第40回 編集者の展覧会――「編集者かく戦へり」展と「没後10年編集者・谷田昌平と第三の新人たち」展
河原努(皓星社・近代出版研究所)
■日本近代文学館へ
先日、近代出版研究所の会合で所員の森洋介さんが「そろそろ会期が終わるので、見に行かないと」と言う。そこで、駒場の日本近代文学館で開催されていた展示「編集者かく戦へり」展を見て来た【図1】。会期は「2024年9月14日(土)―11月23日(土・祝)」で、この原稿が公開されている日にはすでに終わっている。
第1部『すべては原稿依頼から始まる』、第2部『編集者と作家のつばぜり合い』、第3部『一つの作品が世に出るまでには……』、第4部『編集者に寄せられた敬愛と感謝、時には励まし……』の4部構成からなる展示だった。
「武藤康史が編集委員をやっているだけあって、タイトルや導入文が捻ってあっていいやね」「みて。この宇野浩二の自筆原稿、丸字だけど読みやすい。一緒に置いてある日記とは書きぶりが違うから、ちゃんと清書していたんだね」などと見どころを口にする森さん。一緒に回ると勉強になるなあ。
こぢんまりとした展示ではあったが、さすが日本近代文学館である。樋口一葉から吉村昭まで書簡や自筆原稿類を中心とした資料が充実していて、平日の午後にもかかわらず来館者が引きも切らずであった。一番最後に飾られていた「第一回編集者歌謡曲大会実施要項」(昭和48年)といった資料は面白いですね。カラオケがない時代だと思うんだけど。
【図1】「編集者かく戦へり」展
■松下英麿の没年
併設の川端康成記念室でも「川端文学の名作Ⅱ」と題し、「編集者かく戦へり」展と関連して、作家でなく編集者としての川端康成の姿や、川端と編集者との交流の軌跡を紹介していた(「編集者かく戦へり」展の観覧料で見られた)。その展示の中に、松下英麿の著書『去年の人 回想の作家たち』(中央公論社、昭和52年)が置かれていた。松下は元中央公論社の編集者。会場の解説では「1907-没年不詳」とされていたが、「あれ? 『出版文化人物事典』を作った時に、確か松下の没年を突き止めたよな……」とモヤモヤ。あとで手控えをみると「平成2年10月22日没」、典拠は『中央公論新社120年史』とあった【図2】。
【図2】『中央公論新社120年史』p651。10月22日の項目に「元取締役松下英麿没」とある
■出版人の展覧会図録を拾う
私は積極的に美術館や文学館に足を運ぶタイプでは無いため、その辺の情報収集も疎い。知らないところでひっそりと(編集者も含めた)出版人の展覧会も行われているのだろうか。「編集者かく戦へり」展の図録に前文に「その後、(筆者注・日本近代文学館への)寄贈資料の中に、元編集者の手元にあった資料が目立つようになりました」とあったし、今後は同館に倣った企画の後続が期待されるところだ。
これも少し前、森さんが新橋駅前の古本市で拾ってきて「マイナーな所でも、こんな展示をやっていたんだね」と示してくれたのが『没後10年 編集者・谷田昌平と第三の新人たち展』という展覧会図録【図3】である。開催場所は「町田市民文学館ことばらんど」、会期は「2017年10月14日―12月17日」で、7年前だ。谷田は新潮社の編集者で、『回想 戦後の文学』(筑摩書房、昭和63年)という回想録があり、『出版文化人物事典』で立項する際に目を通した記憶がある。図録に拠ると、昭和33年から町田市玉川学園在住だったそう。だから町田市の文学館で展覧会があったのね。全国各地でこうやって地元つながりで出版人の展覧会が開かれ、気がつかないうちに終わっているのかもしれない。
【図3】図録にはチラシもはさまっていた
■教師から編集者へ・谷田昌平
この図録の谷田は大正12年生。昭和20年の太平洋戦争敗戦時は22歳という兵隊適齢期だが、年譜に戦争についての記述は無い。図録6頁に「私は教育関係の学校にいたため徴兵延期が続き、二十年六月に相馬ヶ原にあった前橋陸軍予備士官学校に入った。兵科は山砲だったが、入隊後間もなく、アメリカ軍本土上陸を想定して、爆雷をかかえて戦車の下へ飛びこむ特攻訓練が始まった」と『回想 戦後の文学』の文章が引かれていた。
戦後、東京高等師範学校から京都帝国大学文学部に移ると『万葉集』を専門とする国文学者の澤瀉久孝に師事したが、現代文学に傾倒する中で堀辰雄に魅せられ、「堀辰雄論」で卒業論文を書いた。副論文として「堀辰雄年譜」も書き上げたが、24年高校教師となっていた谷田のもとに堀本人から「年譜に手を入れたい」と連絡があった。すぐに堀に年譜を送ると、堀から訂正・書き込みが入った年譜が戻ってきたという。
高校教師の傍らで文芸評論を発表していた谷田であったが、28年に堀が亡くなるとすぐに新潮社から堀の全集が出ることが決まり、その校訂者として谷田に白羽の矢が立った。29年この仕事が縁で新潮社に入社、31歳にして編集者としての人生がスタートすることになった。
