皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第55回 花は桜木――同人雑誌『直』から岩波書店の塙作楽へ

河原努(皓星社・近代出版研究所)

■“探書名人”の手ワザから

古本フレンズの鈴木宏宗さんからメールを頂いた。「西部古書会館で出版人関係の本を買いました。『直』(直の会)25号、1985.10に、追悼小特集「唐木邦雄」が載っています。今度、お会いする際にお見せします」。

近代出版研究所周辺はよく連れだって古本市に行くが、小林昌樹さん・森洋介さん・鈴木さんの3人のうちで、一番掘り出しが多いのは鈴木さんだろう。森さんが学術書を手に小林さんに「これさあ、××のところが実際はメディア論になっているんだよね」などと話しかけている横で、丹念に薄物をより分けているのが鈴木さん。

古本者も有段者になると、背文字のない本や薄い冊子、饅頭本に食指を動かすようになるが、鈴木さんの探書ぶりを見ていると「よく拾い上げるなあ」といつも感心する。ちょっとした私家版の論文集を手に取ってさっと目次に目を走らせ「ここに図書館の利用について書いてありますね」とか。

お借りした季刊『ちょく』25号【図1】も、中綴じ50ページの薄い同人雑誌。自立する本ではないので、書棚にあっても本と本の間にひっそり挟まれていたか、乱雑に積まれた雑誌や薄物の山に紛れていたのを見つけだしたのだろう。キノコ狩りやタケノコ掘りの名人のようなもので、鈴木さんは私の知る中で一番の“探書名人”である(注1)。

【図1】『直』25号の表紙。中綴じで表紙に目次、裏表紙に奥付情報が書かれている。

注1 『本の雑誌』2023年6月号の巻頭カラー頁「本棚が見たい!」で鈴木さんの自宅本棚が紹介されている。薄物は写っていないが。

■同人雑誌『直』について

『直』は昭和52年創刊の季刊誌、『直』発行所または直の会が発行していた。編集発行人は後藤直、発行所は中央区八重洲のゴトウ歯科医院内とある。3頁に掲載された「悲報」(注2)という日航ジャンボ機墜落事故に関する文章を読むと、後藤氏は歯科医のようだ。

CiNii Booksを引くと所蔵機関は3つ、国立国会図書館も4冊だけ所蔵しており(うち3冊は布川文庫)、以上4機関のうち3機関が29号(1987年刊)を所蔵しており、以降の号を持っている機関がないので29号が最終号と思われる。

目次は表紙にすり込まれているが、私がパッと見て名前がわかったのは『週刊読書人』編集長を務めた長岡光郎、戦争末期の言論弾圧事件・横浜事件に巻き込まれた元中央公論社社員の木村亨。一番有名なのは在日コリアンの小説家・金達寿か。何より「岩波物語(5) 塙作楽」とあるのが目に付く。この雑誌、よく古本でみかける塙の『岩波物語 : 私の戦後史』(塙作楽著作刊行会、1990)【図2】の初出誌なのか。それにしても出版関係者の寄稿が多いので、他の号も探してみよう。

【図2】『岩波物語』書影。画像は「日本の古本屋」より。

注2 伊勢ヶ浜親方(元大関清国)一家と家族ぐるみの付き合いがあり、航空機事故で亡くなった妻と長男・長女の3人の歯を2日前に治療したばかり、という一文である。

■今回、唐木邦雄は取り上げません

さて、『直』の唐木邦雄追悼小特集である。「名前に見覚えはあるが何の人だっけ?」と、私が編集した『出版文化人物事典』(日外アソシエーツ、2015)を引くと「図書新聞」編集部長、大正5年生の昭和60年没とある。参考文献に『回想唐木邦雄』(金達寿編、審美社、1987)と『塒 唐木邦雄文集』(唐木邦雄著、審美社、1987)の2冊が挙げられている。唐木の項目は自分が書いたが、経歴の書きぶりを見ても『回想唐木邦雄』を参照したのがわかる。

「国立国会図書館サーチ」で検索すると、『回想唐木邦雄』『塒 唐木邦雄文集』とも、現在では「図書館・個人送信サービス」で閲覧できた。『回想唐木邦雄』の目次を見ると、『直』に掲載された追悼文全てが含まれていた。この追悼小特集を拡張して1冊の追悼文集としてまとめたものが『回想唐木邦雄』なのだろう。そう考えると、唐木の記述の大幅な手直しは難しいだろうからと、今回唐木を取り上げるのは止めにした。あと、デジコレは読みにくいし……。

