第24回 偶然という名の必然――児童文学編集者・上田龍夫の追悼文集『レクイエム』の出現
河原努(皓星社・近代出版研究所)
■「ざっさくプラス」の欠号補充
先日、弊社の雑誌記事索引データベース「ざっさくプラス」に次の雑誌を登載した。
「大学出版」第1号(昭和61年5月)~第100号(2014年10月)
※大学出版部協会の季刊PR誌。酒井道夫、青木淳一、三浦義博、山本俊明、植村八潮、箕輪成男、中野三敏らが執筆。101号からNDL「雑誌記事索引」に採録されており、雑索欠号補充により全号通しての検索が可能に。継続刊行中
上記にあるように、国会図書館の「雑誌記事索引」は途中の号から採録されても、それ以前の巻号は遡及入力されないようだ。我等が近代出版研究所の小林昌樹所長によると「遡及入力しないのが伝統らしい」という。そこで「ざっさくプラス」はそれを補充して全号を通しての検索が可能になるように努めている。
採録担当者(=私)がどうやってそういう雑誌を見つけてくるかというと、今のところは偶然だ。今回の『大学出版』は古本市で手にして「これは登載しなきゃな」とメモして帰り、「ざっさくプラス」を検索したら中途半端な収録具合だったので補充したわけである。
現在、同様に欠号補充のための登載準備をしている雑誌の一つに『論叢児童文化』という研究同人誌がある。これは全50号中、NDL「雑誌記事索引」では33号からの採録で、32号までは未採録だ。NDLも雑誌自体は所蔵しているので、出納して目次と奥付をコピーした。その際、ある号の目次に目を落とすと児童文化研究家の上笙一郎(かみ・しょういちろう、1933-2015)が「児童文学者の追悼文集」という一文を書いていた。ピンときて記事に目を通すと、やはり末尾の方に「終りに児童雑誌・児童書の〈編集者〉だった人の追悼文集を挙げると」とあった。
■偶然という名の必然
私が『論叢児童文化』の存在を知ったのは、やはり古本市で場所は南部古書会館。実はここ数年、古書店の月の輪書林が上笙一郎の旧蔵書を出品し続けており、そのなかに紛れていたのだ。
そして先日、小林所長・森洋介さん・私という近代出版研究所の面々で南部古書会館へ行った際、森さんが「河原さん、これ知っている?」と一冊の本を差し出した。『レクイエム――上田龍夫さんを偲んで――』【図1】と題されたその追悼文集の存在を私は知っていた。なぜなら、前述の一文に上はこう書いていたからだ。
終りに児童雑誌・児童書の〈編集者〉だった人の追悼文集を挙げると、『回想の向坂隆一郎』(一九八四年・追悼集編集委員会刊)と『レクイエム(上田龍夫さんを偲んで)』(一九九一年・上田龍夫さんを偲ぶ会刊)がある。前者は早大童話会出でジャーナリストとなり「銀河」「芸術新潮」などを編集した人への哀悼の一冊、後者は小峰書店・偕成社のユニークな性格の編集者だった人への知人たちの友愛の文集と言ったらよいだろうか。
『論叢児童文化』5号 p51
2冊挙がっているうち『回想の向坂隆一郎』は、かつて『出版文化人物事典』で向坂を立項・執筆した際に目を通している。しかし、『レクイエム(上田龍夫さんを偲んで)』は調べた限りの図書館には所蔵が無く、「日本の古本屋」にも出品されていなかった。私の心のメモ帳はあったが、どこにも見当たらない本。それがここに出現した。かつてこの本の存在を記した上の旧蔵書として。それは「偶然という名の必然」だ。
私は森さんにこう答えた。「知っています。探していました」。
【図1】この1冊が意外とどこにもないのです
■追悼文集を集めるということ
『レクイエム(上田龍夫さんを偲んで)』を一読すると、上田が出版業界に入ったのは、親戚であった新潮社の編集者・石川光男がきっかけのようだ。石川の遺文集『花咲く島・国境』の存在も上の「児童文学者の追悼文集」で知って、入手した。上はその文章を次の一文で締めている。
以上、三十一冊を紹介したが、このうちわたしが贈られたり求めたりして直かに入手したものは九冊だけ、その余の二十二冊は古書展や古書販売目録によって購入したのである。多くは私刊の追悼文集であり、故人とつながりのある人にだけ贈られたものだろうと思うのだが、それでも、古書市場へ流出するのだ。悲しいような、しかし研究者としては有難いような――
私は決して自分を研究者と自認してはいないが、出来うる限り、出版人の追悼文集を集めて存在を記録していくつもりである。私が上の文章を目にしてこれらを手にできたように、いつか誰かが私の記述を目にして、これらの本を入手するであろうから。
○上田龍夫(うえだ・たつお)
編集者 偕成社編集部次長
昭和9年(1934年)3月24日~平成2年(1990年)8月21日
【出生地】東京市淀橋区柏木(現・東京都新宿区)
【学歴】明治大学文学部〔昭和31年〕卒
【経歴】6人姉弟(3男3女)の4番目の長男。成城高校から明治大学に進み、在学中の昭和30年、親戚の石川光男の紹介で新潮社出版部嘱託となる。33年小峰書店編集部に入社、〈創作幼年童話〉(第2期)や『国分一太郎児童文学集』(全6巻)などを編集。同社では同僚の砂田弘、森田健と仲が良く“小峰の三悪田”と呼ばれたという。43年児童文学作家である古田足日の橋渡しで偕成社編集部へ移ると同社に初めて創作児童文学を持ち込み、第一線で活躍していた児童文学作家の書き下ろしで〈偕成社幼年創作どうわ〉シリーズを開始。のち同社編集部次長。平成2年胃がんのため56歳で急逝。編集を担当した代表的な本に、田島征三『しばてん』『ふきまんぶく』『とべ バッタ』(文絵とも)、古田足日『大きい1年生と小さな2年生』(中山正美・絵)、佐藤さとる『マコトくんとふしぎないす』『おおきな きが ほしい』(ともに村上勉・絵)、いぬいとみこ『きんいろのカラス』(朝倉摂・絵)、神沢利子『はけたよ はけたよ』(西巻茅子・絵)や、赤羽末吉との一連の作品がある。〈じぶんで読む日本むかし話〉シリーズが遺作となった。没後、知友により追悼文集『レクイエム――上田龍夫さんを偲んで――』が編まれた。
【参考】『レクイエム――上田龍夫さんを偲んで――』上田龍夫さんを偲ぶ会/1991.7
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