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第57回 小学校中退で文部省から留学!――大戦末期に〝文功〟を祝われた日本経国社の藤原喜代蔵

河原努(皓星社・近代出版研究所)

 

■敗戦を挟んで出版された饅頭本をわたされて

 先月、小林昌樹所長から「こういう本を買ったので、メルマガに書いてよ」と一冊の本を手渡された。どうやら私が業界紙『文化通信』創刊からのバックナンバーをめくり続けていた時に発見した出版社社史の解題書誌【図1】を見ていて気がついたらしい。「日本経国社って、阪本一郎の『読書指導の研究』(注1)を出した出版社でね。「日本の古本屋」に出ていたので、すぐに注文したのよ」。小林さんから「これ、書いてよ」と言われるのは二見書房を取り上げた連載第17回以来だなあ。
 手渡された本のタイトルは『藤原喜代蔵文功記念録』【図2】。敗戦後の昭和22年(1947年)に出された本だが、中身は戦争末期、昭和19年11月に開催された著者の大著『明治大正昭和教育思想学説人物史』(全4巻、1942-1944)の祝賀晩餐会を記念したもの。序盤は晩餐会での来賓祝辞を集め、中盤に同書4冊の「序文に代えて」を載せ、末尾に諸家の同書への感想をまとめるという3部構成になっている(注2)。森洋介さんからは「ふつう文功って言わないでしょ? これは武功に対して〝文功〟って言っているんだよ」と教示を得た。なるほど戦時的価値観だ。
 本来、同書は昭和20年初頭に出る予定だったが「本記念録は、昨二十年春一度出来上がつたのでありますが、不幸にして同年三月戦災に罹り、印刷所に於て全部焼失しましたので」と書籍冒頭にあり、戦後に作り直したという。「同年三月」の戦災は東京大空襲だろう。

 

【図1】『文化通信』1989.1.16掲載「出版業界『近代化100年』社史・伝記等総目録 補訂版〈3〉」より

【図2】『藤原喜代蔵文功記念録』。A5判上製で、背文字のみ。奥付に「非売品」とある。昭和22年6月刊

 

注1 阪本一郎(1904-1987)は教育心理学者で東京学芸大学教授。日本読書学会の創立者の一人であり、小林所長によれば「阪本の本の中では『読書指導の研究』が未完成ゆえ一番おもしろい。心理や指導に還元されない読書実態がわかるから」。なぜだか国立国会図書館にない本で埋もれていたが、所長が編者を務める金沢文圃閣『近代読者資料集』(全8巻・別巻、2023-)の第2巻として復刻された。

注2 この構成からか、同書は通しノンブルではなく、各パート毎にノンブルが振られ直している。つまり「第一章」が「p1~16」で「第二章」に入ったらまた「p1~49」と数える、ややこしい本になっている。

■藤原喜代蔵の略歴

 従来、藤原はどのように語られてきたのだろう。「藤原喜代蔵」でwebを検索してみると、最初に「コトバンク」内のエントリ、日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004)と「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の2つが出てくる。ほぼ同じ中身なので種本となったと推測できる後者を紹介する。

【コトバンク】
藤原喜代蔵 ふじわら-きよぞう
1883-1959 明治-昭和時代の教育史家。
明治16年4月1日生まれ。42年「明治教育思想史」を発表して注目され,イギリス留学後の45年「大英国の教育」をあらわす。雑誌「帝国教育」の編集にあたり,昭和12年出版業をはじめ,17-19年「明治大正昭和教育思想学説人物史」を刊行した。昭和34年2月18日死去。75歳。鳥取県出身。
出典:講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus

日本の教育史を研究した雑誌編集者で戦中期に自出版社から大著を出した人、ということになる。

 次いで郷里の鳥取県湯梨浜町のホームページがひっかかる。「トップページ > 組織でさがす > デジタル・みらい戦略課 > ゆりはま資料室」の下に「旧町村誌」というページがあり、湯梨浜町に合併された東郷町の自治体史『東郷町誌』(1987)が公開されていて、その一節である。

