第34回 忘れられた出版社統廃合の重要人物・中興館の矢島一三
河原努(皓星社・近代出版研究所)
■雑著の名店・なごみ堂さんから贈られた一冊
今年(令和6年)の4月6日の10時前、私は高円寺駅に降り立った。その日は西部古書会館で開催される「大均一祭」初日。3日間の会期中、全品が初日200円、2日目100円、最終日は50円(!)という、破格の古書展だ。最終日の終了後には廃棄に出されてしまう二束三文の本の山だが、とにかく値付けが極端なためフトコロを気にせずに買えるのが最大の魅力。
到着するとすでに大勢の古本猛者が集まっていたが、案の定その中に古書展行列組の大先達・ぐろりやさんが居り、隣に立っていたご老人と立ち話をしていた。ぐろりやさんは私を認めると「河原君、彼を知っている? 友人のなごみ堂さん」と紹介してくれた。なごみ堂さんは本連載第21回で訪れた埼玉県蕨市駅前にある古本屋。小さな店構えながら、選び抜かれた雑著が棚を埋めており、「古本乙女」のような幾多の古本猛者たちが一目置く店である。
私は人の顔を覚えられない質の上、お店で売り手と買い手として言葉を交わしたのみで、実質、「大均一祭」が初対面に等しい。そんな私になごみ堂さんは「出版史の本を集めているそうですね。ハッシュウズイヒツという本をご存じですか? よかったら差し上げますよ」と仰った。当初は聞いたことがない本だな、と思ったが、ちょっと考えて、中興館創業者・矢島一三の私刊本の随筆集がそんな名前だったと思い当たった。じきに開場となったので各々、古書展という戦場になだれ込んで行き、なごみ堂さんとはそれきりになってしまった。
後日、会社宛にぐろりやさんから郵便物が届いた。中にはなごみ堂さんから、との添え書きと一緒に矢島一三『八洲漫筆』(昭和33年)が入っていた。「ハッシュウズイヒツ」ならぬ「八洲漫筆」はやはり、矢島の私刊本であった【図1】。
【図1】矢島一三『八洲漫筆』
■『八洲漫筆』とは
『八洲漫筆』は著者・矢島一三の喜寿と金婚を記念して作られた非売品の随筆集。いわゆる“饅頭本”だ。“八洲”は「私のペンネームにて、矢島は八洲(やしま)に通ずるところから名づけたもの」「この小著は私の“そゞろがき”という意味で「八洲漫筆」と題しました」(同書自序より)。200頁余の小著ながら、実はとても重要な本だ。といっても「感謝と反省」「心」「修身道徳」「知恩報恩」「長寿と健康法」等々の、益体もないパートはどうでもよく、自身の仕事を語った「業歴」が戦前に消滅した中興館の事実上の社史をなしているのだ。なお、序文を寄せているのは、同業者として主婦の友社創業者の石川武美、縁のあった著者として歌人の窪田空穂、国文学者の久松潜一、それに国会議員の一松定吉と松永東の5人。
■英語教科書などの中興館を創業
矢島一三は長野県高遠で書籍業を営む矢島金八の長男として生まれるが、3歳のときに両親が相次いで病死。叔父の矢島民也が店の一切を継承することになると、姉と一緒に叔父に引き取られ、その子どもたちと一緒に育つ(のち叔父の二女と結婚)。長野県松本の高美書店で修業した後、明治36年23歳で上京して同店の先輩である上原才一郎が経営する出版社・光風館に住み込みで入り9年間勤務。
44年在勤中に自己出版を許されて、東京・表神保町に中興館を創業した。処女出版は、同郷で知遇を得ていた吉江喬松『旅より旅へ』。窪田空穂、藤森成吉らの文芸書や、島津久基、久松潜一、藤村作らによる国文学書などを出版。また、中等学校の教科書方面にも進出したが、光風館が国語や数学の教科書を出していたことに遠慮して英語に方針を定めた。中には会津八一考案で、その処女出版と思われる英語書取帖『ディクテーションブック』(明治43年)などもある。雑誌は、大正10年かつて光風館で編集していた雑誌『理学界』を譲り受けた他、『新子供』『火山』『地理教育』などを出した。
【図2】創業が明治44年なのに『ディクテーションブック』の刊行年が明治43年になっているのは誤植?
