第25回 出版人でもあった富本一枝――山の木書店のこと
河原努(皓星社・近代出版研究所)
■出版にも携わった文化人
他所の版元はどうなのかわからないが、弊社では割と他の人の編集作業を手伝う。国会図書館などでのコピーや著作リストの制作・整理、略歴の作成などは私が頼まれることが多く、来月刊行予定の『新しい女は瞬間である 尾竹紅吉/富本一枝著作集』(足立元編)もそうやって手伝った一冊だ。編集担当の楠本に「尾竹の略歴をお願いできますか?」と渡された年譜(『開館30周年記念特別展 富本憲吉と一枝――暮らしに役立つ美しいもの』富山市陶芸館/2011、所収【図1】)を読んでいくと「1948(昭和23)年」の項目に「〔筆者注・長女の〕陽とともに児童図書出版、山の木書店創立。」とあった。本連載の第1回も版画家・美術史家の小野忠重が出版人でもあったという事実を取り上げたが、出版にも携わった文化人というケースに再び出会ったのであった。
【図1】今回の参考資料。『薊の花 富本一枝小伝』の表紙絵は一枝の屏風絵だそう
■尾竹紅吉/富本一枝とは
日本画家の長女として生まれた尾竹一枝は自らも日本画の道に進む一方、18歳で青鞜社に入り、紅吉の筆名で文章を書き始める。故あって1年足らずで『青鞜』を離れ、20歳で雑誌『番紅花』を出したが、同年陶芸家の富本憲吉と結婚して家庭に入る。現代にスライドさせてみると高校3年で世に出て、大学2年で結婚した感じ――生き急いでいる感じがしますね――で、結婚後は家庭生活の傍ら、本名の富本一枝で女性誌などに文章を寄せている。時期に違いがあるものの二つの名前で活動しており、新刊が「尾竹紅吉/富本一枝著作集」になっている所以である。
戦後、富本憲吉は東京の家を出て、単身関西へ去る。「五三歳になっていた一枝は、生まれてはじめて自分の力で生きなければならなくなった」「一枝はほとんど同時進行のような形で、二つの仕事を始めた」(高井陽・折井美耶子著『薊の花 富本一枝小伝』ドメス出版、昭和60年 p187)。一つの仕事は俳人・中村汀女の主宰誌『風花』の編集、そしてもう一つの仕事が児童書の出版であった。一枝は子どもたちの小さな頃(大正11~12年)、家族内で雑誌『小さき泉』(全5号)【図2】を作っていたこともあり、編集という行いには親しみがあったのだろう。
【図2】『開館30周年記念特別展 富本憲吉と一枝――暮らしに役立つ美しいもの』富山市陶芸館(2011)から引用
■ニューフレンド
『薊の花 富本一枝小伝』に拠ると、一枝は戦時中から子どもたちに向けてすぐれた本を出版する夢があり、戦後は子供の教育への見識に加え、絵画や文学にも造詣が深いことを買われてニューフレンド社という出版社で一時絵本の企画に携わっていたらしい。
ニューフレンド社という出版社は初めて聞いたが、「国会図書館オンライン」で引いてみると33件ヒットする。正式名は「ニューフレンド」、刊行時期は昭和21年から27年までの間。井上義朗という人が経営していたようだが詳細は不明(※1)。
戦後は雨後の竹の子のように出版社が林立するも、その多くは長く続かなかった。連載第11回で取り上げた文潮社などはその典型だろう。
※1 『映画年鑑』1955年版(時事通信社)をみるとニューフレンドは映画部を持ち、映画製作や販売も手がけていた
■山の木書店
さて、一枝が長女と始めた山の木書店は、昭和23年の創業。社名は親しかった作家の大谷藤子のいとこの子である野口守茂から、秩父の“山の木”を売った代金を資金として提供されたことに由来する。企画や編集は一枝が、経理など事務的なことは長女の高井陽(1915-1982)が担当した。第一作は吉野源三郎の『人間の尊さを守ろう』。吉野は小説『君たちはどう生きるか』で知られ(同名の宮崎駿のアニメ映画がいま上映中ですね)、岩波書店の総合誌『世界』初代編集長である。2冊目は久保田万太郎『1に12をかけるのと12に1をかけるのと : 少年少女劇集』、3冊目は中沢不二雄『ぼくらの野球』。その後も、
『フィリップの本 : 小さな町の人々』シャルル・ルイ・フィリップ著、小牧近江訳【昭和24年1月刊→NDLデジタルコレクションの奥付は昭和25年2月刊に貼り替えられている】
