皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第58回 饅頭本の分析書誌学――宝文館創業者の『大葉久吉君追悼録』

河原努(皓星社・近代出版研究所)

 

■いつも〝饅頭本〟と書くけれど

 今月もまた連載の〆切が近づいてきたので「何を書こうかしらん」と目の前の棚を漁ると宝文館の創業者・大葉久吉の饅頭本『大葉久吉君追悼録』があった(現在はNDLデジタルコレクション「図書館・個人送信サービス」で閲読可能)。宝文館については連載第6回、第7回「宝文館の編集者(1)(2)」でも取り上げている。
 この連載、毎回〝饅頭本〟という言葉が登場するが、読者の皆さんは〝饅頭本〟と言われてどれくらい想像できるのだろう、と思ったので、今回は上等な饅頭本の典型である『大葉久吉君追悼録』を、図版を多めに紹介することにした。
なお〝饅頭本〟とは、かつて冠婚葬祭に饅頭を配る風習があり(たとえば葬式饅頭やお祝い事の紅白饅頭)、それに引きつけて何かの記念に作って配布する本をいう。古本業界の業界用語で、詳しくは私が編集した『近代出版研究』3号(2024)に鈴木宏宗さんが「饅頭本(追悼録・遺稿集等)という名称の成立と特色と」を書いているので、是非ご一読いただきたい。楽しく知りたければ出久根達郎『万骨伝—饅頭本で読むあの人この人』(ちくま文庫、2015)などを参照のこと。

■装丁について

 『大葉久吉君追悼録』は318ページ、手元の本には函は無い。布装で背文字は金の箔押し、表紙に大葉家の家紋(と思われる)が入り【図1】、それに銀の箔押しがなされている。本の上部(天)も金箔が貼られたいわゆる“天金”(注1)【図2】。造本は素人なのでよくわからないが、本文用紙も上等な紙を使っている。本を開くと見返しに絵が入っていて、これは同郷の日本画家・川合玉堂【図3】、背と本扉の字は国文学者・山田孝雄の手によるものとある。
 先に饅頭本とは「何かの記念に作って配布する本」と書いたが「小引」によると三周忌を記念に作られたとある【図4】。生前に縁の深かった人たちが追悼録製作の発起人となっていて、当時の出版界の大物たちが名を連ねている。奥付には「昭和10年(1935年)11月8日発行、非売品」とあるが【図5】、発行日11月8日は大葉久吉の命日、「非売品」とあるので関係者に配布されたのだろう。
 口絵には本人の遺影と、生前の肖像や家族写真、店舗、自宅で開催していた稲荷祭り、葬儀の写真などが8頁も収められている【図6】【図7】。

【図1】表紙に家紋(おそらく)があり銀の箔押し、背は山田孝雄の揮毫で金の箔押し

【図2】本の天(上部)に金の箔押し(天金)が施されている。小口は普通

【図3】同郷の川合玉堂の日本画があしらわれている

【図4】本書製作の由緒書き

【図5】奥付に非売品とある

【図6】遺影。画像はその前ページのパラフィン紙ごとスキャンしたもの。パラフィン紙には法名が印刷されている

【図7】遺影の次のページ。武藤山治(1867-1934)は実業家、衆議院議員。

注1 本の上部(天)に加え、本の下部(地)と小口にも金箔を貼ったものを〝三方金〟という。

■大葉久吉君小伝

 目次を見てみよう【図8】。最初に「大葉久吉君小伝」がある。およそ30頁で、ここを読むと故人の仕事がわかるようになっている。〝経歴作成者〟としての私が必要とするのはここで、この部分を要約すると故人の経歴が出来上がる。他に饅頭本では小伝代わりに「(略)年譜」を付するものがあり、小伝・年譜の両方を備えた本もある。年譜があれば見取り図としてもう少しラクに経歴を作られるのだが、本書には無い。残念である。
 大葉久吉は明治6年(1873年)岐阜県岐阜市中竹屋町の生まれで、生家は〝大佐(だいさ)〟と通称される旅宿業を営んでいた。岐阜中学4年生の明治24年10月28日早朝、町を突如大地震が襲う。濃尾地震と言われる、世界でも最大級の内陸直下型地震である(マグニチュードは8.0)。岐阜市は市街地の大半が火事で焼き尽くされる甚大な被害を被り、〝大佐〟もその例に漏れなかった。久吉の父は、引き続き中学に通わせることはできないが、学業優秀な久吉を惜しんで学資の負担が少ない師範学校になら、と考えていたところ、常連客の星野松次郎が訪ねてきた。星野は名古屋の大物書籍商(星野書店創業者)で、話を聞くと「久吉君の天稟より見るも、早く商界に投じて身を立てることが良案」であると父を説得、父は一切を星野に委せることにしたのだった。星野は同じく〝大佐〟の常連客である大阪書籍商界の有力者・岸本栄七(吉岡平助書店支配人)に話を持ちかけ、久吉は吉岡平助書店の商店員となった。久吉18歳の時である。

