皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第46回 最初期の出版人追悼集『嗚呼田中増蔵君』

河原努(皓星社・近代出版研究所)

 

■本を貸してくれる人は、いい人

その日は、古本フレンズのKamikawa(@Theopotamos)さんと会う用事があり、大久保の中華料理屋に入った。注文を終えて久闊を叙したところでKamikawaさんが「そうそう、この本をお持ちしましたよ」と一冊の本を差し出した。それは次のXのポストを目にしたときに思わず「この本、存在自体は知っていましたが、実物を見るのは初めて。大正期の出版人の饅頭本はこの本以外はすぐには思い浮かばない」と引用リポストしたもの。

https://x.com/Theopotamos/status/1876548182198690198

それで「今度持っていきますよ!」「ありがとうございます!」とやりとりがあり、今日がその日となったのであった。
『嗚呼田中増蔵君』の存在を知ったのは『出版文化人物事典』(日外アソシエーツ、平成25年)を編集していた時だが、当時資料調査に利用していた公共図書館――国立国会図書館、都立中央図書館、神奈川県立川崎図書館、千代田区立千代田図書館(出版に関する本を多く所蔵している)などのどこにも所蔵が無かった。いま調べると東京大学の明治新聞雑誌文庫には所蔵されているが、大学図書館は利用の心理的ハードルが高く、当時は全く利用しなかった。また、古書価も確か5桁でとても一人の項目を書くには費用対効果が悪く――経費で落ちるはずも無く――頭の片隅にだけ残っていた本だった。それを友人が買ったとなれば「見せて!」と言いたくもなろう。
『出版文化人物事典』での田中増蔵は、田中正明著『柳田國男の書物 : 書誌的事項を中心として』(岩田書院、平成15年)を参照して書かれており、いま思えば森洋介さんの助言によるものだろう。

■最初期の出版生え抜きの饅頭本

本連載でもたびたび出版人の饅頭本(私家版の配り本、特に追悼集)を取り上げているが、一番古いものはなんだろう? 改めて『出版文化人物事典』の参考文献から明治・大正期のものをリストアップしてみた(※1)。

『東洋小野梓君伝』山田一郎編 1886(明治19年)
自恃言行録』川那辺貞太郎編 1899(明治32年)
玉淵叢話』三木佐助著 1902(明治35年)
佐久間貞一小伝』豊原又男編 1904(明治37年)
『瓶城翁遺文』近藤圭造編 1915(大正4年)
『嗚呼田中増蔵君』小泉榮次郎編 1916(大正5年)
白露遺稿』石井勇著 1917(大正6年)
得能良介君伝』渡辺盛衛編 1921(大正10年)
『島田義三君追懐録』和田雅夫編 1926(大正15年)
桂川遺響』三樹退三 1926(大正15年)

『東洋小野梓君伝』の小野梓は法学者、『自恃言行録』の高橋健三はジャーナリストや政治家。『佐久間貞一小伝』の佐久間貞一(大日本印刷創業者)は印刷が主で、『瓶城翁遺文』の近藤瓶城はもとが儒学者、漢学者で、いずれも出版生え抜きとは言いがたい。三木佐助の『玉淵叢話』は存命中に書かれた回想録でこれはこれで貴重だが(明治35年刊!)、追悼文集ではない。そうすると大正5年(1916年)刊行の『嗚呼田中増蔵君』は管見の限りで、最初期の出版生え抜き(同時に印刷所も経営していたが)の追悼集ということがわかった。
ちなみに『白露遺稿』の石井勇(石井白露)はジャーナリスト、『得能良介君伝』の得能良介は大蔵官僚(印刷局長)で、『島田義三君追懐録』の島田義三(東京社)、『桂川遺響』の三樹一平(明治書院創業者)が出版生え抜きの追悼集となる。『島田義三君追懐録』『桂川遺響』の2冊が大正15年なので、その10年前に作られた『嗚呼田中増蔵君』がいかに早い時期の出版人の追悼集であるかが伺えるというものだ。他にもこの時代の出版生え抜きの追悼集をご存じの方、ご教示ください。

 

※1 国立国会図書館所蔵のものにはリンクを貼ってみたが、10冊中4冊が未所蔵と判明。

■『嗚呼田中増蔵君』の構成と、田中の略歴

『嗚呼田中増蔵君』は故人の一周忌を記念して編まれており、編輯兼発行者は杏林堂専務の小泉榮次郎、編纂は奥付手前の「編纂小録」をみると尼子四郎(※2)と長尾折三(※3)が担当したようだ。目次は無く、肖像【図1】や家族写真などの口絵を経て、