■戦時の企業整備の責任者が矢島
『八洲漫筆』の中で自社の来歴を語った「業歴」同様に重要なのが、業界団体の役職に就いた歴史を回想した「職歴」だ。そして、ここにこの本の肝がある。「職歴」の「9」には「日本出版会業務委員 昭和十八年四月/同企業整備部会長 同十八年六月」とある。日本出版会は、太平洋戦争の真っ最中、昭和18年に出版事業令に基づいて誕生した、出版界を一元化した統制団体。矢島はここで企業整備部会に選任された。
大東亜戦が熾烈となるにおよび、国内には各種の業体に企業整備が行われ、出版界にも波及し来り十六年(筆者注・十八年の誤り)六月企業整備部会が出来、その部会長に選任された(副部会長は講談社の野間省一氏と有精堂の山崎清一氏)。これは大小二千有余の発行所を統合して数を減らすのが目的で、時の東条内閣の言わば至上命令のため、好むと好まざるに拘らずやらねばならぬ仕事であった。(p124)
過去の連載でも触れた「戦時の企業整備」(ここでは出版社の強制統廃合)、その責任者に矢島は据えられた訳である。
大東亜戦争が凄烈の渦の中に突入した昭和十八年、われわれが永年培って来た「東京出版協会」は解散を余儀なくされて「日本出版会」が組織され、国民総蹶起の形相凄じく、出版業も整備統合の要に迫られ、同年四月「企業整備部会」が形成されてその部会長に選任され、会議を重ねて遂に千二百余の同業者を二百足らずに統合廃業させたことは、時の政府が行ったこととは言え、部会長としてその先棒を担いだことは、統合されて廃業した同業者が気の毒で、ひとをやめさせて自分は残る二百の中に入るのが心苦しく、昭和十九年潔よく廃業を決意し、年来愛顧を受けた学界・業界その他知己の人々に汎く廃業のご挨拶をいたし、中興館は創業三十四年にして出版業界からその名を消し去ったのである。(p166)
■戦後の足跡――公職追放となって
戦時中、矢島は業界の要職に就いていたこともあって、昭和23年、G項該当(注1)として公職追放に遭った。私がまとめたレファレンスツール『戦時・占領期出版史資料索引 戦時企業整備・公職追放・ミニ社史』(令和4年)の「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」を引くと該当事項「国民教育図書取締役社長」として掲載されていた【図3】。国民教育図書は教育雑誌の強制統廃合により誕生した出版社で、矢島は設立の昭和15年から19年まで社長をしていたのだった。前述の「戦時の企業整備」でどの出版社がどこに統合されたのかも、同書収録の記事「戦時の企業整備により誕生した出版社一覧 附・被統合出版社名索引」で一目瞭然にわかる。同記事によると、中興館は同じく教育書を手がけていた目黒書店ら6社と育英出版に統合されている(社長は目黒書店の目黒四郎)。
26年公職追放が解除されると矢島は中興館を復興せず、三男の進が設立した矢島書房の相談役に就く一方、日本出版配給(日配)の清算人や更生会社広文館の管財人などを務めた。最初の東京オリンピックの直前、39年8月に84歳で死去。訃報は『出版年鑑 1965年版』にも掲載されている。
なお、矢島一三と『八洲漫筆』については、小田光雄氏も「古本夜話232 光風館、中興館、矢島一三『八洲漫筆』」で言及している。
【図3】「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」と「戦時の企業整備により誕生した出版社一覧 附・被統合出版社名索引」の当該ページのコピー
注1 公職追放に該当する7つのカテゴリーの一つ。7つは、A項=戦争犯罪人、B項=職業軍人、憲兵隊・諜報機関の士官、兵、軍属、C項=極端な国家主義団体の有力分子等、D項=大政翼賛会等の有力分子、E項=日本の領土拡大に荷担した金融機関等、F項=占領地の行政長官、G項=その他の軍国主義者や超国家主義者たち、であり、G項はいってみれば「その他」。
○矢島一三(やじま・いちぞう)
号=八洲
中興館創業者
明治13年(1880年)2月8日~昭和39年(1964年)8月12日
【出生地】長野県上伊那郡高遠町(伊那市)
【学歴】武蔵高校卒→東京大学文学部哲学科〔昭和25年〕卒→東京大学大学院〔昭和27年〕修了
【経歴】長野県高遠で書籍の小売店を創業した矢島金八の長男で、3歳の時に両親が病死したため父の弟である矢島民也が家と店を継承、叔父の子どもたちと一緒に育つ(のち叔父の二女と結婚)。地元の小学校を卒業後、長野県松本の高美書店で9年間修業。36年23歳で上京して同郷の先輩・上原才一郎が経営する光風館に住み込みで入り9年間勤務、44年在勤中に自己出版を許され東京・表神保町に中興館を創業。同郷で知遇を得ていた吉江喬松『旅より旅へ』を皮切りに窪田空穂、藤森成吉らの文芸書や、島津久基、久松潜一、藤村作らによる国文学書などを出版。雑誌は、大正10年かつて光風館で編集していた雑誌『理学界』を譲り受けた他、『新子供』『火山』『地理教育』などを出した。昭和15年教育雑誌の統制により自社や仲間内の雑誌が廃刊を余儀なくされ、新雑誌創刊のために国民教育図書を設立して社長に就任。傍ら、東京書籍商組合評議員、東京雑誌協会幹事など業界団体の要職も歴任、特に東京出版協会では協議員や会計主任としてその運営に深く関与、16年同協会の解消を受けて日本出版文化協会が設立されると同評議員。同協会が改組した日本出版会では出版社の企業整備(統廃合)を担う企業整備部会長に選任され、約1200社の同業者を200社足らずに統合廃業させた。この時「ひとをやめさせて自分は残る」ことを潔しとせず、19年中興館も廃業。この間、一度も約束手形を発行しなかったほどの堅実経営を貫いたという。20年3月出版用紙の配給のために設立された日本出版助成の社長に迎えられる。23年G項該当として公職追放に遭い、26年解除。追放解除後は中興館を復興せず、三男の矢島進が設立した矢島書房の相談役に就く。その後、東京出版信用組合理事、日本出版配給清算人、更生会社広文館管財人、日本出版クラブ評議員などを務めた。号の八洲(やしま)は矢島に通じるところからで、33年喜寿と金婚を記念して出版した私家版の『八洲漫筆』には職歴・業歴の回想があり、中興館の社史に代わるもの、戦時出版界の記録としても貴重である。他の著書に『伸びて行く路』。『高遠町誌 人物篇』では1月6日生。
【参考】『八州漫筆』矢島一三〔著〕/1958.7、『高遠町誌 人物篇』高遠町誌刊行会/1986.3
☆本連載は皓星社メールマガジンにて配信しております。
月一回配信予定でございます。ご登録はこちらよりお申し込みください。