第42回 工業振興から出版界へ――工政会出版部や工業図書を興した倉橋藤治郎の足跡
河原努(皓星社・近代出版研究所)
■愛書会の出品目録から
この連載でたびたび登場する“週末古書展”という言葉。東京には神田小川町の東京古書会館、高円寺の西部古書会館、五反田の南部古書会館、板橋の北部古書会館と4箇所の古書会館があり、うち北部を除く3箇所、東京と南部は金曜・土曜、西部は土曜・日曜(“会”によって日程に変動あり)という“週末”に古書即売会、つまり“古書展”を行っている。詳しい日程は「日本の古本屋」ホームページの「古本まつりに行こう」で確認できる。
「古書会館でやる古本市」と聞くと「業者しか入れないのでは?」「立派で高い本ばかりでしょう?」と思われるかも知れないが、そうではない。誰でも入れ、大半は店で買うよりも(雑多な本が)安く出品されている。古本好きとしてのレベルが上がる(?)と、週末古書展に通い始めるようになる。東京近郊にお住まいで本が好きな方なら一度覗いてみるとよいでしょう。本屋さんに並んでいるような本のみならず、江戸時代の和本、チラシ、古新聞といった歴史的資料に思えるものが実際に手に取れ(数百円で買えるものも多い)、社会勉強になりますよ。
帳場で登録すると出品目録を送ってくれ、私にもいくつかの“会”(※1)から目録が届く。その日も帰りの電車で会社宛に届いた東京愛書会の目録に目を通していると、ある一行が目にとまった【図1】。
「倉橋さんの憶い出(倉橋藤治郎)私家版 水谷三郎(工政会国産振興運動婦人子供博番町書房他) 昭22」。
書かれている倉橋、書いている水谷とも出版人ではなかったか、と価格を見たら「一〇、〇〇〇」。さすがに手が出ない。帰宅して「国会図書館サーチ」で検索をかけると、なんとインターネットで公開されていた! またキーワードに「倉橋藤治郎」を入れて検索すると、笠原洪平筆『ささやかな回想』(修学館、平成元年)に「わが人生の師・倉橋藤治郎さん」という文章があることがわかったが、これは館内限定公開だった(後日足を運んでコピーした)。古書目録も(販売)書誌、新たな気づきが埋まっている。
ところで愛書会に足を運んだ際に現物を手に取ってみると、占領初期に出されたものながら、出品店が高値を付けるだけあってさすがに状態がよかった。
【図1】『東京愛書会古書即売展出陳抄目』(会期2025年1月10日・11日)p39上段。左端2120に『倉橋さんの憶い出』がある
※1 古書店の有志が「和洋会」「書窓会」「ぐろりや会」などいくつかの“会”(同人組織)を作り、持ち回りで行っている
■倉橋藤治郎の略歴
倉橋についてインターネットで調べると、彼が創立に加わった産業図書は盛業中で、理工系以外でも哲学書の刊行が多いので御存知かもしれない。同社ホームページの沿革に次のようにある。
沿革
大正13年倉橋藤治郎が工政会出版部を発足させ、昭和10年に工業図書株式会社に発展させた。昭和19年、第二次世界大戦の企業整備令により、17社を統合して産業図書株式会社と改めた。
創業以来、理工学書を中心に出版を手がけてきたが、現在は人文・社会科学を含めた幅広い学術書の出版活動を展開している。
そして同じページに創立者の略歴もある。
創立者 倉橋藤治郎の略歴
明治20年滋賀県生まれ。大阪高等工業学校窯業科を卒業の後大阪毎日新聞社記者として活躍。大正7~8年農務省留学生としてアメリカに留学。
昭和2年、国際労働会議に資本家顧問としてジュネーブに出張。昭和5年、国際経済会議に政府顧問としてジュネーブに出張。
また同年には世界動力会議に日本代表として参加するなど国際的に活躍する傍ら、国内においては工政会、日本動力協会、国民工業学院、実業教育振興中央会、興亜工学院、高原農業研究所を創立しその常任理事を兼職した。
また、昭和16年には日本出版配給株式会社の発起人として参加しその設立に寄与した。
昭和21年4月5日歿
略歴部分だけをみると、新聞記者から工業界に移った人のようだ。出版人としての経歴は末尾の一行のみ。そこで前述の水谷、笠原の著書をもとに、出版人としての倉橋をみていこう。
■内に外に、工業振興のため、やり手の人・倉橋
