皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第41回 忘れられた直販画報業界――外交販売の大立者である大澤米造

河原努(皓星社・近代出版研究所)

 

■「没年調査ソン」に参加しました

私は元々日外アソシエーツで人物情報データベースを作っており、長く「物故者」のデータ更新担当をしていた。『現代物故者事典』を担当した際には、前版から収録人数を減らさないよう、いかに点在する訃報情報を集めるかに心を砕いた、そんな人間である。
「没年調査ソン」という訃報情報調査イベント――「没年調査とマラソンを掛け合わせた造語で、短時間で集中してみんなで没年調査を行うワークショップ形式イベントです」とのこと――をやられている人たちがいる、ということはなんとなく知っていた(※1)。2024年12月とある打ち合わせを終えた後、友人の柴田志帆さんが「12月に神奈川県立図書館で開催される「第3回没年調査ソン in 神奈川」に参加するんですよ」という。それで柴田さんが行くなら付いていこうかなと、参加してみることにした(……が当日柴田さんは風邪を引いて欠席)。
11:00開始で、午前中はガイダンス。皆さんで昼食を共にした後、午後から作業を開始。500人超の調査対象者リストを渡され、自由に人を選んで調べてよいという。まずはざっと人名に目を通す。すると、一人だけ知っている名前があった。「大澤米造」。「この人、おそらく知っています。会社の私の机に古稀記念誌【図1】があります。業界団体史も一緒にあるので、この人は調査対象から外してください」。なんとなく積ん読にしてあったが、これはこの連載で大澤を取り上げる時期がきたということだろう。
ちなみに、13:00から16:00までの3時間で私が突き止められた訃報は1件のみ。調査手法は間違っていないのだが、対象とした資料に掲載がなかったというパターンで時間切れ、という感じだった。ともあれ、短い時間ながら他の皆さんは十数件の訃報を突き止めていた。終わりに自分はどういうアプローチで調査し、どうやって見つけたかを発表しあう「成果発表」の仕組みもよいなと思った。

※1 こちらなども参照のこと「公共図書館の地域資料を活用した没年調査ソンのすすめ~福井県での事例から~

【図1】『大澤米造翁古稀記念誌』と『業界六十年史』

■外交販売の世界

大澤米造の訃報は会社に置いてある『業界六十年史』(全国出版販売協力会、昭和52年)に載っていた。何の業界かというと、本の直販業界である。
いま私たちが新刊本を買うときは本屋さん(やAmazonに代表されるネット書店など)から買うだろう。この場合、出版社と書店の間に取次という卸問屋が仲立ちをしていて、出版業界では“正常ルート”と呼ばれる(最近では“取次ルート”ともいうらしい)。大半の出版社の本はこの出版流通経路を辿り、もちろん私の勤める皓星社もその例に漏れない。ただ“正常ルート”という言葉があるということは“正常”ではない流通があるということだ。
例えば、連載第35回で取り上げた“特価本”。スーパーの一隅などでみかける新刊本のバーゲンセールで売られている本は、出版社が定価より安く販売することを認めた本で、新刊書店に配本するルートとは違う卸問屋を通っている。では、卸問屋を通さない書籍流通にどういったものがあるのか? 【図2】は、村上信明著『出版流通とシステム : 「量」に挑む出版取次』(新文化通信社、昭和59年)に掲載された「現代の出版流通チャート」である。この一番上にある「直販ルート(通販・訪販)」の“訪販”が今回取り上げる本の直販業界の一つ、訪問販売だ。外交員(セールスマン)が家庭や事業所を訪問して注文を取り本を予約講読する仕組みから“外交販売”ともいい、その主力商品の一つ“画報”から“直販画報業界”とも称される。『業界六十年史』はこの業界の業界史で、“特価本”の世界の業界団体史には『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』(全国出版物卸商業協同組合、昭和56年)がある。

【図2】『出版流通とシステム : 「量」に挑む出版取次』p309より

■直販画報業界の盛衰

新刊書店の雑誌棚などで『婦人画報』『家庭画報』という婦人雑誌を見たことはないだろうか。この“画報”という言葉がキーワードで、『業界六十年史』の最初の章「関東大震災で基礎築く=草創のころ」は、次の節から始まる。「本格的画報『国際写真情報』の誕生」(※2)。
国際写真情報』は今からおよそ百年前、大正10年(1921年)に創刊された。当時はテレビどころか、まだラジオもない時代である(今年ラジオ放送100年=ラジオ放送の開始は1925年)。『業界六十年史』の一文を引こう(p44)。