■『追悼 塙作楽さんを語る』は『岩波物語』の著者追悼録

そこで「岩波物語」を連載していた塙作楽である。この人、追悼文集が出ているが、手にしたことはなかった。『出版文化人物事典』の記述は、参考文献に挙げてある『岩波物語』で書いた。思い立って「日本の古本屋」を検索したら追悼文集が1冊だけ出品されていたので、小林所長に注進して購入してもらった。

『追悼 塙作楽さんを語る』(塙作楽さんを偲ぶ会、1994)【図3】。国会図書館未所蔵、茨城県立図書館、茨城大学附属図書館、法政大学図書館、神奈川近代文学館くらいにしか所蔵のない珍しい本だ。『岩波物語』の著者だけあって、印刷は岩波書店の書籍を数多く手掛けてきた精興社。箱付きで格調高い造本である。目次を見ると丸山真男、寺田透、網野善彦といった錚々たる面々が寄稿している。

【図3】『追悼 塙作楽さんを語る』外函と本体

■花は桜木――戦中の教職就任挨拶から見える信条

塙作楽は東京・京橋の生まれ(本籍地は茨城県)。父は警察官、母は小学校教師。幼い頃に兄、中学時代に父と弟を亡くし、戦争中に空襲で母と姉と姪を失い、出征したもう一人の弟もニューギニアから還らなかった。東京府立一中では丸山真男(思想史)、猪野謙二(明治文学)らと同級で、仲良く付き合った。

一高文科甲類から東京帝国大学文学部東洋史学科に進み、卒業後の昭和15年4月、茨城県立日立中学校で地理・歴史の教師となる。当時の教え子・石川俊之(のち日立総合病院名誉院長)の回想によると

 

先生が赴任されたのは昭和十五年四月だったと思います。新任の先生の紹介は講堂で行われ(中略)、お辞儀も、当時は戦時下に入って来ましたので軍隊式となって来ていましたのですが、先生は恥ずかしそうに頭を一寸下げられてから“私は塙作楽と云います。花は桜木からとったと云われています”とまず自己紹介されてから、最後に“ベストを尽したいと思います”と云われました。その頃の挨拶の言葉には時代の背景もあったのでしょうが、横文字を入れると云う習慣が無かったので、私にはその“ベスト”と云う言葉が妙に新鮮に響いて、五十年経った今でも耳の底に残っています。

『追悼 塙作楽さんを語る』p40-41

とのことで、授業も全部英語で外国地理を教えたという。

■実はあまり長くない岩波時代――戦後新入店員の第1号

2年足らずで教職を辞した後、南洋貿易会、貿易統制会、東亜研究所、三井精機工業を点々とした。幸い、兵隊には取られなかった。昭和20年の敗戦直後に三井精機工業を退社。年譜には「何のあてもなかった」とあるが、秋には一高で1年上級であった伊藤律(注3)の紹介で岩波書店に入った(戦後新入店員の第1号)。ちなみにこの頃の岩波書店はまだ会社組織ではなく個人経営の店で、古い人たちは「会社」といわず「お店」と言っていたそう。

同年末に創刊された雑誌『世界』の編集に従事。友人の丸山真男の論文「超国家主義の論理と心理」の産婆役となり、これが21年5月号に巻頭論文として掲載されると、丸山は一躍注目の人となったのは有名な話だ。

塙は同社で初の共産党員として活動し、岩波書店従業員組合委員長も務めた。23年『世界』編集部を離れた後は『岩波講座 教育』(全8巻)、『日本資本主義講座』(全10巻・別巻1)、『岩波講座 文学』(全8巻)、『岩波講座 文学の創造と鑑賞』(全5巻)などの編集に関与している。

36年退社後は両親の郷里である茨城県に移り、県史編纂室長として『茨城県史』編纂事業を牽引する傍ら、県内の数々の自治体史の編纂事業に参加。小説も書き、茨城県文芸協会の初代会長なども務めている。