大阪高等工業学校窯業科出身の倉橋が頭角を現したのは、工政会という団体に関係してからだった。大正7年(1918年)に結成された工政会は、“法科万能”つまり帝国大学の法科を出ていないと官庁本省の局長・部長や民間会社の重役になかなかなれなかった当時、社会的地位が低かった技術者の地位向上を目指す水平運動の一環として作られた。
倉橋はアメリカ留学から帰国すると工政会関西支部の常任幹事を務めていたが、大河内正敏理事長にスカウトされ本部の常務理事に抜擢される。東京への着任早々、関東大震災で大打撃を被った帝都の復興に、後藤新平率いる帝都復興院の計画推進のブレーンとして関与することになった。また、当時“関税戦”で苦しい立場にあった日本の工業を助けるために東京商業会議所と協力して国産振興運動を起こし、その中心人物となり、昭和3年(1927年)には弱冠40歳の若さで事務総長を務めた大礼記念国産振興東京博覧会を成功に導いた。語学も達者で、2年から7年まで3回渡欧して国際会議に参加。4年には工政会を率いて万国工業会議と世界動力会議を東京で開催している。
■工政会出版部と番町書房
倉橋が出版と関わりを持ったのは、大正13年(1923年)のこと。出版業を始めるというより、当時一般人には入手しづらかった官庁出版物の普及を企図して工政会に出版部を設置したのだ。14年1月から工政会出版部は社団法人工政会と経理を別にすることになり、出版部は倉橋の個人責任となった。農商務省や逓信省などに属する研究機関の各種報告書や『工業年鑑』などを出版し、昭和3年(1928年)頃からは印税契約による出版にも進出して数々の工学関係書を出した。
一方で、窯業科出身の倉橋には陶磁器の趣味があり、その方面から柳宗悦の「民芸叢書」や自身の著書・編著である『北平の陶器』や『陶器図録』も出版。美術に鋭い目を持った青山二郎とも親しく、青山に編纂させた実業家・横河民輔の愛蔵品図録『甌香譜』も出している。6年にはその青山から、直木賞に名を残す作家・直木三十五の新聞小説「南国太平記」出版の話が持ち込まれた。
倉橋さんも面白いと引受けられたが、まさか工政会出版部からは出せないというので番町書房が出来あがったのである。
ところが「南国太平記」は部内こぞっての反対で、さすがの倉橋さんも少く弱気になり、私(引用者注・水谷三郎)も不安になって、友人の口添えで誠文堂を表看板にして出版してさんざん失敗をし、部内から、だからいわないことではない、とやられた。
『倉橋さんの憶い出』p81-82。旧字旧かなは新字新かなに直した。以下引用は同様
“番町書房”の名前は倉橋の自宅があった下二番町からで、他には電通の編集課長であった中根栄の『犬のはなし』、シェパードのエキスパート・伊藤藤一の『シェパード』といった犬ものの出版物を出していたが、ずいぶん長い間版を重ねた『シェパード』以外はどれもソロバンにはなっていなかった、と水谷は回想している。なお「国会図書館サーチ」で「番町書房」を検索すると戦後に出された本も数多くヒットするが、こちらは主婦と生活社の社内ブランドである(※3)。
8年春に開催された万国婦人子供博覧会の失敗や、出版部の会計問題で井上匡四郎理事長や一部の理事から批判を受けたこともあり、倉橋は遂に工政会から身を退いて独立。10年1月工政会出版部は工業図書として再出発することになった。水谷が「婦人子供博の失敗は、倉橋さんを本気で出版業へ追いこんだ。本腰をいれて企画を考えられたのは、この頃から」(『倉橋さんの憶い出』p66)、笠原が「工政会出版部が変身した工業図書(株)は倉橋さんが出版にやや身を入れた格好で」(『ささやかな回想』p11)と書いているよう、独立以前の倉橋にとって出版は、いくつもある仕事の一つであったと思われる。
※3 『東京組合四十年史 別冊』(東京都書店商業組合、昭和57年)に掲載された同社ミニ社史などを参考
■出版新体制下で日配の人事を手掛ける
昭和15年(1940年)12月に出版界の統制団体・日本出版文化協会が誕生すると、倉橋はその官選理事に就任。出版ジャーナリストの帆刈芳之助は「文協が生れた時、荒川実氏(丸善)と共に最初の理事に指名されてから一躍業界的に有名になり、文協騒動の立役者の一人でもあった」(『帆刈出版通信』昭和24年7月14日号)と証言しており、それまでは出版業界ではあまり知られた存在ではなかったようだ。理事就任については昵懇だった久富達夫内閣情報局次長に口説かれたからでは、というのが笠原の見立てだ(※2)。16年出版流通を一元化した日本出版配給(日配)が誕生すると取締役を務め、人事関係を手がけた。