【東郷町誌】
教育思想家・藤原喜代蔵
明治十六年北福の生まれで、我が国における教育ジャーナリストの元祖とされる藤原喜代蔵(昭和三十四年没)に触れておきたい。以下の記述は、『近代百年鳥取県百傑伝』のほか、篠村昭二(気高町)の著述資料によった。
藤原の初めての著作『明治教育思想史』は、明治四十二年に発表された。教育制度は、政治や経済など社会情勢と深くかかわって動くものであると論じた内容で、それまでの教育史論にない独創性が注目を浴びたといわれる。読売新聞の教育担当記者として文部省に詰めながら、教育界の表裏に通じた教育ジャーナリストとなり、独特の著作を完成したのである。当時、彼は二六歳であった。『教育思想史』と題した出版物は、我が国で最初のものであったといわれる。
この著作の完成直後に、彼は二年間イギリスに留学した。帰朝後、文部省の要請で帝国教育会に入り、雑誌『帝国教育』の編集を八年間担当した。この時期に、著述家として『近代教育学大集成』『都市及田園の教育』『人物評論学界の賢人愚人』など多数の著作を発表している。また、昭和十九年には最後の著作『明治大正昭和教育思想学説人物史』全四巻、三三五七ぺ-ジにわたる大著を刊行した。
藤原は、ほとんど独学であったという。舎人尋常小学校も二年二か月在籍しただけで、家事手伝いを理由に中途退学している。日露戦争に出征した彼は、戦場でも英語の書籍を携え、寸暇を盗んで勉強したという。一時期、政治家を志したといわれるが、教育を受ける機会に恵まれなかったこと、歯に衣〈きぬ〉を着せぬ生来の激しい気性が、教育評論家としての道を歩ませたものであろう。その独特の教育論は、現代の史家の間で評価がとみに高まっているといわれる。

 こちらを見ると若くして日本初の観点の著書を出し、小卒ですらないのに文部省から洋行し、戦中、それも戦局が悪化して様々な物資が欠乏していた昭和19年11月段階で大著を出すという、まさしく苦学力行、戦前的価値観の代表者のように見える。
 『東郷町誌』の記述に「篠村昭二(気高町)の著述資料によった」とあるが、現在弊社の人物情報データベース「じんぶつプラス」で藤原を検索して出てくる5つの本のうち、紳士録3冊を除き、執筆者が明記されている『鳥取県百傑伝』(山陰評論社、1970)と『図説教育人物事典 上』(ぎょうせい、1984)とも篠村の執筆だった。管見の限りでいえば、戦後は学術論文を除けば篠村しか藤原について言及している人がいないようにみえる(注3)。

 

注3 教育出版史の基本書である木戸若雄の遺著『大正時代の教育ジャーナリズム』(玉川大学出版部、1985)では、一番最初で言及されてはいた。

■発端は読売新聞社への入社

 しかしながら、出版人としての藤原は上記の記述からはいまひとつ見えてこない。実は『藤原喜代蔵文功記念録』の中程に収められた『明治大正昭和教育思想学説人物史』4冊の「序文に代えて」は回想を主としており、事実上の自伝パートともいえる。その辺りを手がかりに藤原の人生をもう少し丁寧に見ていこう。
 藤原は鳥取県の農家の長男で、7歳上の姉との2人姉弟。成績優秀ではあったが家事手伝いを理由に10歳で小学校を中退、口減らしで寺の小僧に出されたという(『鳥取県百傑伝』に拠る)。それから一時小学校の準訓導を経験しているようで、その後に上京。

私は青年時代、弁護士を以て身を立て、行く行くは政治家に成る目的で東京に出で専ら法律を学んで居つたのでありまたが〔筆者注・ママ〕、其学業中半ばにして日露戦争に応召出征し、帰還後引続き法律を学んで居りました処、或日偶然「読売新聞」で政治記者を募集して居る広告を見ましたので、図らずも私の心が動き、将来政治家と成るには弁護士から進むのも、新聞記者から進むのも似たり寄つたりで、太した逕庭はないから、此際奮発して応募して見やう若し試験に落第したら、初めの志望通り弁護士に成ればよし、幸に合格したら、新聞記者を以て身を立てやうと斯う決心して応募受験しました処、幸に御採用を得まして、読売新聞社に入社することになつたのであります。