大正時代はもちろんテレビはない。ラジオも大正十四年を待たないと登場しない。大衆が情報を得るのは新聞しかないといってよかった。しかもその普及率は低かった。こうした状況を背景に、一ヶ月を単位としてニュースを写真と絵解きでまとめたのが画報である。現在は一週間単位で生活のサイクルがまわっているが、当時は一ヶ月単位、サラリーマンも月に一回しか休まなかったし、商店などでは年に二回の休みが普通だった。この生活サイクルに合わせ、しかも大衆が知りたいと思うニュースを、写真を主とした“わかりやすさ”でまとめた。これが大衆に受け入れられた大きな要因といえよう。しかもおりからの第一次世界大戦の勃発による資本主義経済の急速な発展は、そうした画報を受け入れるべき“購買層”を大量に生み出しつつあった点も忘れてはならないであろう。

ということで「写真画報」はテレビどころかインターネットが普及した今日では忘れられた存在となっているが、テレビが普及するまでは“静止画のテレビ”ともいうべき重要なメディアであった。判型は大判で一般の書籍流通には馴染みにくく、新聞社系の『アサヒグラフ』などが新聞流通のルートに乗っていたことを鑑みれば、訪問販売が主たる流通ルートというのも理にかなっているのであろう。そういえば小学生低学年の頃に小児科の待合室にあった『アサヒグラフ』を手に取った記憶があるが(それが最初で最後だが)、この手のグラフ雑誌は銀行や医者の“待合読書”の定番であったようだ。グラフ雑誌でわからない方には、パートワーク(分冊百科・週刊百科もの、またはディアゴスティーニに代表される継続冊子)といえばイメージが沸くだろうか。また、販売が先で配本が後という販売形式を取るため、質は今ひとつのものが多かったようで、故に一般の出版界からは少し下にみられがちである。

ちなみに時代の移り変わりとともに衰退していったこの業界出身で、今日も生き残っている最大手が世界文化社だ。前述の『家庭画報』も創刊当初は直販画報であったが、昭和四十年代に書店に卸す“正常ルート”に変更したため、現在でも命脈を保っている。

 

※2 これ以前については『近代出版研究』2号の藤元直樹「大正初期グラフ雑誌カタログ――忘れられた第一次ブーム」を参照のこと

 

■国際情報社を創業

大澤米造は栃木県の農家の出身。高等小学校を出た後は地元の呉服店の小僧となり、のち東京で洋服店を営んだ。その得意先に予約出版をしている人がおり「君のように顔の広い人ならこの仕事も面白いよ」と言われたのが縁になって、地方に出版物の予約募集の旅に出た。まだ乗物がない時代で馬に乗っていったというが、予想外に予約を集めることができ、これを機に出版業に手を染めた。北川由之助が編集する『時事写真』という画報の営業をするうちに本業の洋服店からは足を洗うことになり、大正5年北川との毎日通信社が倒産。予約出版で失敗して窮地に追い込まれたときに、たまたま竣工間際の明治神宮の前を通りかかり、これを写真撮影することを思いついた。宮内省に撮影許可願を出す一方で、これを国民に知らせて崇敬の資とすることのために頒布したいとの許可を申請。この注文が4万枚を超えて借金の清算に成功した。
大正10年借金精算の勢いのまま画報『国際写真情報』を企画。新聞社・万朝報社長の武井文夫の仲介で禅宗の僧侶出身の石原俊明と知り合い、2人で国際情報社を創業。石原が社長として編集を、大沢が副社長として営業面を見る形で業績を伸ばした。12年の関東大震災で社屋を焼失したものの、他社に先駆けて焼け残った3つの印刷所を押さえ、すぐさま震災特集号を製作に入った。そして明日には製本という段階で、そのうちの一つの光村印刷が火事に遭ってしまった(近所の子供のいたずらという)。さすがにがっくりくる石原を尻目に、知恵を絞ってこの難局を切り抜け震災から二十日後に『関東大震災号』を発刊。増刷に増刷を重ね、25万部とも40万部ともいわれる大部数を売り尽くしたという。

