすべて鳥である」と結論付けるたぐいである。
記事の執筆者の肩書はジャーナリストで某大学名誉教授となっている。
筆者がジャーナリストを名乗るならば「足で書く」「現場百遍」といった先人の教訓に従い、まずは現在のハンセン病資料館を取材し、パワハラ、セクハラ、国の横やりで捻じ曲げられた運営方針の結果、荒廃しているはずの資料館の現在を確認するべきであろう。また、大学名誉教授を名乗るアカデミストとして論理的であろうとするならば、例えば極端に低い組織率や上部団体がハンセン病関連の組合がすべて加盟する全医労ではなく加盟の容易な国公一般であることは何故かなどに着目し、組合の正当性を検証することで「早まった一般化」に陥らなかったはずだ。しかし、この筆者に限らず、この問題を報じたマスコミは、主体的な取材や検証なしに稲葉君サイドや都労委の発表報道に終始した。「足」も「論理」もないこのような報道は、単なる広報であってジャーナリズムの名に値しないのではなかろうか。
ボクは、「週刊金曜日」に直ちに連絡を取って編集部に面会を申し入れ、9月29日に編集長と担当編集者に面会した。先方の都合に合わせて2か月間も辛抱強く待ったのは、ボクが「週刊金曜日」をこの時代に必要な雑誌と高く評価していたからだ。
しかし、面会した編集長はほとんど言葉を発することもなく時間が来ると「お話は承りました」と能面のように無表情で言った。それでも、担当編集者は「自分はあくまで弱い立場の労働者の側に立つ」と熱心に語ってくれたのが救いであった。それは立派なことではあるが、現実や論理を越えた無邪気で善意な思考停止が、易々と私的な目的で労働組合を利用しようと目論む者や、悪意の組織破壊者やスパイの潜入を手助けしてしまう危険に気が付いてほしいものだ。「労働者の側に立つ」のはいいが、報道が一方で真面目にハンセン病問題に取り組む同じ労働者である改革派の学芸員たちを苦しめていることに思いを馳せることもない。ジャーナリズムの使命はあくまで事実に基づく報道にあるのではないか。話はかみ合わないまま終わった。
資料館問題を大きく報道したのは「しんぶん赤旗」「東京新聞」「週刊金曜日」などの紙誌である。いずれも労働者の見方をもって自任し進歩的と目されているが、取材の基本と論理をないがしろにする姿勢の背後に、こうした善意の思考停止があるのではないか。
2)弁護団の欺瞞
「週刊金曜日」の9月29日号は、稲葉君サイドと笹川保健財団の和解を報じている。
それによると和解は、① 入所者・元患者・家族の意向を尊重しながら資料館を管理運営することを約束、② 雇用関係は存在しない、③ 解決金の支払い、④ 「安全に安心して働く環境を作り、健全な労使関係」を作る、⑤ 施設内で組合活動に不利益な扱いはしない、そのほか資料館の展示や企画に関する「意見聴取会」、運営に対する「要望書」を提出などとなっているようだ。これに対し稲葉君と弁護団は「職場復帰と引き換えに資料館の正常化のための条件を財団に飲ませた」として「勝利和解」を宣言した。
しかし、和解の内容を検討すると、①は現在もそのように運営されているし、④も当然のことで、現在の資料館は健全な労使関係にあり、⑤に関しては資料館に在籍の組合員はわずか一名であって実質的意味はない。その他、資料館の展示や企画に関して「意見聴取会」を「勝ち取った」というが、展示や企画に関しては、全療協、国賠訴訟の原告団、弁護団の代表に有識者を加えた「資料館運営企画検討会」で検討される建付けになっているから運営当局にこれをいうのは見当違いであるし、「要望書」も形式にすぎない。
稲葉君の「資料館を正常化する」という主張には「現在の資料館運営は異常である」という「暗黙の前提」が隠されている。稲葉君の主張を検証抜きに報道することは、読者の無意識下にその「暗黙の前提」を刷り込むことになる。この罠に陥らないためには、繰り返しになるが、現在のハンセン病資料館の現場を取材し前提の検証をすれよい。「資料館正常化」という主張がいかに見当外れであることが確認できるはずだ。
となると稲葉君の「資料館の正常化のための条件を飲ませた」という主張もむなしく響く。労働委員会に救済の申し立てをしながら「中労委や裁判所で勝っても財団は命令や判決に従わずに済ませる方法がある」というのもおかしな話で法的拘束力のない労働委員会の命令と法的拘束力を持つ裁判所の判決を意図的に混同し話をすり替えている。
とすれば、「勝利和解」の成果は実質的に「解決金」だけである。ではなぜ最大の争点であった②の雇用関係の不存在を認めたのかというところに疑問は向く(「週刊金曜日」にその説明はなく、弁護団は言及すら避けている)。伝えられるところでは、旧国鉄とJR間における経営主体が変われば雇用を引き継ぐ義務はないというような労働者の権利を無視した「不当判決」の判例が援用されたという。本当だとすれば、「不当判決」の判例の拡大解釈を受け入れたことで将来に禍根を残すことになり、勝利どころか惨敗ではないか。更に裁判で敗訴となると「解決金」さえも見込めない、ここで手仕舞いにしようという打算が働いたといわれても仕方ない。
あくまで復職を求めていた稲葉君としては納得がいかない「和解」ではなかったか? これを「勝利和解」と強弁する弁護団は欺瞞的と言わざるを得ない。
翻ってこの問題に関しては、笹川保健財団は一貫して学芸員たちの資料館改革に寄り添い、いくばくかの解決金と引き換えに彼らの職場環境を守り切ったこと、およびこの間、厚労省から反論を封じられた(何故?)中で黙々と職務を全うし素晴らしい資料館運営をしてきた現学芸員の諸君に敬意を表するものだ。
(10月6日記 10月15日に大略太字部分を加筆した)