『藤原喜代蔵文功記念録』第二章p21。旧字を新字に改めた。以下引用は同様

 『鳥取県百傑伝』では読売新聞記者になったのが明治39年(1906年)とあるが、『現代人事調査録』(1925)、『大日本人物史 昭和5年度版 増訂第3版』(1929)といった紳士録では「40年専門学校入学者資格検定試験(専検)、42年文部省中等教員検定試験に合格」と記されていて、新聞記者の傍らで教職の勉強をしていたようだ。ただ、読売新聞では政治記者の募集だったにもかかわらず、教育を担当することになった。

私が二十五歳にして、始めて世の中に出で、読売新聞に教育評論の筆を執るやうになつた(中略)、当時の教育社会には、民間に、湯本武比古、樋口勘治郎、峯間信吉、曽根松太郎、木山熊次郎などの、口も八丁、手も八丁の人達が居て、各々教育雑誌に拠り、諤々の教育評論をやつて居たが、新聞界には、未だ一人も教育評論家らしい人が居なかった。毎日、文部省に出入する「種取り」程度の人は、各社に居たけれども、教育の専門的知識を以て、社説に筆を執るやうな評論家は一人も居なかつた。そこに突如として私が現はれたのである。偶然ながら、私が新聞界に於ける教育評論家の鼻祖となつたわけである。

『藤原喜代蔵文功記念録』「序文に代えて」第一巻p14

 ずいぶん自らを高く持しているが、42年には最初の著書という『明治教育思想史』を著している(注4)。当時26歳。
 同書完成直後の43年、藤原は文部省からイギリス留学を命じられ、2年間日本を離れる。45年に帰国して同年中に帰朝報告として『大英国の教育』を刊行している。

 

■彼が文部省記者クラブを作らせた?!

 『鳥取県百傑伝』には「英国留学については、岡田良平氏の推輓によるところが大きかったという」とある。岡田は藤原が出入りしていた頃の文部次官で、ずいぶん懇意だったようだ。文部官僚の下村寿一が晩餐会の祝辞で「藤原が文部省の記者クラブを創設した」と述べているが、本人に拠ると

当時は、文部省にも新聞記者室といふものがなく、各社の記者は、毎日、廊下や応接室を左往右往して居たので、私が当時の文部次官岡田良平氏に話して、始めて文部省に「新聞記者室」といふものを設けさせることにした(中略)事の起りは私が作つたのである。

『藤原喜代蔵文功記念録』「序文に代えて」第一巻p15

ということになる。それにしても、学校制度が整っていない明治初年ならともかく、日露戦争後に大学出どころか学歴がないに等しい藤原が公的なルートで留学できたのは、縁故とはいえ不思議に思える。

 

注4 「国立国会図書館オンライン」で調べると、その1年前に藤原冷泉の名義で『教師学生必携学事便覧』(読売新聞社、1908)を出している。

■代表的な教育雑誌で編集主任――政界進出も伺う

 帰国した藤原は、文部省の要請により帝国教育会に迎えられ、雑誌『帝国教育』の編集主任に就任。以来、大正8年(1919年)に退任するまで精力的に活動、その傍らで『今後の教育を如何にすべき乎』(金港堂書籍、1913)、『人物評論学界の賢人愚人』(文教会、1913)、『都市及田園の教育』(金港堂書籍、1913)、『欧米及日本の政治 : 比較研究』(大日本図書、1914)、『田舎漢の天下』(南北社、1917)、『近代教育学大集成』(中興館書店、1918)などを著している【図3】。
 大正8年の退任は、同郷の先輩で藤原に目を掛けていた政治家の奥田義人(1960-1917)の死が原因のようだ。以後、実業界で活動しつつ、政界への意欲も持ち続けた。まだ教育界にいた大正3年(1914年)には奥田から要請を受けて、また奥田没後の昭和3年(1928年)にも鳥取政界の重鎮・西谷金蔵からの要請で総選挙に立候補しようとしたが、党(政友会)の候補者調整により結局出馬しなかった。

【図3】青年時代の藤原と、文功記念晩餐会の様子(『藤原喜代蔵文功記念録』口絵より)