倉橋さんは前もってこの役割を予想され、部下で業界情報通の工業図書常務・萩原誠三郎氏、その他業界人の意見を徴するなど、日配人事の構想を練っておられたようで、いざ蓋をあけてみると、あくまで旧取次業界の既成勢力に択われない人材の登用で、新会社に新風を吹き込まれた。その最たるものは新会社の要ともいうべき仕入部長に北隆館の尼子揆一氏、書籍仕入課長に栗田書店の伊東新太郎氏の登用であろう。また、それ以前に常務取締役として栗田確也氏を迎え入れたのも、倉橋さんのお声がかり的要素の強い感がある。
『ささやかな回想』p46
16年9月倉橋は荒川とともに日本出版文化協会理事を辞任。理由は日配による一元的配給制実施日以降に、理工系出版社8社が残務処理として丸善に直接納品した事件(丸善事件)の責任を取ったためで、協会の反倉橋派が騒いだからという。倉橋は恬淡として文協を去ったが、先に引いた帆刈の“文協騒動の立役者”とはこのことを指すものか。
※2 「出版界の事情にあまり明るくない久富氏が倉橋さんに頼るのは当然で、無理に口説かれて理事に奉られたものに相違ないと私は確信している」(『ささやかな回想』p45)
■倉橋のその後
一社長に戻った倉橋だったが、工業図書も当然、戦時体制の荒波に巻き込まれていく。引き続き、笠原と水谷の本から引こう。
実業学校用教科書の一元化の機運が起こり、文部省の意向で倉橋さんが音頭をとらされ、その結果従来実業学校向けの教科書的な出版物を出していた各版元が株主となり、種々の業界摩擦を乗り越えながらも倉橋さんを社長にして昭和一六年一二月に設立されたのが実業教科書(株)(後に実業出版と改称)で、市ケ谷の創立事務所には工業図書から水谷三郎・宇野豊蔵(ともに後の同社々長)の両氏が事務員数名を連れて出向した。
『ささやかな回想』p12
さらに19年戦時の企業整備で、工業図書も他社との合併を余儀なくされる(※4)。
日本出版文化協会の統制方針に従って、実業教科書の株主の中から有志を集めて成立したのが我が産業図書(株)で、工業図書を中心に明文堂、西ケ原刊行会、経済図書、昭晃堂、太陽堂その他計一三社が集まった寄合い世帯で、事務所は神田旅籠町の工業図書社屋である。昭和一九年二月設立当初の社長は明文堂の周防時雄氏であったが、周防氏の意外なスローモー振りが会社運営に支障をきたし、一年足らずで倉橋さんに代わった。
『ささやかな回想』p12
水谷も同様のことを言う。
産業図書は、日本出版協会の統制方針にしたがって、実教の株主の中から有志を集めて成立した。この最も強い主張者は西ケ原刊行会の戸田節治郎氏で、これに実教が株主更生のために主唱してつくっておいた今泉訓夫氏の高陽書院を中心にした経済図書、戸田氏が口説落した周防時雄氏の明文堂が中心になって十三社が集ったものである。倉橋さんは当時の出版界の事情もあって社長を辞退して取締役会長になられたが、あとで代表取締役になって困難な時代を苦心経営にあたられた。
『倉橋さんの憶い出』p68
こうして実業教科書と産業図書、2つの版元の社長を兼ねることになり、20年の敗戦を迎えた。
倉橋は敗戦を見据えて、米軍が進駐することになると必ず英会話の本が必要になると予想し、産業図書の合併社の一つである太陽堂の紙型を活用して英会話本の復刻を計画。9月22日にはその第一弾として高橋盛雄著『実用英語会話』1万5000部を発行。この本だけで1ヶ月に6万部を売り尽くし、一年足らずで英語ブームが完全に去るまでに18種約80万部を売ったという。
21年3月27日、出せば何でも売れる時期が過ぎつつあるのを見越した倉橋は、社内会議で出版企画と発行部数の自粛を要望した。会議の3日前から倉橋は発熱が続いていたが本人は風邪だと判断して出社し、笠原は「そう寒くもないのに厚いオーバー姿で会議に臨まれたのが異様に感じられた」(『ささやかな回想』p17)。実は医者の見立て違いで倉橋は腸チフスに罹っており、4月5日早朝、順天堂病院で息を引き取った。享年58。
ここまで長く2人の本を引いてきたが、最後に笠原の「倉橋さんのプロフィル」と題された一連の文章のタイトルを拾ってみる。「南アルプス最高峰初登攀に参加」「近江神宮創建の仕掛人」「共同企業体の先駆・メキシコ興業(株)と倉橋さん」……。まだまだ語るべき側面は多いが、出版にまつわることは一通り書いたので、ここで筆を擱こう。