【図8】目次の2ページ目と3ページ目。1ページ目(と2ページ目)は【図6】【図7】を含む口絵写真の説明

■宝文館を創業

 吉岡平助書店は宝文軒の商号を持つ、出版と卸取次業を兼営する大阪の老舗書店。久吉こと通称〝久七〟どん(注2)は店内で頭角を現し、明治33年の吉岡平助書店東京出張所開設に当たって責任者として上京。34年独立に当たって大阪の本店に「従来の宝文軒という商号は出版業として適当ではないので宝文館と改称した方がよい」と意見具申、これが通って大阪・東京とも宝文館に名を改め、久吉は東京宝文館の創業者となったのだった。
 処女出版は35年3月刊行の横山徳次郎著『日本公民読本』。「通俗平易なる法制経済教科書の需要が将に興らんとしつつある矢先であった」ため大当たりをとり、〝公民読本〟は各社から陸続と刊行された。続けて出した高桑駒吉『日本歴史辞典』(注3)もヒット。以後、教科書類を中心に法律・経済・商業の関連書の版元として雄飛。昭和2年に株式会社に改組した。

 

■〝滝野川の大御所〟――業界を超えて重役を歴任しメディアへも

 5年にはラジオ放送によるテキスト需要を見込み、教育/教科書出版畑の大手版元に働きかけてテキストを一元的に販売する目的で日本放送出版協会(現・NHK出版)の設立に尽力、その初代社長に就く。同年には東京書籍商組合の副組長にも就任、業界でも重きをなす。
 一方、本業の出版のみならず鉄道・土地・鉱山・紡績・電気・金工・木材など様々な分野に関与、重役として経営に参画した会社は50社をくだらないと言われ、その点から見ても出版界では異色である。新聞広告にも斡旋尽力して新聞各社の広告部員から〝滝野川の大御所〟と称され(東京・滝野川に居住のため)、日本広告倶楽部や日本広告連盟の創立に参画して両方で理事を務めるなど、晩年は広告業界でも活躍した。

 

注2 「吉岡書店では名の下に「七」の字をつけたもので、皆「何七さん」と言つた通称があつた」(p311)。昔の商家での奉公人の呼び名として、よくあった習慣。

注3 『日本公民読本』『日本歴史辞典』とも国立国会図書館未所蔵のため確認できず。『日本歴史辞典』はリンク先の書誌情報では「歴史及地理講習会編」となっているが本書の中では複数の人が「高桑駒吉の」と書いているので、実際の執筆者は歴史学者の高桑駒吉(1868-1927)と思われる。

■諸家寄稿追悼文

 そのためだろう、続いて「諸家寄稿追悼文」が概ね到着順で130名分もある。これは饅頭本の中でもかなり多い方と思う。最初の1ページだけでも【図9】、坂本嘉治馬(冨山房)、高岡安太郎(高岡書店)、星野松次郎(星野書店)、目黒甚七(目黒書店)、三樹退三(明治書院)、守屋荒美雄(帝国書院)、小林又七(川流堂)、上原才一郎(光風館)、山本留次(博文館)、菊竹大蔵(金文堂)と当時の大物出版業界人が名を連ねている(他の頁にも著名業界人が続々。目次または追悼文の文末に肩書が書かれている場合もあるが本書には無かった)。60歳で亡くなったため、業界に入るきっかけとなった星野松次郎(1862-1941)や、処女出版の著者である横山徳次郎(1869-1944)といった年上の人たちも混ざっている。朝永三十郎(1871-1951)は哲学者で、ノーベル物理学賞を受けた朝永振一郎の実父だ。

【図9】目次の4ページ目と5ページ目。大物出版業界人の名前が並ぶ

■歌舞伎座と久吉――月刊雑誌≒演劇興行説

 意外な人が混ざっているところが追悼文集の面白いところで、例えば松竹創業者である大谷竹次郎が「大葉久吉氏と歌舞伎座」という一文を寄せているが(p126)、これは歌舞伎座株式会社と久吉の関係を詳述している。「本屋と芝居・誰が観ても関係外の商売のやうであるが、同氏は『月刊雑誌の発行と演劇興行とは、其性質は略同一である』とよく云はれたが、之れは実際其の通りであると私は思ふ」という辺りなど、面白さを感じる部分である【図10】。
 小林又七の追悼文には元々歌舞伎座の取締役であった自分の後任に久吉を推したと(p64)、荒木丈太郎の追悼文には「松竹の重役の多くは所謂社内重役で大谷社長に頭の上らない人々である。発言権の自由な社外重役は大葉さんと波多海蔵氏位であつた。大葉さんが大谷社長に第三者として公平な意見を述べ社内重役の言ひ難ひ点を露骨に言へる立場であつた」(p111)とあり、田中良の追悼文「雑誌『歌舞伎』発行と裏梅会」【図11】などを組み合わせると、久吉と歌舞伎との関係が立体的に立ち上がってくる。