「故田中増蔵君略歴」
「故田中増蔵君之事業一斑」
「葬儀当日の弔辞及弔文」
「伊香保楼に於ける追悼会」
「両忘庵に於ける追悼会」
「余録」

からなり、全104頁。略歴、生涯になした仕事の概要、弔辞・弔文、追悼会報告(当日話された故人を偲ぶ演説の再録)、追悼文からなり、よくまとまっている。
「故田中増蔵君略歴」に寄れば、田中は慶応元年4月2日(※4)江戸神田豊島町に生まれる。明治10年書肆英蘭堂島村利助の店員となり、19年退店して神田柳原通りで古本商を始めた。20年神田区田代町に、22年廃業して豊島町に移り、26年本郷龍岡町に吐鳳堂を開業。医書出版を専業とし、40年には本郷区駒込林町に医書専門の活版印刷所を設け、杏林舎と称した。43年聚精堂を興して医書出版以外にも進出。大正2年本郷区議に当選、4年の改選時は立候補しなかった。同年8月病を得、11月12日に病死している。

【図1】田中増蔵の肖像

 

※2 尼子四郎(1865-1930)は、医師、出版人。日本初の医学文献抄録誌『医学中央雑誌』(「医中誌」)を創刊、今日の医学系オンライン情報サービス「医中誌Web」の創始者。千駄木の夏目漱石旧居(猫の家)の近くの住み、『吾輩は猫である』の甘木先生のモデル。
※3 長尾折三(1866-1936)は、医師で文筆家。藻城、肱斎、煙雨楼主人と号した。同郷の宮武外骨と親しく、医文学社より雑誌『医文学』を編集・発行した。著書多数。
※4 慶応元年は4月7日改元のため正しくは元治2年生。

■出版人としての出発

追悼文などから肉付けすると、田中は小学校を出てから医書専門の書肆・英蘭堂島村利助方に入り、頭角を現した。略歴には「十九年期満チテ退店シ、神田柳原通ニ古本商ヲ営ム。翌二十年五月神田区田代町ニ移リ居ル。明治二十二年四月廃業シテ居ヲ豊島町ニ転ジ、同二十六年本郷区龍岡町ノ地ヲ卜シ新ニ吐鳳堂ヲ興シ」とあるが、医書組合(現・医書同業会)の初代組合長(頭取)を務めた朝香屋大柴四郎は「明治二十四五年頃は英蘭堂におられたのであります。尤も今のお話の如く其の時分に一つの店をお持ちになつたやうでありますが、此の医学書の組合の創立が二十四年でございますが(※5)其の時に田中君も加入せられておりました。けれども矢張英蘭堂の方にはお出でになつたのであります。それから今の本郷に出ましたのは其れから後のやうに思ひます」(『嗚呼田中増蔵君』p53。以下引用全て同書)と証言している。
医学書出版に手を染めたのは、医学生の下平用彩が学費の欠乏・窮乏を理由にショイベの診断学を抄訳して英蘭堂に持ち込んだことによる。英蘭堂は一介の学生だった下平の原稿に二の足を踏み、これに手を挙げたのが当時英蘭堂にいた田中だった。下平は第1巻の刊行を明治20年10月と明言していて、それは同書の書誌データからも裏付けられる。
陸軍軍医のトップであった石黒忠悳は回想で「英蘭堂島村書店が不遇続きで解散後其使雇人が散り散りばらばらに成つた、其後ち島村の使雇人の内に周作は小川町に、常吉(筆者注・田中のこと)は柳原に牀店とこみせを出したといふ事を聞たから通り懸りに其二軒とも尋ねた」(p39)とあるから、露店の古本屋をやっていたのも間違いなさそうで、ここら辺は曖昧である。ちなみに石黒の回想はこのように続く。

常吉は間口九尺ばかりの牀店で、つまらぬ古本を並べてあつて余が尋ねたら常吉は恐れ入ります誠に済みません済みませんといふから、いや島村の潰れたのは御主人が油断と驕慢心とから起つたので其許などの罪ではない、何も少しも済ぬ事はない恐れ入る事もないといふたら、いや如此こんな見苦しい処へお尋ね下さいまして誠に恐れ入ります、いやお愧ふございますといふから、いやそれは大間違だ、開業最初に店の小さいのは当然あたりまいだ、お前の先主人の島村利助は小さい店もない唯風呂敷包を背負ふて来て商ひをしたのであるそれが土蔵四ツを持つまでに仕上げたではないか、お前も一生此牀店には居まい、必ず四ツも五ツも土蔵を立てるまで仕上げるであろうといふたら、常吉は眼に涙ぐむで有難ふ御座います、四ツ五ツはどふか分りませんが必ず土蔵を造くるまでに心懸けます幸に土蔵を持ちましても今日の此牀店の事は常に忘れませんと答へ幸に土蔵を持ちましても今日の此牀店の事は常に忘れませんと答へ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、たから、そこだ今日の牀店の事を忘れさへせねば土蔵は幾戸前も殖増ふえるよといふて別れた事を今日思出すのである。
其後常吉はいかにしたか頓んと消息が分らずにゐたこと凡二十年許で一日今の下平用彩博士が来訪され其寝所を聞たら湯島切通の吐鳳堂に居るとの事で其吐鳳堂の主人田中増蔵氏が此常吉小僧であるとの事を初めて知つて一夕下平君と共に招いて食卓を共にし昔の事を語りていろいろ思ひ出した事である(後略)