最初に手がけた本は室生犀星の6年ぶりの作品集『黒髪の書』。36年文芸評論家・巌谷大四の助言をもとに〈純文学書下ろし特別作品〉シリーズを企画、安部公房『砂の女』、大江健三郎『個人的な体験』、遠藤周作『沈黙』などの戦後文学の重要作を世に送り出した。中でも遠藤の代表作となった『沈黙』は、当初遠藤が最初につけたタイトルは「日向のにおい」だったが、これに反対し、最終的に谷田が提案した「沈黙」に落ち着いた。この他にも伊藤整『若い詩人の肖像』『氾濫』、武田泰淳『森と湖のまつり』、大江『見るまえに跳べ』、山﨑豊子『白い巨塔』、有吉佐和子『華岡青洲の妻』といった錚々たる戦後文学の作品群を担当、〈新潮日本文学〉(全64巻)の編集責任者でもあり、円地文子訳『源氏物語』や〈新潮日本古典集成〉なども手がけた。51年より文芸誌『新潮』編集長。56年出版部長、58年定年退職。63年回想録『回想 戦後の文学』を出版、平成19年84歳で死去した。
■充実した図録
以上、図録をもとに編集者・谷田について紹介してみた。
図録の書名が「没後10年 編集者・谷田昌平と第三の新人たち」となっているのは、新進の文芸評論家であった頃の谷田が、同時期に文壇で活躍を始めた“第三の新人”たちの集まり“構想の会”に参加しており、彼らと長く交友を深めたことに由来する。察するに、文学好きでもほとんどの人が名前を知らない(であろう)谷田のみの展示では人が呼べないので、世間になじみのある安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作、庄野潤三たちに“助力”を願ったであろうものか。
図録自体はB5判64頁、オールカラーで担当した文学作品の書影などを入れている他、津村節子や甥・谷田啓司ら旧知の人々の回想文などを収め、目に付きにくい媒体(例えばPR誌「大塚薬報」、文壇のつり趣味誌「ざこくらぶ」など)からも拾い上げた著作一覧もあり、とても充実している。また、谷田の妻である詩人・牟礼慶子(1929-2012)の仕事にも触れており、略年譜は夫妻一緒のものになっている(牟礼については詩人・井坂洋子の回想文がある)。
このように行き届いた出版人の図録はきっと他にもあるのだろう(あるといいなあ)。書籍や雑誌と違って、展覧会図録は出版の把握がしづらい媒体である。ご存じの方はご教示をいただければ幸いです。
○谷田昌平(たにだ・しょうへい)
「新潮」編集長 新潮社出版部長
大正12年(1923年)2月26日~平成19年(2007年)8月19日
【出生地】兵庫県神戸市
【出身地】徳島県海部郡川西村(海陽町)
【学歴】池田師範学校専攻科〔昭和18年〕卒→東京高等師範学校文科第五部〔昭和21年〕三年修了→京都大学文学部国文科〔昭和24年〕卒
【経歴】一人息子として神戸市で生まれ、病弱だったため郷里の徳島県川西村(現・海陽町)で小学生時代を過ごす。大阪の池田師範学校から東京高等師範学校文科に進む。昭和20年6月前橋陸軍予備士官学校に入り、8月敗戦を迎える。21年東京高師を3年修了で退学して京都帝国大学文学部に進学。『万葉集』を専門とする国文学者の澤瀉久孝に師事したが、現代文学に傾倒する中で堀辰雄に魅せられ、「堀辰雄論」で卒業論文を書く。卒業後は高校教師の傍らで『三田文学』『近代文学』などに文芸評論を発表。また、学生時代の友人たちと同人誌『青銅』を出す。28年に堀が亡くなるとすぐに新潮社から堀の全集が出ることが決まり同全集に校訂者として参画、29年この仕事が縁で新潮社に入社。入社後に初めて手がけた単行本は室生犀星の作品集『黒髪の書』。36年巌谷大四の助言をもとに〈純文学書下ろし特別作品〉シリーズを企画、安部公房『砂の女』、大江健三郎『個人的な体験』、遠藤周作『沈黙』など戦後文学の重要作を世に送り出した。中でも遠藤の代表作となった『沈黙』は、当初遠藤が最初につけたタイトルは「日向のにおい」だったが、これに反対し、最終的に谷田が提案した「沈黙」に落ち着いた。他にも伊藤整『若い詩人の肖像』『氾濫』、武田泰淳『森と湖のまつり』、大江『見るまえに跳べ』、山﨑豊子『白い巨塔』、有吉佐和子『華岡青洲の妻』といった錚々たる戦後文学の作品群を担当、〈新潮日本文学〉(全64巻)の編集責任者でもあり、円地文子訳『源氏物語』や〈新潮日本古典集成〉なども手がけている。39年新潮社出版部次長、46年新潮社副参事を経て、51年より文芸誌『新潮』編集長。56年出版部長、58年定年退職。63年回想録『回想 戦後の文学』を出版した。妻は詩人の牟礼慶子。
【参考】『没後10年 編集者・谷田昌平と第三の新人たち展』町田市民文学館ことばらんど/2017.10、『出版年鑑』平成20年版
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