 

■直販画報業界を牽引

しかし、好事魔多しという。同業他社との合併問題をきっかけに大澤と石原の関係に亀裂が生じ、2人は訣別。大正14年大澤はグラフィック社を起こし、国際情報社の雑誌『国際写真情報』『劇と映画』にぶつける形で『グラフィック』『演芸と映画』の両誌を創刊、熾烈な販売合戦を繰り広げた。軍配は石原に上がりグラフィック社は倒産した。しばしの雌伏を経て、ペリー来航から今日(昭和改元)までの歴史を写真と絵画でふりかえるという企画を立てた大澤は、昭和3年東洋文化協会を設立して『幕末明治文化変遷史』を刊行。1冊1円の廉価で全集類が飛ぶように売れた“円本ブーム”の最中に25円という豪華本で、これを地方新聞社と販売提携を結んで販路を拡張した結果、昭和8年までに2万部余を売り上げて再起に成功。11年には『画報躍進之日本』を創刊するなど、石原と並んで“直販画報業界”を牽引したが、19年東洋文化協会は毎日新聞社に吸収され熱海に隠棲(『業界六十年史』に拠る。日配広報紙『新刊弘報』によれば戦時の企業整備で萬里閣に統合されたことになっている)。

 

■坊主憎けりゃ袈裟まで憎い 仇敵・石原との和解

戦後は、24年国際文化情報社を起こして『国際文化画報』を創刊。26年仇敵の石原が国際情報社を再発足させ『国際写真情報』『映画情報』を復刊すると、27年姉妹会社の国際写真通信社を創立して『国際写真通信』と『芸能画報』を発刊、再び石原との抗争に突入した。石原は『国際写真情報』と『国際写真通信』の二文字違いを商標権の侵害として国際写真通信社を告訴した。部下たちの苦慮により白紙和解が成立したが、これを機に長く憎み合ってきた大澤・石原の手打ち式を行うことになった。
大澤は部下と一緒に市電に乗っていると、目的地に着く前に急に降りることがあった。部下が理由を尋ねると「坊主が乗ってきたから」。法事にもなかなか行きたがらず、やむを得ず行っても、寺で出されたお茶や食べ物に手を付けず、終わったらサッと帰る。坊主が嫌いな理由は、石原が僧侶出身だったからである。一方の石原も車で京橋を通る際に必ずそっぽを向くところがあり、それは大澤の会社の本社前だという。そんなに意識し合っていた2人の手打ち式、お互いの会社に行くはずもない。
部下たちは京橋(大澤)と渋谷(石原)の中間地点である六本木の料亭を手打ち式の場所に設定。今度は部屋である。どちらを床の間の前に座らせても相手がつむじを曲げる、それで店に「床の間の無い部屋で」というと、当時のことなので「そんな部屋は無い」。それで床の間を正面に、両脇に席を作った。どちらかが先に着くとそれでつむじを曲げることは想像がつく。それで部下たちは、予め本社から料亭の間に車を走らせて予行演習をし、お互いがぴったりに着く時間を前もって測り、同時に到着するようにした。気をもんでいたが、幸いうまい具合に両者とも同じ時間に到着した。

そうするとぼくらの想像とは全然違うんです。両方でムッとして、どっちが先に口をきくだろうかと思って一分間ぐらい固唾をのんでいたんです。そうしたらなんのことはない顔を見たとたん、「ああ、しばらく」というようなもので、三十年来の戦友に会ったようななつかしそうな顔を二人ともしているわけです。
ぼくらは心配していたけど、当人同士は顔を見たらまるで昔の友達に会ったように、なつかしそうな顔をしているわけです。
「きみはずいぶん年を取ったな」
とか言っている。
あんなに憎しみ合っていて、会うまでは行かないのなんだのといってがんばっていて、顔を見たとたんに本当になつかしそうだった。その情景を見たら、昔の碁敵じゃないけれど、落語にあるように、あの野郎、顔見たらひっぱたいてやるなんて言うけど、暗くなるとウロウロして呼び合ったりするのと同じで、顔を見たらなんのことはない。
また、ヘタに仕事の話になるとたいへんなことですから、話題をそらせよう、なるべくバカっ話やエロ話かなんかさしておいたほうがいいということで、世間話をさせようとわれわれは固唾をのんでそばにいるわけです。
そうしたら仕事の話なんかそっちのけで、何一つ出ず、昔話をしていました。そこに非常に美しいものを感じ、感激的な場面でしたね。
その後、二人はときどき電話で話したりするようになりましたよ。