……こうした逸話が好きで、森銑三の諸作を愛読した高校や大学の頃を思い出す。

※5 医書同業会のホームページでは、同会の前身である医書組合の設立年には明治19年と24年、26年の3説があると書かれている。大柴四郎は『嗚呼田中増蔵君』では24年説の立場に立っている。

 

■吐鳳堂と杏林舎、そして聚精堂

常吉小僧は立身出世して吐鳳堂を設立、解剖学、薬物学、診断学、処方及治療学、内科学、外科学、皮膚科・泌尿器科学、産科婦人科学産婆学、小児科学、眼科学、耳鼻咽喉科学、衛生学、細菌学及伝染病学、病理学、法医学精神病学神経病学、看病学、按摩学とさまざまな分野の医書を刊行、特に『日本内科全書』(36冊)、『日本外科全書』(29冊)、『日本小児科叢書』(20冊)など大部な叢書を出した。一方で杏林舎という名前の医書専門の活版印刷所を開設し、やがて吐鳳堂では医科器械の取り扱いも開始した。大正2年には請われて店を構える本郷区の区議会議員も務めたが、4年50歳で病死した。
嗣子は無く、後は妻の田中けいが継承。昭和5年刊行の『日本出版大観』(出版タイムス社)には田中けいが立項されている。田中の右腕であった今井甚太郎は、田中の存命中の大正3年に独立して医書出版の克誠堂書店を創業。太平洋戦争末期、昭和19年戦時の企業整備により吐鳳堂と克誠堂出版は、金原商店などと統合され日本医書出版となった。24年吐鳳堂は太田四郎を代表として杏林書院と改称、田中けいと太田との間に紛争があったようだが元店員3人、萩原(大成堂)・武藤(中央医書)・永井(鳳鳴堂)の仲介により円満解決(※6)。25年法人組織に改組すると保健学・体育学にも進出、健康スポーツ医科学書の専門出版社として今日に至っている。
杏林舎は田中没後に今井甚太郎が社長を継承、昭和3年には滝野川区西ヶ原に分工場を設置し、太平洋戦争前には従業員300人を数えるまでに成長させたが、20年3月の東京大空襲で両方の工場が灰燼に帰した。21年10月向喜久雄が再建、分工場のあった北区西ヶ原に本社を構え(※7)、現在も盛業中である。
話は最初に戻る。Kamikawaさんは何故『嗚呼田中増蔵君』を購入したか。それは田中が聚精堂の名義で一般書も出版しており、その中に彼の関心領域である柳田國男の『石神問答』『遠野物語』『時代ト農政』が含まれるからである。『嗚呼田中増蔵君』の中にはほとんど聚精堂に関する記述はないが、民俗学の田中正明は前述の『柳田國男の書物』で丁寧に田中・今井の足跡を追い、柳田の実兄で眼科医・歌人の井上通泰の関与を推測している。日本近代文学の故大屋幸世も『追悼雑誌あれこれ』(日本古書通信社、平成17年)で『嗚呼田中増蔵君』を取り上げ、同様の結論に達している(※8)。

※6 『日本医事新報』(1316)、昭和24年7月16日発行に拠る。
※7 『印刷界』(415)、昭和63年6月発行の「東京と印刷」に拠る。
※8 草稿を読んで貰った森洋介さんからのメールに「二〇〇六年公開の拙文「校正癖  あるいはコレクトマニア綺譚」の註*10で田中増藏や吐鳳堂・杏林舍について文獻を擧げました。宜しければ御參照下さい。
http://livresque.g1.xrea.com/GS/correct01.htm#n10
また「大屋幸世は皓星社刊『蒐書日誌二』にも『鳴呼田中増藏君』を取り上げてゐますので、自社出版物はなるべく宣傳しませう」とあった。

 

○田中増蔵(たなか・ますぞう)
号=大綱
吐鳳堂創業者 杏林舎創業者
元治2年(1865年)4月2日~大正4年(1915年)11月12日
【出生地】江戸神田豊島町(東京都千代田区)
【経歴】医書専門の英蘭堂島村利助方で修業、頭角を現す。明治20年医学生だった下平用彩の抄訳であるショイベ『診断学』を出版。露店の古本屋なども経験、26年本郷区龍岡町で吐鳳堂を創業。医書出版を専業とし、40年本郷区駒込林町に医書専門の活版印刷所・杏林舎を開設、のち吐鳳堂で医科器械も取り扱った。43年には聚精堂を興して一般書にも進出、柳田國男『石神問答』『遠野物語』『時代ト農政』、長谷川時雨『日本美人伝』などを出版。38年東京書籍商組合評議員、43年医書組合副頭取なども歴任した。大正2年本郷区議に当選するも、4年の改選時は立候補しなかった。同年病死後は妻の田中けいが吐鳳堂の経営を継承。太平洋戦争末期、戦時の企業整備により同社出身の今井甚太郎が創業した克誠堂書店などの医学書出版社と、日本医書出版に統合された。戦後の24年、吐鳳堂は太田四郎が代表となり杏林書院として新発足、健康スポーツ医科学書などの版元として現在に至る。
【参考】『嗚呼田中増蔵君』小泉榮次郎〔編〕/1916.11


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