■出版業に進出――産業経済学会、東亜政経社

 上記「コトバンク」の2種の略歴にある「昭和12年には出版業を創業」「昭和12年出版業をはじめ」という記述だが、第四巻「序文に代えて」の冒頭に

本書(筆者注・『明治大正昭和教育思想学説人物史』)の著述を思ひ付いたのは、昭和十五年六月のことで、私が晩年の志業「東亜政経社」の事業を創始した時であつた。爾来満三年六ヶ月、此の短歳月の間に、「東亜政経社」は異数な発展を遂げたが、一方本書全四巻の著述発行も、恙なく完結を告げた。「東亜政経社」の事業が、急速に発展したのは前に約三年間「産業経済学会」を経営し、出版事業に関し、十分の知識経験と基盤を持って居たが為めであり、

とあることから、最初の会社は産業経済学会と推測される。同社の名前で「国立国会図書館オンライン」「CiNii Books」「日本の古本屋」を検索してみると、昭和15年(1940年)から「時局農村指導講座」という講座ものを出していることがわかる(それ以前の出版物は見つからない)。東亜政経社でも「戦時経済国策大系」「南方経済資源総攬」という講座ものを出しており、基本的に同じ路線のようだ。自身の『明治大正昭和教育思想学説人物史』も東亜政経社から出版している。

 

■戦時統合も乗り切り日本経国社へ――強力なコネ?

 これまで政官界に築いた太いパイプからか、19年の戦時の企業整備(=出版社の強制統廃合)でも残留社に指定され存続。当時の『出版弘報』の記事を私が再構成したツール「戦時の企業整備により誕生した出版社一覧」(詳しくはこちら)にも、東亜政経社は「教養専門-文化科学図書」の分類で、東亜政経社、野ばら社、前田書房、帝国出版協会を統合したことになっている。引き続き第四巻「序文に代えて」に拠れば、

〔筆者前段要約 企業整備に生き残れて光栄である〕そこで、一層企画編集組織を強化して、良心的図書の出版を期する為め、従来存続の「産業経済学会」と「日本文化学会」とを発展的解消し、新に「出版文化学会」を創設して、旧知の先輩や辱知の専門家に役員を懇嘱し、其の快諾を得た。「東亜政経社」も、公的性格を明にする必要上、個人経営から株式組織に改むることになつたので、此の機に於て、社名を「日本経国社」と変更した。経国は「経国済世」と続く古来の成語で、国を経営し、世を済ふ意味だ。

ということになっている。
 前にも書いたが、太平洋戦争末期の戦局が悪化している19年11月段階で自著刊行記念の祝賀晩餐会を開き、それに政官学界のお歴々を集めることができる藤原は、現在は無名ながら当時は大物であったといえよう【図4】。また、『明治大正昭和教育思想学説人物史』は名前の通り「人物史」で、歯に衣着せぬ人物評が持ち味。戦時下において、軍人出身の文相・荒木貞夫を「一体、荒木には人物を鑑識する明がなく、人事行政に拙劣な欠点があつた」云々とこき下ろす胆力はなまなかなものではない。森さん曰く「藤原は人物評論の人なんだよ。あの時代、横山健堂とか人物評論が一定の位置を占めたじゃない。表現が俗っぽいのもそこら辺と関係があるんだよ」。

 また、本稿の草稿を読んで貰った小林所長からは「著作だけだと教育「思想家」に見えるけど、業界関係者の毀誉褒貶を自分のメディアに載せることで地位を確保するといった立ち回りを見ると、教育「業界人」だよね。企業統合を乗り切ったことといい、彼の洋行といい。佐藤卓己先生に『天下無敵のメディア人間:喧嘩ジャーナリスト・野依秀市』(新潮社、2012→『負け組のメディア史 : 天下無敵野依秀市伝』岩波現代文庫、2021)という本があるけど、野依の教育業界版に見えるね」と言われ、なるほどと得心した。

