第20回 判例タイムズ社と海口書店、そして連合出版社――橋本・海口兄弟と外川父子
河原努(皓星社)
■忙しくて週末古書展に行けません
私の所属する近代出版研究所。その所長である小林昌樹さん初の単著『調べる技術』(皓星社、令和4年)が絶好調だ。しかし、「好調」とは「忙しい」と同義で、書店さんからひっきりなしに注文や在庫確認のお電話を弊社に頂くため、それまで仕事の一環として業務時間中に足を運んでいた東京古書会館での週末古書展に行く時間が取れなくなった(まー、プライベートで行くんですけどね)。
最後に業務時間中に週末古書展へ行ったのは……『調べる技術』の原稿を印刷所に入稿し終えたばかりで、ようやく一息ついた去年11月下旬。そのとき手に取ったのが外川晋吾『「判例タイムズ」四十余年』(判例タイムズ社、平成3年)だった。未知の本で「“業界誌”ではなく“業界紙”だったら新聞史で、出版史と分野が違うんだけどな」と思うも、300円なので購入した。戻って調べると国会図書館に所蔵されているものの、他の所蔵機関は最高裁判所図書館と大学5校(うち都内は1校のみ)で、割と珍しいようだ。
■複雑な判例タイムズ社
『「判例タイムズ」四十余年』に目を通すと、どうやら雑誌社のようでホッとする。読んでみると「赤裸々ではあるが面白みは少ない」というのが私の感想だ。なにより判例タイムズ社設立の経緯がややこしく、これを手短にまとめるのはなかなか手間だなあ、と思う。
昭和21年秋、父が経営する出版社(連合出版社)の専務兼編集長であった外川青年は、訪問先の法律事務所で新しい法律雑誌が進行中という話を聞く。なにやら問題を抱えているようで、頼まれて首を突っ込んだのが転機となり『法律タイムズ』の創刊に関与、その後も編集に参加した。同誌の版元となった海口書店の編集長格を務めていた23年夏、父から「仕事があるから会社に帰れ」と言われ連合出版社に戻る。その後、海口書店は24年中に倒産した。
『法律タイムズ』は海口書店創業者・海口守三の実弟である橋本八男が法律タイムズ社刊として再刊、姉妹誌の『判例タイムズ』も同社が引き受けた。25年、今度は法律タイムズ社の雲行きが怪しくなり、外川に復帰要請が届く。同社の実質的なオーナーである橋本武人弁護士(海口・橋本兄弟の長兄。のち第一東京弁護士会会長)から意見を求められた外川は「学者を中心とする「法律タイムズ」には自信を持てないが、「判例タイムズ」は、復刊後間もないし、同人雑誌でもあるのだから、細く長く式のつもりでならば続けられるのではなかろうか」(p17)と答えたところ、すかさず「法律タイムズは捨てて、判例タイムズを残そう」、続いて「よろしく頼む」と言われてしまう。
以後、『「判例タイムズ」四十余年』は『判例タイムズ』を引き受けた編集兼発行人である外川が、オーナーである橋本弁護士からの介入に悩まされる闘いの日々を描いてゆく。「赤裸々ではあるが面白みは少ない」と言ったのは、この辺りの事情による。
【図1】『「判例タイムズ」四十余年』と『栖 とす・みやきの自然と歴史をさぐる郷土誌』43号の記事
■海口書店の話
むしろ面白いのは、海口書店のことである。同書に次の記述がある(p3)。
なお、株式会社海口書店社長 海口守三氏は、編集委員橋本武人弁護士の実弟(毎日新聞ニューヨーク支局長、のちに、上海・海口機関として、当時、児玉機関と並ぶ)であり、のちに出てくる法律タイムズ社橋本八男氏は、武人氏の末弟(社会党教宣部長の経歴を持つ)。すなわち、両誌(法律タイムズ誌と、後に、同じ海口書店刊判例タイムズ誌)の初期の頃は、橋本三兄弟によるオーナーの持ち廻りであり、その中心が長兄橋本武人弁護士であったということであろう。
「海口守三」でインターネットを検索すると、佐賀県鳥栖市の初代市長が同姓同名で見つかる。市長の経歴を調べるならばと、まず『日本の歴代市長』全3巻(歴代知事編纂会、昭和58~60年)を見る(※1)。すると「大正十四年東京帝国大学経済学部を卒業し、大阪毎日新聞に入った。昭和七年ニューヨーク支局長となり、後、拓務大臣秘書官、中国南京政府経済顧問、平和相互銀行顧問を歴任、二十九年五月鳥栖市長に就任」とあり、これで海口書店社長と鳥栖市の初代市長は同一人物と立証できた。
続いて、追悼文がないかと弊社「ざっさくプラス」を引いたところ【図2】【図3】、なんと『栖 とす・みやきの自然と歴史をさぐる郷土誌』43号(平成15年12月刊)に「特集Ⅰ 初代鳥栖市長 海口守三氏をしのぶ」があることが判明した! この雑誌、国会図書館に所蔵されておりコピーを取ってみたが、十本ほどもある追悼文は全て市長時代のことに終始しており、略歴の中に「昭和23年 海口書店創立」の一文があったこと、平成15年10月7日102歳没という事実がわかったことの2つのみが収穫であった(※2)。上記の「上海・海口機関として、当時、児玉機関と並ぶ」という記述にとても興味を惹かれるが、ざっくりとした調べ方ではよい情報が出てこなかった(※3)。
【図2】「ざっさくプラス」を引くと、書かれた文献の年代分布が一目瞭然!