『業界六十年史』p241

おそらく昭和30年代前半の話である。2人は6歳違いで、大澤は昭和41年に83歳で、石原は昭和48年に84歳で亡くなった。

【図3】『業界六十年史』の口絵より

 

○大沢米造(おおさわ・よねぞう)
東洋文化協会創業者 国際文化情報社創業者
明治15年(1882年)7月21日~昭和41年(1966年)3月22日
【出生地】栃木県安蘇郡赤見村石塚(佐野市)
【学歴】高等小学校2年修了
【経歴】農家に生まれ、高等小学校を二年修了後は地元の呉服店の小僧に。兄を頼って上京、洋服屋に職を得るも病で郷里に戻る。再上京して洋服屋を営む中、得意先で、日本法律学会の名前で法律書と衛生関係書物の予約出版をしていた上野政吉の勧めにより予約出版の募集業務に着手。これが成功したことから出版業に手を染め、北川由之助と組んで『時事写真』などの画報を発刊する毎日通信社の営業を担当、洋服業界から足を洗った。大正5年同社倒産後は帝国経済通信社の名で銀行会社調査録の予約出版を開始、これが失敗して窮地に陥るも、竣工間際だった明治神宮を写真撮影して頒布することを思いついて大当たりを取り、再起。その余勢を駆って画報『国際写真情報』を企画、10年万朝報社長の武井文夫の仲介で石原俊明と知り合い、石原と国際情報社を創業。石原が社長として編集を、大沢が副社長として営業面を見る形で業績を伸ばし、12年には関東大震災から二十日後に刊行した震災特集号が大きな反響を呼び、25万部とも40万部ともいわれる大部数を売り尽くしたという。14年大正通信社との合併問題から石原と仲違いし、独立してグラフィック社を創立。国際情報社の雑誌『国際写真情報』『劇と映画』に対抗して『グラフィック』『演芸と映画』を創刊、両誌をぶつける形で抗争状態に入り熾烈な販売合戦を繰り広げたが、これに敗れてグラフィック社は倒産した。昭和3年東洋文化協会を設立して『幕末明治文化変遷史』という豪華本を刊行、地方新聞社と販売提携を結んで2万部余を売り上げて再起に成功。11年『画報躍進之日本』を創刊するなど、石原と並んで取次を通さず外交員が直接読者に販売する“直販画報業界”を牽引した。19年東洋文化協会は毎日新聞社に吸収され熱海に隠棲(『業界六十年史』に拠る。日配広報紙『新刊弘報』によれば戦時の企業整備で萬里閣に統合されたことになっている)。戦後、熱海の隠居所を引き払い、22年婦人雑誌『現代婦人』、23年同盟通信社の写真部長であった不動健治と組んで『世界写真新聞』を出すがうまくゆかず。24年国際文化情報社を起こして不動が編集、森村梢が販売を引き受ける形で『国際文化画報』を創刊。26年仇敵の石原が国際情報社を再発足させ『国際写真情報』『映画情報』を復刊すると、27年姉妹会社の国際写真通信社を創立して『国際写真通信』と『芸能画報』を発刊、再び石原との抗争に突入した。石原は『国際写真情報』と『国際写真通信』の二文字違いを商標権の侵害として国際写真通信社を告訴、同社代表者の長沢精宣は対応に苦慮し、ついに石原との直接会談で和解した。これを機に長く反目し合ってきた大沢と石原の会談も実現させ、歴史的和解にこぎ着けた。35年国際文化情報社は倒産したが、高田栄三らにより再建され国文社となった。
【参考】『大澤米造翁古稀記念誌』二一会/1952.7、『業界六十年史』全国出版販売協力会/1977.9

 


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