【図10】大谷竹次郎(松竹創業者)が寄せた追悼文

【図11】田中貞(歌舞伎座支配人)が寄せた追悼文

■追悼文の類型と楽しみ

 ちょっと褒めて短く済ませている、明らかに義理で書いている人や【図12】、詩歌を寄せる人【図13】もよく饅頭本で見かける。連載第55回でも触れたが、人柄などが書かれているのも饅頭本の特色である。「業界でも林さん〔筆者注・林平次郎。出版社六合館主人で業界の大御所であった〕は一種の親分肌で、これは世話をしてもよく行き届くといふ行き方であるが、大葉さんはもう少しタチの変った親分肌である。大葉さんはどつしり構へて、あとは俺が引き受けてやるから一つやつて見ろと人をけしかける(、、、、、)方である。林さんが教導型(、、、)なら大葉さんは後楯型(、、、)とでもいふのであらう。この方が親分型としての貫目はある」(p93)などと書かれているのを見つけると、なるほどと思う。【図14~16】に全文引用した田沼秀夫の文章のように、自身の来し方と引きつけて書いている場合は田沼自身の経歴を書く際の好個の材料になる。玉石混淆の追悼文の中から、故人(のみならず執筆者自身)の有用な記述や面白いエピソードを見つけることこそが、饅頭本を読む何よりの楽しみである。

【図12】小島長蔵(小島印刷会社社長)の追悼文

【図13】伊藤貫一(浅草の小売・清水屋の主人)は短歌を寄せている

【図14】本書でも指折りの内容の田沼秀夫(誠文館主人)の追悼文。手前は柏佐一郎(大阪宝文館社長)の追悼文末尾

【図15】 森山章之丞(同文館)、三樹一平(明治書院)との緊密な関係を証言している

【図16】自分の創業や久吉の性格にまで筆が及び、追悼文として申し分ない内容である

 

○大葉久吉(おおば・ひさきち)
宝文館創業者、日本放送出版協会初代社長
明治6年(1873年)5月17日~昭和8年(1933年)11月8日
【出生】岐阜県岐阜市竹屋町
【学歴】岐阜中〔明治24年〕中退
【経歴】生家は岐阜市で〝大佐〟と通称される旅宿業を営む。岐阜中学4年生の明治24年、濃尾地震で生家が没落。生家の常連客であった星野書店創業者・星野松次郎の仲介で、同じく常連客の大阪書籍商界の有力者・岸本栄七を紹介され、18歳で宝文軒吉岡平助書店に入る。やがて頭角を現し、明治33年東京出張所開設に当たって責任者として上京。34年独立に当たって大阪の本店に「従来の宝文軒という商号は出版業として適当ではないので宝文館と改称した方がよい」と意見具申、これが通り大阪・東京とも商号を宝文館に名を改め、東京宝文館を創業。上京当時は同文館・森山章之丞、明治書院・三樹一平と親しく交わり、兄弟同然の間柄に。処女出版は35年3月刊行の横山徳次郎著『日本公民読本』で「通俗平易なる法制経済教科書の需要が将に興らんとしつつある矢先であった」ため大当たりをとり、その後各社からから陸続と刊行された〝公民読本〟の元祖となる。以後、教科書類を中心に法律・経済・商業の関連書の版元として雄飛。大正11年若い女性向け月刊誌「令女界」を創刊、姉妹誌である『若草』ともども非常な人気を博した。昭和2年株式会社に改組して社長。5年にはラジオ放送によるテキスト需要を見込み教育/教科書出版畑の大手版元を糾合、テキストを一元的に販売する目的で日本放送出版協会(現・NHK出版)を設立して初代社長。同年東京書籍商組合副組長に就任、業界でも重きをなした。一方、本業の出版のみならず鉄道・土地・鉱山・紡績・電気・金工・木材など様々な分野に関与、歌舞伎座、日本書籍、日本製紙、秀英舎、中外印刷、日本ノート学用品など経営に参画した会社は50社をくだらないと言われる。また、新聞広告にも斡旋尽力して新聞各社の広告部員から〝滝野川の大御所〟と称され(東京・滝野川に居住のため)、日本広告倶楽部や日本広告連盟の創立に参画して両方で理事を務めるなど、晩年は広告業界でも活躍した。
【参考】『大葉久吉君追悼録』故大葉久吉君追悼録編纂会【編】/1935.11


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