皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第28回 第一法規出版の4冊の饅頭本

河原努(皓星社・近代出版研究所)

 

■路上出版研究会?!――重なる偶然は神意か?

今年、令和5年の9月下旬、人生初の出張から帰ってきた翌日に、所用があって近代出版研究所の小林昌樹所長と弊社で落ち合った。用事が済んで「これから西部古書会館(高円寺)に行く?」という話になり、おそらく南部古書会館(五反田)から東京古書会館(神保町)へ移動しているであろう、研究所第四のメンバーともいえる鈴木宏宗さんにお電話。「いま、東京古書会館の階段を下りたところですよ」とのことで、さっそく合流。一通り見終わった後、小林所長の運転で西部古書会館へ。車中、鈴木さんが「さっき南部古書会館でこういう出版人の饅頭本(※1)を二百円で拾いましたよ」と『追想の田中重彌』(平成10年)を見せてくださる。「あ、これ第一法規出版の社長ですね」。近代出版研究所は事務室も某所にあるのだが、かように移動中の書誌情報の交換が重要なのである。
西部古書会館で所員の森洋介さんと合流、小林・鈴木・森の黄金トリオに、河原が加わったカルテット編成で、小林さんが忘れ物をしたという南部古書会館へ移動することに。するとその途中、古本フレンズの兵務局さんから連絡が。急遽、西部古書会館へとって返して合流、改めて南部古書会館へ。南部古書会館近くの駐車場に着くと、兵務局さんが先ほど荷台に運び込んだ段ボールを取り出して講釈を始めた。箱の中身は小林さんに譲る本だった。函入りの立派な1冊を指さして「これはね、第一法規出版に勤めていた俳人の饅頭本ですよ」。まるで路上観察学会ならぬ、路上出版研究会だね。
あれ、そういえば研究所に1冊、第一法規出版役員の私家版随筆集があったぞ。これは3冊をまとめてここで紹介しろという天の声かしら、と思った。

※1 出久根達郎『万骨伝: 饅頭本で読むあの人この人』(ちくま文庫)の定義に拠ると「古書業界・出版業界では、故人をしのぶ追悼本を葬式饅頭になぞらえて饅頭本という。紅白饅頭のように配られる記念本も饅頭本のうち」

■第一法規出版について

明治半ばのこと。長野県豊栄とよさか村(現・長野市)の役場に勤めていた書記・近藤仙蔵は、県が出す県令・訓令・告示などの法規類が改正される度に原文条項に補正を加えて整理していたが、他の村役場でも数多くの人がこの煩雑な仕事をやっていることに思い当たった。「地方行政に必要な一切の法規類を体系的に整理して、改正がある度にその部分を印刷頒布できないか?」と考えた近藤は、同僚の神戸鬼太郎に諮り、2年がかりで原稿用紙4000枚、3000ページの原稿を準備。明治36年、2人は役場を退職して自宅に加除式法令集『現行長野県法規』発行を目的とする令省社を設立したのであった。
ところが、明治43年近藤は32歳で早世してしまう。残された神戸は創業以来令省社の印刷面の全てを受け持ってきた田中弥助に協力を仰ぎ、弥助の兄で実業家の田中喜重郎を社長として令省社の事業を継続することになった。しかし、ここに強力なライバルが現れる。帝国地方行政学会、現在のぎょうせいである。令省社より早く明治26年に京都で創業、やがて東京に進出し、令省社と同じ加除式法令集を出版する大手となっていた。全国的な総合法規書の販売を軸に地方ごとの県法規も手がけ、強力な販売力を持つ帝国地方行政学会が長野県に進出すると、長野県一県のみを相手にする令省社は太刀打ちできない。対抗策として自分たちも中央の法規を手がけるしかないと田中兄弟らは決断する。大正6年、彼らは令省社を発展的に解散し、東京市日本橋区で大日本法令出版株式会社を設立した。初代社長には引き続き田中喜重郎がついた。
関東大震災で東京本社が焼失するなど苦難はあったものの、禍転じて福となし、震災後の法規書払底の好機を突いて中央高級官庁にも食い込み、昭和初期には加除式法令集出版分野で三本の指(※2)に数えられるほどに急成長。戦時体制下、日本出版文化協会により全国44社あった加除式法令集出版社が4社に再編された際に大日本法令出版は第一法規出版株式会社に生まれ変わり、現在も盛業中である。この辺の一連の流れは『第一法規出版株式会社七十年史』(第一法規出版、昭和48年)に拠る【図1】。

 