【図3】上記グラフの2003年の「棒」をクリックすると、こちらの図に飛びます
※1 知事なら『新編 日本の歴代知事』(歴代知事編纂会、平成3年)で、これは日本図書センターから『日本知事人名事典』全2巻(平成24年)として複製がある。町村長なら『日本の歴代町村長』(同、平成1年)だが、これは1冊で中断した
※2 ただし「国会図書館オンライン」を引くと海口書店はすでに昭和21年から書籍を刊行しているので、23年創立は間違いか
※3 児玉は、戦後のフィクサー・児玉誉士夫のこと。海口は『栖』の年譜によれば「昭和16年 汪精衛南京臨時政府財政顧問」とある
■「国立国会図書館デジタルコレクション」リニューアルの威力
さて、ここまで書いてきて、そういえば「国立国会図書館デジタルコレクション」が昨年(令和4年)12月にリニューアルされたのだったと追加調査を試みた。このリニューアル、検索画面周りが新しくなったのに加え、全文検索可能なデジタル化資料が大幅に増加しており(約5万点→約247万点)、知人たちの評価も高い。
まず外川から。先に「父が経営する出版社(連合出版社)の専務兼編集長」と書いたが、当初連合出版社を経営していたとおぼしい外川文平と、外川晋吾の家族関係の裏が取れなかった。それで「外川文平」で検索をかけてみると48件(令和5年1月現在)の検索結果が出た。うち『山梨人事興信録 第3輯 第3版』(甲府興信所、昭和15年)という資料が「ログインなしで閲覧可能」となっており、「167: 晋吾三男三郞長女裕子外川文平聯合出版社々主、今井印刷會社子取締役支配人明治二十七年十二月生、埼玉縣北足立郡上」とある。クリックして「167」コマ目に飛んでみると、外川文平「連合出版社社主、今井印刷会社取締役支配人」の下に「二男 晋吾 大正七年八月生」とあるではないか! これで文平と晋吾の関係が確定した。これまでの情報では「山梨県」というキーワードがないため『山梨人事興信録』にはたどり着けない。全文検索の威力をまざまざと見せつけられた。そうだ、この際、外川文平の経歴も作ってしまうか……。
続いて海口。「海口守三」の検索結果は346件(令和5年1月現在)。戦後の暴露雑誌『真相』の昭和23年3月号掲載の次の記事、加納寬「戦犯右翼はどうしているか?」に次の記述を見つけた。
(前略)木挽町五丁目に新築された『緑ビル』も児玉の資本である。この緑ビルに本拠をもつ資本金二百万円(全額払込済)緑産業株式会社こそは児玉の残党により創設された事業の一つ、事業内容は鉱山業、精錬製材業とあって京都に支店をもつが、この社長が吉田彦太郎、専務が高橋重吉、監査役奥戸足百と曽て本誌に紹介された上海右翼の一味一党が看板をぬりかえての再建準備である。ついでだが緑ビル内で最近出版屋を開業した海口守三は、大毎記者から松岡洋右の嘱託となり、ついで南京政府経済顧問となった男。南京では大蔵省から経済顧問としてきた共産党解党派の門屋博、満洲国大使館参事官伊藤芳雄らとともに児玉機関と密接な関係をもってボロ儲けをやっていた一味だが、その悪縁が木挽町に及んでいるわけである。
うーん。大変興味深いのだが、この調子で丁寧に見ていくと時間がいくらあっても足りない。拙稿の本志は近現代出版史の人物情報整理なので、これ以上の深追いは止しておこう。
○外川晋吾(とがわ・しんご)
判例タイムズ社社長
大正7年(1918年)8月3日~平成7年(1995年)8月10日
【出身地】東京都