『シラノ物語』辰野隆・鈴木信太郎・横塚光雄【昭和24年3月刊】
『柿の木のある家』壺井栄【昭和24年4月刊】
『蟻と狐』塩谷賛【昭和24年6月刊】
『わらったさかな : ひらがなどうわ』槙本楠郎【昭和24年9月刊】
『祖母のものがたり』ジオルジュ・サンド著、杉捷夫訳【昭和25年2月刊】
『ジァンヌ・ダルク』横塚光雄【昭和25年6月刊】
などを刊行。念のため「国会図書館サーチ」で検索してもこの10点のみで、『1に12をかけるのと12に1をかけるのと : 少年少女劇集』末尾にある「近刊書目」【図3】のうち、芥川龍之介『魔術』と渡辺一夫・文字幸子『パンタグリュエルの占(うらない)』は出なかったようだ。
【図3】国立国会図書館蔵より引用
なお、これらの10点全てが「国会図書館デジタルコレクション」を通じて読むことが出来る(『1に12をかけるのと12に1をかけるのと : 少年少女劇集』『柿の木のある家』『わらったさかな : ひらがなどうわ』『祖母のものがたり』はログインしなくてもOK)。いずれも品が良い。前述書で折井美耶子は書く。
子どもたちには最も良質な文化をと願って作られた本だったが、やはり当時の物価からみてかなり高い本だった。二四年に出版した壺井栄の『柿の木のある家』は、第一回児童文学賞を受賞するという栄誉をになった。そして、ほかにも数冊の本を出版したが、結局営業的に採算がとれず、負債を残して潰れた。
「母の考えていることは、いつも現実よりも一、二歩進んでいるんですよね。半歩くらいならよろしいんですけれど。当時は、まだ人びとが満足におなかを一杯にすることのできない時でしたから、生活に追われて、子どもの本にまではとても手が回らなかったんですよ」。
山の木書店を一生懸命手伝い、一枝と苦労をともにした陽さんの言葉である。(p191)
■晩年の一枝と唯一の著書
折井の引用を続ける。
山の木書店が残した負債を、肩代りしたのは、暮しの手帖の花森安治だった。そして山の木書店の残務整理も終った昭和二六年頃から、一枝は『暮しの手帖』に執筆を始め、亡くなる前の年まで一五年間書き続けた。(p192)
書き続けたのは60編に上る「お母さんが読んで聞かせるお話」。世界の民話・伝説・寓話・詩などを題材に書き綴った物語は、藤城清治の影絵とのコンビで好評を博し、没後に『お母さんが読んで聞かせるお話』A・Bとして刊行された。
上記2冊が長く一枝の唯一の著書でしたが、来月弊社が刊行する『新しい女は瞬間である 尾竹紅吉/富本一枝著作集』で、初めて童話以外の文章が書籍として世に出ます。どうぞよろしくお願いいたします。
○富本一枝(とみもと・かずえ)
筆名=尾竹紅吉(おたけ・べによし)
山の木書店創業者 文筆家
明治26年(1893年)4月20日~昭和41年(1966年)9月22日
【出生地】富山県富山市
【学歴】女子美術学校〔明治44年〕中退
【経歴】日本画家・尾竹越堂の長女で、叔父の尾竹竹坡・尾竹国観も日本画家。東京、大阪で育ち、女子美術学校を中退。明治45年18歳で雑誌『青鞜』に参加。自ら付けた紅吉の筆名で表紙絵を描き、詩や文章を発表したが、『青鞜』の二大スキャンダルとされる「五色の酒事件」及び「吉原登楼事件」の当事者となり、“新しい女”として世間の非難を浴びたため、9ヶ月で青鞜社を去った。大正3年20歳で月刊誌『番紅花(サフラン)』を神近市子、松井須磨子らと創刊するも、陶芸家の富本憲吉との結婚により6号で終刊。翌年より夫と奈良県安堵村(現・安堵町)で暮らし、15年一家で上京。昭和21年を境に夫と別居。22年中村汀女の句誌『風花』創刊を援け編集を担当、23年には長女の高井陽とともに児童図書出版の山の木書店を創立した(2年で閉鎖)。結婚後も『中央公論』『女人芸術』を始め各誌に文章を寄せ、晩年は『暮しの手帖』に童話を発表するなど、亡くなる直前まで文筆活動を続けた。
【参考】『薊の花 : 富本一枝小伝』高井陽・折井美耶子【著】/ドメス出版/1985.6
☆本連載は皓星社メールマガジンにて配信しております。
月一回配信予定でございます。ご登録はこちらよりお申し込みください。