岩波時代(=編集者時代)が16年であり、それから後の茨城県での活動期間の方が長い。実は『追悼 塙作楽さんを語る』所収の追悼文は幼なじみ・学友・教え子以外はほぼ県史関係者で、全体のおよそ7、8割にあたる。岩波時代の著者や関係者の追悼文は(旧友枠の丸山真男を除けば)一つもない。『岩波物語』の著者と認識していたので意外に思ったが、一高で3年間同級ながら全く面識が無かったという文芸評論家の寺田透は「岩波書店の全容を描くことから遠いのに『岩波物語』を名のるのはよろしくないと、旧友からまで批判されたというかれの遺著」(p29)と記していた。

 

注3 1913~1989。日本共産党の幹部。戦前ゾルゲ事件の摘発を招いたとされ、戦後マッカーサーによる公職追放で地下に潜り中国へ密航。のちスパイとして党を除名され、中国で約30年間にわたって幽閉生活を送った。1980年に突然帰国して一躍注目を集める。

■追悼文集から垣間見える人柄について

『追悼 塙作楽さんを語る』の口絵には4頁分の故人の写真が収められている。巻頭のポートレートを見たときに「気難しそうな顔をした人だな」と思った【図4】。

先に引いた寺田の追悼文には「塙を僕は僕に劣らず偏屈なところのある、孤独癖のつよい、ひとの好き嫌いも小さくない人間と思つてゐて」(p26)、「かれがその本(河原注・『岩波物語』)の中で自認してゐるやうに「意識過剰」であり、さういふ人物の常として不平家だつたこと、かれが自分の居場所は今のここではなく、他のどこかにあるのではないかといつも考へるひとだつたらしいことは、告別式の晩の酒席のスピーチでも述べたやうに、そう見る他ないことのやうに思ふ」(p28)ともあった。

会ったことのない人の性格を決めつけるのは良くないが、追悼文を読み進めるうち、気難しそうな人という印象はいっそう深くなった。追悼録が出るような人なのだから、それだけの人でないのはもちろんだが。年譜や業績だけではわからない、その人の人間性を彷彿とさせるところが、旧知がたくさん書いている追悼文集のよいところだろう。

【図4】『追悼 塙作楽さんを語る』巻頭より

 

○塙作楽(はなわ・さくら)

編集者 茨城県歴史館史料部長

大正2年(1913年)10月1日~平成2年(1990年)11月7日

【出生】東京市京橋区本港町(東京都中央区)

【学歴】東京府立一中〔昭和6年〕卒、一高文科甲類〔昭和9年〕卒、東京帝国大学文学部東洋史学科〔昭和15年〕卒

【経歴】父は警視庁巡査、母は麻布小学校の訓導。一高、東京帝国大学文学部東洋史学科に学び、卒業後は日立中学教諭、貿易統制会、東亜研究所、三井精機工業などに勤務したが、敗戦直後の昭和20年秋、一高で1年上級であった伊藤律の紹介で岩波書店に入社(戦後新入店員の第1号)。同年末に創刊された雑誌『世界』の編集に携わり、21年5月号に東京府立一中時代からの友人である丸山真男の論文「超国家主義の論理と心理」を掲載させた。また、同社初の共産党員として活動し、岩波書店従業員組合委員長も務めた。23年『世界』編集部を離れた後は『岩波講座 教育』(全8巻)、『日本資本主義講座』(全10巻・別巻1)、『岩波講座 文学』(全8巻)、『岩波講座 文学の創造と鑑賞』(全5巻)などの編集に関与した。36年退社。37年記録映画製作のMONプロダクションに入り、企画・宣伝部長。38年本籍地である茨城県の嘱託、39年からは同職員となり、県史編纂室長として『茨城県史』編纂事業を牽引。また、県内の数々の自治体史の編纂事業にも参加した。48~55年茨城県歴史館史料部長。この間、31年小説の処女作「遺品」を金達寿に手渡し、『新日本文学』8月号に掲載される。以後、『リアリズム』『現実と文学』などに作品が掲載され、47年小説集『暗い夜』を刊行。49年茨城県文芸協会の発足に伴い初代会長に推され、『茨城文学』を主宰した。他の著書に評論集『地方文化論への試み』、回想録『岩波物語 私の戦後史』があり、没後の平成6年『追悼 塙作楽さんを語る』が編まれた。

【参考】『岩波物語 私の戦後史』塙作楽著作刊行会/1990、『追悼 塙作楽さんを語る』塙作楽さんを偲ぶ会/1994


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