【学歴】巣鴨商業学校卒→日本大学文学部(旧制)卒
【経歴】連合出版社社長である外川文平の二男で、戦中戦後を通じて同社専務兼編集長を務める。昭和22年海口書店から発行された雑誌『法律タイムズ』の創刊に関与。海口書店では編集長格で、23年の『判例タイムズ』誌の創刊にも携わったが、同年父の要請で連合出版社に戻る。24年海口書店が倒産すると両誌は海口書店創業者・海口守三の実弟である橋本八男が経営を見る法律タイムズ社から続刊。25年末に橋本が退任して『法律タイムズ』は廃刊し、残された『判例タイムズ』再建のため同誌編集人に就任。26年法律タイムズ社から判例タイムズ社に商号変更、27年『判例タイムズ』編集兼発行人(社の実質的オーナーは海口守三・橋本八男の実兄である弁護士の橋本武人)。以後、オーナーの橋本、雑誌企画者の馬場東作のもとで同誌の舵を取ったが、52年株式会社化に際して社長となり、橋本の影響下から離れた。平成6年退任。3年社史というべき『「判例タイムズ」四十余年』を著した。
【参考】『「判例タイムズ」四十余年』外川晋吾〔著〕/判例タイムズ社/1991.8、『現代物故者事典 1994-1996』日外アソシエーツ/1997.3
○海口守三(かいぐち・もりぞう)
旧名=橋本守三(はしもと・もりぞう)、後名=田尾守三(たお・もりぞう)
海口書店創業者 鳥栖市長
明治34年(1901年)1月5日~平成15年(2003年)10月7日
【出生地】佐賀県三養基郡轟木村(鳥栖市)
【学歴】中学明善校〔大正8年〕卒→三高卒→東京帝国大学経済学部〔大正14年〕卒
【経歴】初代鳥栖町長を務めた橋本頼造の六男で、第一東京弁護士会会長を務めた橋本武人は実兄。中学明善校、三高を経て、大正14年東京帝国大学経済学部を卒業。昭和2年海口家へ婿入り、7年大阪毎日新聞社ニューヨーク支局長。12年大谷尊由拓務相秘書官、16年汪兆銘の南京政府財政顧問。20年南京より引き揚げ。戦後は海口書店を創業して麻生久『濁流に泳ぐ』、中野好夫『怒りの花束 中野好夫評論集』、石塚友二『青野』、島崎翁助『父藤村と私たち』といった思想・文芸ものや、兄の関係から古井喜実『われらの選挙法』、高柳賢三『米英の法律思潮』、雑誌『法律タイムズ』『判例タイムズ』など法曹関連書を出したが、24年の半ばに倒産。25年東京平和相互銀行顧問。29年合併で誕生した鳥栖市の初代市長に当選。33年再選、37年無投票で3選。40年辞職。42年結婚により田尾姓に。平成15年102歳で長逝した。
【参考】『「判例タイムズ」四十余年』外川晋吾〔著〕/判例タイムズ社/1991.8、『栖』2003.12
○外川文平(とがわ・ぶんぺい)
連合出版社社長
明治27年(1894年)2月12日~没年不詳
【出身地】山梨県
【学歴】専修大学経済部専門科卒
【経歴】明治42年上京して専修大学経済部専門科に入り卒業、大正2年中外商業新報政治経済記者。2年半で独立して実業に就き、9年国際無線通信社大阪支局長、昭和3年帝国地方行政学会(現・ぎょうせい)調査部長兼拡張部長。5年退社独立して連合出版社を創業、官庁の法規図書出版に従事する傍ら、今井印刷所を設けて電話名簿の印刷を手がけた。
【参考】『山梨人事興信録 第3輯 第3版』甲府興信所/1940.8、『躍進山梨・静岡県総覧』内外新聞通信社/1937.11
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