【図1】第一法規出版の社史および、今回取り上げた3冊

※2 帝国地方行政学会、大日本法令出版、それに岐阜県に本社を持つ啓文社

■『無極 : 小林俠子随筆集』

この社史を編纂委員会委員長として編んだのが当時常務編集局長であった小林武雄という人物。兵務局さんが持ち込んできたのは、その没後に編まれた随筆集『無極 : 小林俠子随筆集』(平成5年)だった【図2】。俠子きょうしは俳号で、小林は第一法規出版に勤める一方、臼田亜浪、栗生純夫門下の俳人でもあった。純夫没後は『火燿』を創刊・主宰したが、平成3年同誌は俠子の死により終刊。
俠子は生前に6冊の句集を刊行していたが随筆集は無く、息子に「俺が死んだら随筆集を出してくれ」と希望を漏らしていたと『無極』の「あとがき」にあった。主宰誌や社内誌などに書きためた文章を集めて立派な装丁に包んでいるが、まとまった自伝的な文章は収められておらず、出版史的には食い足りない。同じく没後に作られた遺句集『寂光』もある。

 

【図2】函の背にある鉛筆書きは小林所長のメモ

■国会図書館も未所蔵の『寒墨集』

近代出版研究所で所蔵していたのは『寒墨集』(昭和39年)【図3】。第一法規出版専務を務めた竹内和志雄の随筆集である。こちらは俠子の随筆集と違って著者の生前に出され、著者と俠子の手により編まれている。初出は書かれていないが、目次に「職場と愛情」「揚げ底主義を廃せ」「自己の立場の自覚」「新春随想」「職場のモラル」「最近の世界情勢について」「既婚女子社員の問題について」といった文字列が並んでおり社内向けと思われる文章が多く、社内報に載ったものか。社史の副読本としての用はあろうが、社外の人が読んで面白いと思うことはなかろう。こういった、同じ出版社の饅頭本をまとめて紹介というテーマでなければ、この連載で取り上げることはなかったろうなあ……。同書は竹内の会社生活四十年を記念して作られた非売品の配り本で、饅頭本と聞くとなんとなく追悼文集を思い浮かべるが、こういった本も饅頭本である。この本は県立長野図書館に所蔵があるきりで、国会図書館も未所蔵のため珍しい本とはいえる。
ただし「私の現職」というページはあるものの略歴や来歴は無く、私の期待した内容ではなかった。経歴等は前述の社史に「竹内和志雄の死」という一項が設けられており、そこに発病記録や弔辞、略歴が収められている。「国会図書館デジタルコレクション」で検索したら、「全公連再建の恩人 竹内和志雄氏(第一法規専務)をいたむ」樋上亮一(『月刊公民館』昭和45年4月号)が見つかった。

 

【図3】この本だけ一回り小さいです

■これぞスマートな饅頭本『追想の田中重彌』

上記2冊の本に「序」「刊行に寄せて」を寄せている、第一法規出版の2代目社長である田中重弥の追悼文集【図4】。本の背文字は元首相・宮沢喜一、口絵の肖像写真は秋山庄太郎。140ページにのぼる評伝「守成の人 田中重彌」は同郷の出版ジャーナリスト・塩沢実信の執筆で、団藤重光、小坂善太郎、羽田孜、鈴木俊一ら錚々たる面々が追悼文を書いている。
評伝+著名人の追悼文に年譜が付き、函入り上製本という、これぞ饅頭本の見本という感じの1冊になっており、トータルで300ページほどのスマートな仕上がりは好もしい。……というのも同じ函入り上製でも人を殴り殺せそうな鈍器のような本も、ある種饅頭本の定番ではあるからだ。

 

【図4】背の文字は宮沢喜一元首相の手によるもの

■『美穂:田中弥助君追悼録』と神奈川県立川崎図書館についての余談

今回手にした3冊に加え、4冊目として田中重弥の父、第一法規出版の初代社長の田中弥助(1883-1943)の饅頭本で、終戦直後に出された『美穂:田中弥助君追悼録』(昭和21年)にも言及しておこう。といってもこの本は残念ながら手元にないので、その存在を示すのみにとどまるが……。
同書は国会図書館未所蔵だが、都立中央図書館、神奈川県立川崎図書館、県立長野図書館などが所蔵している。私が『出版文化人物事典』で田中弥助を改稿した際は県立川崎のものを借りだした。県立川崎には『出版文化人物事典』と『日本の創業者 : 近現代起業家人名事典』(日外アソシエーツ、平成22年)という本を作った時に毎週のように通った。私は『文献継承』23号(平成25年)に寄せた「『出版文化人物事典』における人物調査の方法」という文章の中でこんなふうに書いた。

