皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第4回 ささやかだけれど、重要なこと(イラストレーター カナイフユキさん)

 

冬は肌が乾燥するので、寝る前にシャワーを浴びた後、何種類もの液体やクリームを顔に塗る。無印良品の拭き取り化粧水、キュレルの化粧水、The Ordinaryの美容液、友達が教えてくれた小ジワ改善クリーム(朝はiHerbで買ったInstanaturalというブランドのものを塗り、夜は銀座にある美容皮膚科で売っているものを塗る。夜用は紫外線に弱いので昼間は使えない)、The Ordinaryの乳液、The Ordinaryのオイル、キュレルの保湿クリーム……。ときどきこれらを塗る前にパックもする。種類が多すぎて、ときどき順番を間違えてしまう。でも、ここまでしないと乾燥のせいでシワが目立ったり、肌が荒れたりする。細かくて面倒だけれど、どうでも良いこととは思えない。むしろこれが生活の中でかなり重要なことかもしれないとすら思う。毎日同じ行動をすること。自分で自分の世話をすること。それは、精神にある程度安定をもたらしてくれる。

 

冬の終わり、寒さがようやく緩み始めた頃に、リディア・デイヴィスの小説『話の終わり』(作品社、2010年)を読んだ。晴れの日が増えて、日差しの暖かさを感じられるようになった頃だった。それでも、出かけるときにはひざまで隠れる長い厚手の靴下をはいていたし、寝るときには裏起毛のパーカーを着ていたので、2月の終わりか3月のはじめ頃だったと思う。くねくねと蛇行するように、主題から逸れては戻るのを繰り返す小説だった。語り手の女性が思い出す別れた恋人との記憶と、それをもとに小説を書こうとしている様子、そしてその周辺にある瑣末な記憶が並列に語られ、交差して、ないまぜになっていく。彼への執着が消えた“話の終わり”からはじまり、出会った頃や熱い気持ちがあった頃の記憶を経て、失恋の痛みが語られるのだけれど、ところどころに現在のパートナーとの暮らしぶりやかつてのルームメイトが食べていたものの描写などが入り込んできて、一直線に進まないストーリー展開がとても興味深かった。特に、「彼と喧嘩をしたのは4回だったと思う。あれ、やっぱり5回だったかも。」という調子で、記憶があいまいになっていく様子が細かく描写されている点に強く惹かれた。そもそも、人の記憶とはそういうもので、何かを思い出すと別の何かを思い出すし、ところどころ欠けたり、都合良く書き換えたりしているものだと思う。でも、それをありのまま小説にしてしまうやり方を新鮮に感じた。枕元に置いて、寝る前や起き抜けに読んだのも良かった。だらだらと語られる他人の記憶を読むのは、深夜ラジオを聴いているようで心地よかった。

瑣末な出来事を精緻に語る、そんな語り口に、私はときどき強く惹かれてしまう。枝葉の部分に重要な要素が宿ると信じているのかもしれない。

 

何を書くべきで何を書くべきでないのか、何を“文学”とするのか、誰がそれを決めるのか――それは、私が装画を担当したケイト・ザンブレノの『ヒロインズ』(C.I.P.Books、2018年)でも重要なテーマだった。この本は著者のケイト・ザンブレノのブログから発展したもので、それは、作家の妻としての立場に追いやられ自分自身の創作ができなかった女性たちや、文学作品に登場する女性たちについての共感や想像を書き連ね、彼女たちを招いて架空のコミュニティを作るような内容だった。本の中では、スコット・フィッツジェラルドが妻・ゼルダをモデルにして書いた小説が“名作”と称えられる一方で、ゼルダ自身の書いた小説が正当な評価を得られなかったことについて、かなりのページが割かれている。当時の女性蔑視的なパブリックイメージや、男性優位の価値観を持った評論家たちのせいではないかとザンブレノは分析し、女性たちの声は消されてしまうのか、私の書くものも“文学”にはなり得ないのだろうかと疑問を綴る。

今でも文芸分野における男女の非対称性は消えていないのではないかと、人と話したり、仕事で出版業界のことを見聞きするたびに思う。たとえば、女性の書いたエッセイが“赤裸々”“生々しい”と揶揄されがちな一方で、男性の書いたエッセイは“冷静で理知的”とか、告白調であっても“大胆”“豪快”のような好意的な評価を受けやすい傾向があると聞いたことがある。女性の書く文章は身近な出来事が題材で、男性のように豊かな想像力がないからつまらない、というような乱暴な意見も聞いたことがある。身近な題材はたいてい重要な社会問題とつながっているし、ジェンダーによって差異が生まれるという考えも思い込みではないか疑う必要があると思う。

何を書くべきで、何を書くべきでないのか? これは、自分の経験を基にエッセイ的な文章を創作している人間として、男性として、たびたび考えることでもある。

先月、4月22日から渋谷PARCOで開催するイラストの個展に合わせて販売するための短編小説を書いていた。その中で、PARCOが協賛しているイベントや、施設内のテナントを批判したり揶揄したりする文章を書いたところ、修正を求められた。当然といえば当然だ。直接そのイベントや店を批判したかったわけではなく、人々の欲望を煽って消費を促す一方で、人々から労働力を搾取するファッション産業への疑問や戸惑いを表現したかったのだけれど、仕方なく受け入れた。今までは個人でzineを発行していたので、企業と協働するとこういうことが起きるのかと勉強になった。それに、冷静に考えれば、あの修正に応じなければ何かしらトラブルが起きていただろう。それを回避できたのだから、むしろ良かったと思うべきなのかもしれない。でも、正直な思いを“書くべきでない”とされてしまうのは、残念でもある。特にセクシュアル・マイノリティとしての経験や想いを思い切って書こうとするときには……。