※4 ここで統合されたのは水谷と笠原の証言によると13社、前述の産業図書ホームページでは17社、日本出版配給の広報紙『新刊弘報』の当時の記事によると「明文堂、笠原書店、経済図書、警眼社、工業雑誌会社、須原屋書店、太陽堂書店、西ヶ原刊行会、文永堂、理化学出版社、昭晃堂」の11社である。
【図2】『倉橋さんの憶い出』の本扉(「国立国会図書館デジタルコレクション」より。原資料所蔵機関: メリーランド大学プランゲ文庫)
○倉橋藤治郎(くらはし・とうじろう)
筆名=赤坂表三
工政会常務理事 工業図書創業者 日本出版文化協会理事
明治20年(1887年)11月22日~昭和21年(1946年)4月5日
【出生地】滋賀県甲賀郡寺庄村深川市場(甲賀市)
【学歴】大阪高等工業学校窯業科卒
【経歴】大阪高等工業学校窯業科を卒業すると大阪毎日新聞社の記者として活動。大正7~8年農商務省の留学生として米国へ留学した後、社会的地位が低かった技術者の地位向上を目指す工政会の関西支部常任幹事を経て、大河内正敏理事長にスカウトされ本部の常務理事に抜擢される。東京への着任早々、後藤新平率いる帝都復興院の計画推進のブレーンとして関東大震災からの東京の復興に関与。また、東京商業会議所と協力して国産振興運動を起こしてその中心人物となり、昭和3年には弱冠40歳の若さで事務総長を務めた大礼記念国産振興東京博覧会を成功に導いた。
語学も達者で、2年から7年まで3回渡欧して国際会議に参加。4年には工政会を率いて万国工業会議と世界動力会議を東京で開催した。
一方、当時一般人には入手しづらかった官庁出版物の普及を企図して工政会に出版部を設置、社団法人工政会と経理を別にした工政会出版部の責任者を務め、農商務省や逓信省などに属する研究機関の各種報告書や『工業年鑑』を出版、3年頃からは印税契約による出版にも進出して多くの工学工業図書を出した。
古陶器の収集家としても著名で陶磁器研究会・彩壺会のメンバーでもあり、その陶磁器趣味を生かして同出版部から柳宗悦の「民芸叢書」や自身の著書・編著である『北平の陶器』や『陶器図録』も出版。美術に鋭い目を持った青山二郎とも親しく、青山に編纂させた実業家・横河民輔の愛蔵品図録『甌香譜』も出版している。
6年青山から直木三十五の新聞小説「南国太平記」出版の話が持ち込まれると自宅のあった下二番町から名付けた番町書房の名義で同書を出版、同社の名義では電通の出版課長であった中根栄の『犬のはなし』、シェパードのエキスパート・伊藤藤一の『シェパード』といった犬ものの本を手がけた。
8年春に開催された万国婦人子供博覧会の失敗や、出版部の会計問題で井上匡四郎理事長や一部の理事と軋轢が生じ工政会から身を退いて独立。10年1月工政会出版部を工業図書に改組して本格的に出版業に進出。15年日本出版文化協会の設立に伴い官選理事に就任、16年日本出版配給(日配)誕生に際しては取締役の一人として人事関係を手がけ、仕入部長に尼子揆一(北隆館)、書籍仕入課長に伊東新太郎(栗田書店)らを起用、日配の常務取締役として栗田確也を迎え入れたのもその声がかりと目される。16年9月文協理事を辞任。
12月実業学校向けの教科書版元の一元化で設立された実業教科書(25年実業出版と改称)の社長に就任。19年戦時の企業整備で工業図書が合流して誕生した産業図書の会長になり、のち周防時雄の後任として2代目社長となる。
20年敗戦後、米軍が進駐することになると必ず英会話の本が必要になると予想し、産業図書の合併社の一つである太陽堂の紙型を活用して英会話本の復刻を計画。9月にはその第一弾として高橋盛雄著『実用英語会話』を発行。この本だけで1ヶ月に6万部を売り尽くし、一年足らずで英語ブームが完全に去るまでに18種約80万部を売り上げたと言われるが、21年腸チフスのため急逝した。
大阪高等工業学校在学中の明治41年7月、小島烏水一行の南アルプス・白峰山脈(北岳・間の岳・農鳥山)縦走に同行してその初登攀者となった。
【参考】『倉橋さんの憶い出 : 私の知っている倉橋さん』水谷三郎〔著〕/1947.4、『ささやかな回想』笠原洪平〔筆〕/修学館/1989.3