皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第30回 ほとんどの訃報はひっそりと――平凡社元取締役・大澤正道の訃報を知る

河原努(皓星社・近代出版研究所)

 

■業界有名人の訃報でも社会に広く報道されるわけではない

先日、弊社創業者・藤巻のお仲間である古書りぶる・りべろの川口秀彦さんが来社された際に、「河原さん、はいこれ」と情報紙『アナキズム』の令和4年(2022年)11月1日号を手渡された。その少し前、藤巻の不在時に訪ねてこられた川口さんと四方山話をしている際に「大澤正道が亡くなってさ」と言われて驚いたのだった。

河「大澤正道さんって亡くなられたんですか。(あわててインターネットを検索し)でも訃報が出てこないんですが」
川「去年亡くなったんだよ。あれっ? 藤巻君のところに『アナキズム』が来ているはずだろう。見てないの?」
河「いやー、私のところには回ってきませんからね」
川「じゃあ、今度持ってくるよ」

私自身は大澤正道さんとは面識がないが、藤巻や川口さんの先輩にあたるアナキズム界(?)の巨頭と認識してはいた。以前、田村書店の外台にて200円で拾った『平凡社における失敗の研究』という本を著した大原緑峯という人が、大澤さんの筆名だとあとでどこかで知ってもいた。出版人の訃報を知ったからには、この連載で取り上げないわけにはいかない。さっそく自伝が無いか調べたら『アはアナキストのア――さかのぼり自叙伝』(三一書房、平成29年)という本が出版されていた【図1】。「ん? どこかで見たようなタイトル……」と思っていたら、弊社社長の晴山から「その本、会社の本棚にありますよ」と言われて納得。同書はどうやら弊社が出していた雑誌『トスキナア』に連載された「まさじいの自伝の下書き」をベースにしており、刊行時に大澤さんから献本されたようだ。

【図1】大澤正道さんの訃報が載った『アナキズム』2022年11月1日号と『アはアナキストのア』

 

■『アはアナキストのア』

この本、副題に「さかのぼり自叙伝」とあるように、新しいところから古いところに遡っていく、自伝としては異色の構成。読み物としては面白いが、順を追って経歴を書いていくとなると、手ごわい。大澤さんが編集者としてどのような本を手がけたか、といったことなどをきちんと拾うには、〆切間際なので時間が足りず、その辺りは後日に増補しよう。
本書に最初に出てくるのが『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版、平成16年。平成31年増補改訂【図2】)を制作する話だった。この事典、私の古巣・日外アソシエーツから刊行された『近代日本社会運動史人物大事典』(全5巻、平成9年)にまつわる因縁があり、その経緯が書かれていた。同「大事典」でアナキスト関係を一手に執筆した萩原晋太郎の書きぶりに他のアナキストたちが激怒し、「大事典」の編集委員に名を連ねた鶴見俊輔が彼らに“新たな事典を作ること”を勧めて誕生したのが『日本アナキズム運動人名事典』だという。「大事典」がなんらかの事情で絶版となっているのは古巣在職中に仄聞していたが、具体的な事実はこの本で初めて知った。
実は『近代日本社会運動史人物大事典』『日本アナキズム運動人名事典』ともに出版に関係する人が割と収録されている。活動が生業と並行できる(あるいは、しなければならない)分野の人名事典には、思いも寄らないような人が立項されていることも多い(この場合アナキストは生業ではなく活動・生き様であり、アナキストかつ出版人が両立しうる)。そういえば古巣で制作した『日本の写真家』(平成17年)という人名事典では、写真撮影を趣味とした石原莞爾や加藤建夫(加藤隼戦闘隊)なども立項した(※1)。事典の“幅”を広げる意味もあったのだが、写真家の人名事典に陸軍軍人が混ざっているとは、なかなか考えにくいだろう。

【図2】『日本アナキズム運動人名事典』

 

※1 『日本の写真家』には、担当編集者の岩﨑さんに頼まれて外注の執筆者として関与した。東京都写真美術館が監修だが、監修者が原稿を書くわけではないので、私と友人の前河賢二の2人で手分けをしてほとんどの原稿を手がけた。石原・加藤を立項したのは前河のアイデアだが、社員であった私の名前はともかく、外注執筆者の名前は同書のどこにも載っていないので、ここで証言しておく

 

■『平凡社における失敗の研究』

大澤正道は日本銀行名古屋支店営業主任だった父(※2)の任地である名古屋で生まれている。以後、父の転勤に従って各地を転々として育ち、旧制武蔵高校から東京大学文学部哲学科に進む。大学在学時からアナキズムに傾倒し、明治からの生き残りのアナキスト・石川三四郎らに親炙。日本アナキスト連盟に加盟し、その機関紙の編集を担当した。昭和25年石川と親しかった大宅壮一の伝手で、エマ・ゴールドマンの自伝を換骨奪胎した最初の著書『恋と革命と』をジープ社(※3)から刊行している。
昭和27年に大学を出ると、再び大宅の紹介により百科事典で有名な平凡社に入社。『哲学事典』の編集要員として単行事典編集部に配属され、長じて編集局長、出版局長を歴任、取締役にまで進んだ。61年に退社して間もなく、大原緑峯の筆名で『平凡社における失敗の研究』(ぱる出版、昭和62年)、『平凡社における人間の研究』(ぱる出版、昭和63年)の2冊を出した【図3】。
『平凡社における人間の研究』では、後年に出された『アはアナキストのア』で名前を伏せられている人たちが全て実名で登場する。大澤さんの目から見て“平凡社の失敗”の立役者と見えた人々の名を知りたいときは、こちらを参照されると良いだろう。

【図3】『平凡社における失敗の研究』『平凡社における人間の研究』

 

※2 大沢菊太郎(1885-1964)。満洲中央銀行副総裁、桐生市長を務めた

※3 ジープ社は731部隊に所属した二木秀雄が始めた出版社。加藤哲郎著『「飽食した悪魔」の戦後――731部隊と二木秀雄『政界ジープ』』(花伝社、平成29年)に詳しい

 

○大澤正道(おおさわ・まさみち)
筆名=大原緑峯(おおはら・りょくほう)
平凡社取締役
昭和2年(1927年)9月25日~令和4年(2022年)9月7日
【出生地】愛知県名古屋市
【学歴】武蔵高校卒→東京大学文学部哲学科〔昭和25年〕卒→東京大学大学院〔昭和27年〕修了
【経歴】5人兄弟(3男2女)の末っ子。日本銀行名古屋支店営業主任だった父・大沢菊太郎の任地である名古屋で生まれ、以後父の転勤に従って各地を転々として育つ。市谷尋常小学校から7年制の武蔵高校に進む。東京大学文学部哲学科在学時からアナキズムに傾倒し、石川三四郎らに親炙。日本アナキスト連盟に加盟、同組織の機関紙の編集を担当した。昭和25年石川と親しかった大宅壮一の伝手で、エマ・ゴールドマンの自伝を換骨奪胎した最初の著書『恋と革命と』をジープ社から刊行。27年大学を卒業、大宅の紹介で平凡社に入社。単行事典編集部に配属され、『哲学事典』に編纂に従事。同社編集局長、出版局長、取締役を歴任、61年退社。この間、アナキストとしての活動も続け、41年雑誌『黒の手帖』を創刊。著書は多く、自伝『アはアナキストのア』の他に、大原緑峯の筆名で『平凡社における失敗の研究』『平凡社における人間の研究』がある。
【参考】『アはアナキストのア : さかのぼり自叙伝』大沢正道【著】/三一書房/2017.7

 


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