県立川崎図書館には約1万5000冊の社史を所蔵している社史室があるほか、実業に関する資料も集めていることから実業家の伝記や追悼文集も多く、その中には出版関係も含まれている。同館は国会や都立中央と違って貸し出し可能な点が何より有り難く(10冊まで)、国会ではすでにデジタル化により直接手に出来なくなっているような戦前の古い本でも平気で貸し出してくれる。明治出版人の基礎資料である『東京書籍商組合史及組合員概歴』(東京書籍商組合、1912)の原本が開架で並んでいて、さらに借りられるという図書館はここくらいであろう。なお、同書は青裳堂書店からの復刻(『東京書籍商伝記集覧』、1978)がある。

先ほど検索したら『東京書籍商組合史及組合員概歴』は「貸出不可」になっていた。『美穂:田中弥助君追悼録』は今でも借りられる。

 

○小林武雄(こばやし・たけお)
号=小林俠子(こばやし・きょうし)
第一法規出版専務 俳人 『火燿』主宰
明治44年(1911年)10月14日~平成3年(1991年)8月24日
【出生地】長野県長野市立町
【学歴】長野商業学校〔昭和4年〕卒
【経歴】昭和11年大日本法令印刷、18年第一法規出版に入社。23年編集部第一課長、26年編集部校正課長、39年編集部長、44年編集局長、46年常務、47年社史編纂委員会委員長を経て、48年専務。編集畑で陣頭指揮を執り、田中重弥社長の片腕として会社の発展に貢献した。51~55年第一法友社長。傍ら、7年より俳人の臼田亜浪に師事、『石楠』に拠る。16年『石楠』年度賞を受賞。21年栗生純夫主宰『科野』発刊に当たり筆頭同人として参画、22年第一句集『雉子』を刊行。37年『火燿』を創刊して主宰。他の句集に『烈日』『葛嵐』『暮雪』『濁世』『幻日』がある。没後、遺句集『寂光』、随筆集『無極』が編まれた。
【参考】『無極 : 小林俠子随筆集』1993.3

 

○竹内和志雄(たけうち・わしお)
第一法規出版専務
明治33年(1900年)5月6日~昭和45年(1970年)2月22日
【出生地】長野県埴科郡豊栄村(長野市)
【学歴】豊栄村尋常高等小学校高等科〔大正3年〕卒
【経歴】大正12年大日本法令出版に入社。昭和6年帝国法規出版編輯課長、9年大日本法令出版編輯課長、15年同営業課長、18年4月第一法規出版大阪営業所長、12月同社業務部長、20年取締役、23年常務を経て、33年専務。“名参謀長”として田中重弥社長を支えた。45年出張先の宮崎市で発病、肝炎のため急逝した。39年随筆集『寒墨集』を出した。
【参考】『第一法規出版株式会社七十年史』1973.10

 

○田中重弥(たなか・しげや)
第一法規出版社長 衆院議員
明治41年(1908年)3月30日~平成5年(1993年)2月25日
【出生地】長野県上水内郡芹田村字中御所(長野市)
【学歴】長野商業学校〔大正14年〕卒
【経歴】父は第一法規出版創業者で衆院議員も務めた田中弥助、10人弟妹(4男6女)の一番上の長男。大正14年長野商業学校を卒業すると大阪の浜田印刷所に入り、昭和2年東京印刷、3年今井印刷所、4年家業の田中印刷で修業。7年合併により大日本法令出版社員となり、8年庶務課長に就任して販売課長、編輯課長を兼任、12年出版部支配人、14年常務。18年2月加除式法令集出版社の再編により第一法規出版が誕生すると重役待遇参事(社長秘書)、10月初代社長である父の死を受けて2代目社長に就任。同年大日本法令印刷社長も兼ねる。34年同会長、平成元年第一法規出版会長。昭和21年戦後初の衆議院選挙で長野県全県区から初当選。22年落選、24年返り咲き、27年引退。通算2期。民主自由党に属した。55年~平成4年長野放送会長を務めた他、長野県印刷工業協同組合初代理事長、長野県経営者協会会長、日本出版クラブ評議員なども歴任。父同様、茂哉の号で俳句をよくし、句集『土を恋ふ』『朴の花』がある。追悼文集『追想の田中重彌』に同郷の出版ジャーナリスト・塩沢実信による評伝「守成の人 田中重彌」が収められている。
【参考】『追想の田中重彌』1998.2

 


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