【図4】『藤原喜代蔵文功記念録』の目次。前頁の「一 発起人を代表しての開会の辞」は「東京女子高等師範学校長 下村寿一」。

■戦後の体制変換→自由書院

 戦後出版された『藤原喜代蔵文功記念録』の末尾には「附録」と称して「私の「晩年事業」と『後継社長』に就いて」という一文があり、「七大教育雑誌」「少年名著文庫」「中学自習文庫」「公民館文庫」「経国選書」「世界名著文庫」を出す、といった今後の抱負が述べられている【図5】。しかし同書が出た昭和22年(1947年)を最後に刊行物は無く、「国立国会図書館オンライン」の検索結果をみると「経国選書」は懇意の教育学者・吉田熊次の『現代の教育学』と、藤原の縁戚である教育ジャーナリスト・三浦藤作の『古典の再検討 : 古事記と日本書紀』『日本古代史観 : 科学的検討』の3冊のみのようだ。
 「民主教育」「中学教育」「小学教育」「国語教育」「科学教育」「実業教育」「スポーツ教育」が企図されていた「七大教育雑誌」も、「CiNii Books」の検索結果によると「民主教育」「小学教育」「中学教育」「青年教育」「公民教育」の少なくとも5誌が確認できるのみである。
ここで【図1】の解題書誌を思い出してもらいたい。末尾をみると「のち自由書院と改称」とある。改めて同社の名前で「国立国会図書館オンライン」を引き直すと28年まで延べ77タイトルの書籍が出てきた。最後のタイトル、28年7月刊行の石田壮吉・間瀬正次共著『高等学校時事問題 : 高等学校社会科 2・3学年用 改訂』の奥付には、まだ発行者として藤原喜代蔵の名前があった。「CiNii Books」を引くと、そのあと37年まで「自由書院新社」の名前が確認できる。『文化人名録(著作権台帳)』第8版(1959)の「著作権使用者名簿」には自由書院新社(昭和31年6月21日創業)の社長は藤原喜代蔵とあるので、最晩年まで出版業界で活動したようである(藤原は昭和34年に75歳で亡くなった)。
 藤原は「思想家」というより「業界人」をまっとうしたように思われる【図6】。

【図5】「七大教育雑誌」発行の抱負(『藤原喜代蔵文功記念録』より)

【図6】『藤原喜代蔵文功記念録』口絵冒頭

 

 

○藤原喜代蔵(ふじわら・きよぞう)
号=冷泉
教育評論家 日本経国社創業者
明治16年(1883年)4月1日~昭和34年(1959年)2月18日
【出生】鳥取県河村郡北福村(東伯郡湯梨浜町)
【学歴】舎人尋常小学校〔明治26年〕中退
【経歴】生家は農家で、二人姉弟の弟。明治26年尋常小学校を中退、寺の小僧となる。その後、弁護士として身を立てやがて政治家になろうと上京、勉学に励む。日露戦争に従軍後、引き続き法学を学ぶ中で読売新聞の政治記者募集に応募、竹越与三郎に認められ入社。教育担当記者となる一方、40年専門学校入学者資格検定試験(専検)、42年文部省中等教員検定試験に合格。43年『明治教育思想史』を冨山房から刊行。同年懇意にしていた文部次官・岡田良平の推輓もあり文部省より教育行政研究のため2年間の欧州留学を命じられ、45年に帰国すると同年中にその成果を『大英国の教育』として出版。また帝国教育会の機関誌『帝国教育』の編集主任に就任。大正8年退任して実業界に転身。昭和12年産業経済学会として出版業に進出、15年東亜政経社を設立。19年戦時の企業整備で日本経国社に改組した。この間の17~19年、畢生の大著『明治大正昭和教育思想学説人物史』(全4巻)を著した。戦後、日本経国社は自由書院(自由書院新社)に改称した。他の著書に『教師学生必携学事便覧』『人物評論学界の賢人愚人』『都市及田園の教育』などがあり、22年非売品の『藤原喜代蔵文功記念録』を出した。郷党の先輩である奥田義人に恩顧を受けた他、山崎達之輔らと親しく、政友会に入党してたびたび政界立候補の話もあった。『帝国教育』の編集主任を引き継いだ倫理学者の三浦藤作は縁戚で、教師であった三浦の上京を促してのちに自身の妻の従妹との媒酌の労を執った。
【参考】『藤原喜代蔵文功記念録』前島誠一〔編〕/日本経国社/1947.6、『鳥取県百傑伝』山陰評論社/1970.12、『図説教育人物事典』上/唐沢富太郎〔編著〕/ぎょうせい/1984.4、『日本人名大辞典』上田正昭 [ほか]〔監修〕/講談社/2001.12


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