 

4月に入り、入稿まで済んだので、新宿武蔵野館でやっていたパゾリーニ特集へ行った。映画を観に行くのは久々だった。この日観たのは『テオレマ』(1968年)で、ブルジョワ家庭にやってきた美しい青年が家族全員を魅了し、家庭が崩壊してしまうという寓話的な作品だった。父親や息子までもが同性愛に目覚めてしまったと取れる描写が興味深かった。

映画のクライマックスのあたりで、突然、後方の席の誰かが小声で怒鳴りながら、バタバタと足音を立てて出て行くのが聞こえた。何が起きたのかわからなかったけれど、胸がざわついた。映画を目で追いながら、もしかしたら痴漢だったのではないかという考えが頭に浮かんできたけれど、追いかけるタイミングを逃してしまい、何もできなかった。

映画が終わってから急いで劇場を出て、パンフレットの購入をすすめているスタッフに「何かトラブルがあったみたいですけど、大丈夫でしたか?」と聞いてみると、「はい、大丈夫でした。」とそっけない返事が返ってきた。

映画館を出ると、出入り口のところでスーツを着た初老の男性が警察官に手錠をかけられていて、その横で私服の警察官がどこかに電話をかけていた。やはり痴漢だったのかもしれない。次はすぐに追いかけようと反省した。

 

その日の昼間、自分をコントロールできなくなることについて考えていた。春は精神に不調をきたしやすいと聞いたことがあるので、毎年気をつけている。忙しかったり、ストレスの強い環境下に居続けたりすると、心に余裕がなくなり、自制心が利かなくなる。そこに向かってしまう道筋自体は分かる気がするので、他人事とは思えない。

思い通りに行かないことが続くと、何かひとつでも思い通りにしたくなり、それが加害欲につながるのだと思う。そこで他人を傷つける人もいれば、自分を傷つける人もいる。普段から見下している対象を傷つけ、征服し、支配したいと思ったりする。あるいは自分を飢えさせたり、太らせたり、つらい状況下に置いたりして、自分の惨めさを確認したいと思ったりする。自傷の理由は複雑で、周囲に気づいて欲しくてやってしまうだけでなく、つらい状況に慣れすぎてそれが安心感につながってしまうパターンもあるのではないかと思う。私は、イライラして他人のことも自分自身のことも傷つけた経験があるように思う。

生活のために忙しく働いて、来月の家賃と光熱費がきちんと払えるのか心配して、税金の心配もして、将来のことも考えて、その頃世の中がどうなっているかを想像しながら、心に余裕を持つのは難しい。でも、自分のことも他人のことも傷つけないように、できる限りの努力をしなければいけない。特に春先は。

 

そんなことを考えながら駅を歩いていると、歩いている人の服装が目を惹いた。淡い水色のジーンズに白いTシャツをタックインして、紺色のブルゾンを羽織った若い男性だった。ああ、ああいうシンプルな服装もいいなと思いながら、私はすれ違いざまにその人を見つめた。きっと年下だろうな、街を歩いている人がどんどん年下になっていく、それはそうだ、自分ももうすぐ30代も半ばなんだもの……。と、同時に、そのとき考えていたのは、週末に友達と食事するときに着ていく服のことだった。それは送別会で、彼女は配偶者の仕事の都合で5年間アメリカに行くことになっている。たぶん、会えない間、彼女の記憶の中の私はその服装になるはずだから、きちんとした服を着ていかなければ。さっきの若者みたいな服、持っていたっけ?  手持ちの紺色のブルゾンは少し薄すぎるし、よれた古着だからデニムと合わせると野暮ったい。黒いシャツジャケットがあるけれど、あれはウールだから4月に着るには暑苦しいかも。電車の中ではずっとそれについて考えていた。

家に帰るともう12時近かったので、急いでシャワーを浴びて寝る準備をした。無印良品の拭き取り化粧水、キュレルの化粧水、The Ordinaryの美容液、小ジワ改善クリーム、The Ordinaryの乳液、キュレルの保湿クリームをもちろん塗った。汗ばむ陽気になってきたので、オイルを塗るのはやめて、乳液も量を減らした。油分が多すぎても肌が荒れてしまうから。そうやって肌を、自分の体を、心を、少しでも思い通りにして、気分良く過ごしたい。こうして細かいルールを遵守することは、私から絶えず心の平穏を奪い続ける世界に対してのささやかな、しかし重要な抵抗でもある。

 


カナイフユキ(かない・ふゆき)

1988年長野県生まれ。イラストレーター・コミック作家として雑誌や書籍に作品を提供する傍ら、自身の経験を基にしたテキスト作品やコミックなどをまとめたzineの創作を行う。主な仕事にケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』(C.I.P.Books)の装画など。自身の作品集としては、2015~2017年に発表したzineをまとめた『LONG WAY HOME』がSUNNY BOY BOOKSから発売されている。

 

★ カナイフユキ 個展 『ゆっくりと届く祈り』開催 ☆
本日4/22(金)より5/9(月)まで、渋谷PARCO B1F GALLERY X BY PARCOにてカナイさんの個展が開催されます! 渋谷パルコで実施するダイバーシティ企画「あいとあいまい」の一環として、自身の体験を基に、現代社会を生きる上で誰もが感じる「生きづらさ、社会が抱える個性や多様性についての課題」と向き合う作品が展示されます。

展示作品のほとんどが描きおろし作品となり、​会場では展覧会開催記念グッズやミニブックを販売。ミニブックには展覧会に合わせカナイ氏自らが執筆した短編小説や、小説内容をイメージしたイラストなどの作品を収録いたします。

詳細は公式HPをご覧ください。

 

 

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