第8回 告白
福島泰樹(歌人)
「眞赤なバラがもえながら散って行く日」に始まる「告白」に、改めて出会ったのは2019年5月31日、長澤延子没後60年・高村瑛子没後5年を記念した会が、桐生市内を見下ろす丘の上、水道山記念館で開催された時のことである。石造りの瀟洒な洋館は2人が生まれた昭和7年に建てられ、以後桐生の迎賓館的役割を果たしてきたという。
この時初めて私は、新井淳一氏にお会いしている。氏は長澤延子遺稿詩集『海』刊行を延子実父竹次から依頼された人で、瑛子と共にこの若き日の友へ生涯にわたる熱い敬意とシンパシーを抱き続けてきた人で、世界のファッション界に、斬新な布をもって革命をもたらせたテキスタイル・プランナーでもある。
朝から激しく降り続けた雨はやみ、濡れた若葉が眩く光っている。
重厚な大広間の中央に2人の遺影。氏の開会の挨拶を受けて、来賓のいいだもも氏は、「私は砂漠に、いもしない長澤延子の声を求めてずっと何十年間、電話をかけ続けてきました」。「私にとってははまごうかたなく、戦後70年」「をはかる座標軸を、彼女が提供してくれた」と語り、「わが国はこれから第2の縄文時代に入っていく」と謎の言葉をもって結んだ。
氏は、延子に強い影響を与えた一高生原口統三の寮友で、長澤延子『友よ 私が死んだからとて』(天声出版)出版の仕掛人でもある。4月、延子の墓前に評論集『悲しみのエナジー』(三一書房)を献じた私は、延子の詩「別離」他何編かを朗読した。会の終わりを、延子の実兄長澤弘夫氏が挨拶に立った。氏は、延子より4歳年長の昭和3年11月生まれ。この時90歳。
「高村瑛子さんあっての延子でした。孤独な延子のそばにいつもいて下さった」。「63年前の高女で2人は出会い」「延子は自死し、瑛子さんは」「生きる方向を決め、障害者教育の道に入られました。知的な人でした。瑛子さん、新井淳一さん、延子と最良の同志でした……」。
この後、「別離」の一節、「告白」の一節を直筆拡大したスカーフが参会者全員に配られた。新井淳一の心尽くしである。頂戴したスカーフを拡げると、インクの沁みもまざまざと力強い筆致で「告白」の詩が躍動している。
そう、グレーのスカーフ、方形一杯に波濤のようにうねり逆巻き、天に向かって逆流さえしていているではないか。
眞赤なバラがもえながら散って行く日
忘却の中から私をみつめる
冷やかな眼指を知った
夏の最中が訪れようとしているのに
シャツの縫目をかすめて
大気の幻がひっそりと針を立てる病におかされた感受性が
このバラのように散って行こうとした時
たった一巻の書物が
だまって蕾をつくらせたのだが……
今 私の孤独の胸にしのびよる
このかすかな郷愁は何なのだろう
スカーフには、5連28行からなる「告白」の第2連までが収まっている。この詩が書かれたのは、1948年7月。延子16歳。残された命は1年を切っている。6月、「深夜の葡萄」「乳房」など12編の詩をなした延子は、想像を絶した多作の時を迎えるのだ。7月には、「告白」に加え大作「別離」など7編を一気になしている。
ところで第2連、「たった一巻の書物」とは、誰のものか。
第3連を引こう。
眞赤なバラがもえつきて散って行く日
私の心の瞳をみつめる
大きな冷やかな瞳を知った
青い海に沈んだ肖像の
睫毛の長い透明な瞳を
「青い海に沈んだ」「睫毛の長い」人とは誰か。
誰あろう、10月の逗子の海に入水した原口統三である。
原口統三は、昭和2年旧朝鮮京城に生まれ、旧満州を転々。昭和19年、大連一中から、一高(第一高等学校文科丙類)に入学。以後、一高寄宿寮で孤独の生活を送る。昭和21年春、筆を折り自殺を公言。持物を売り、北海道を始め、中部近畿地地方を旅行。書き溜めていたもののすべてを焼き捨てた。
服毒を前にした遣り取りが、寮友橋本一明によって記録されている。
「焼く時は俺も悲しかった。この手に握つてゐる俺の生命の分身が、この曾て創造されたことのないすばらしい日本語が、跡形もなく煙になってしまうのか。あれほど血を滴らせておきながら、遂に何の表現も残さずに俺は世を去るのか、と思うとね。だがみんなセンチメンタルな感傷さ。今朝の太陽と一緒に俺の詩も創作もみんな忘れてしまったよ」
服毒の数日前から統三は、ノートを書き始めた。死後刊行されることとなる遺稿『二十歳のエチュード』である。
昭和21年10月2日、赤城山で自殺未遂。死に臨むにあたりノートと共に、「訣別の辞」を橋本に書き送った。
「九月廿四日から今日まで、僕は寸暇も休まず、僕は寸暇も休まず書き殴って来た。……」。そして終り近くに、こう書き添えるのである。
「君がもし、僕のことを覚えていてくれるのなら、時として君の螢雪の窓にも訪れてくるであろうあのマルセル・プルウストの夜に、君たちを怖やかした統さんの高笑いと、自慢の長い睫毛とを思い出してくれたまえ。」
原口統三、10月25日、神奈川県逗子海岸で入水、20歳まで2ケ月を残した19歳であった。
ここに到って第三連の「私の心の瞳をみつめる/大きな冷やかな瞳を知つた/青い海に沈んだ肖像の/睫毛の長い透明な瞳を」の詩句が具体を帯びてくる。4連、5連を引く。
ひとたびかちどきをあげた闘争の途なのに
私の歩みをとゞめる
この郷愁は何なのだろう
ひとたび故郷を出た私の前を
階級は闘争を以て待ちかまえているのに眞赤なバラがもえつきて散って行つた日
忘却の中から私を見つめる冷やかな眼指に
白い旗のように烈しくふるえながら
卑怯な人間にはなりたくはないとつぶやきながら
私の心は最高の孤独をいだき
民衆の中にとびこんで行く
*
延子が前田出版社の編集者伊達得夫の手によって刊行された原口統三『二十歳のエチュード』(昭和22年5月刊)を手にしたのは、23年春。初版5千部は売切れ、紙不足のなか秋5千部を増刷。伊達はエチュードの紙型をもって独立「書肆ユリイカ」を創設。3月、ユリイカ版『二十歳のエチュード』を刊行。延子が手にしたのはユリイカ版か。その感動を高村瑛子に書き送っている。「……久し振りに痛快を叫びました。」(3月)「私の叫びを原口統三が生命かけて叫んでくれました」(4月)。
だが、次の手紙では、「唯物弁証法を読み初めたら原口がピエロに見えて来ました。しかし唯物論は今のところ大嫌いです」(同4月)と原口への叛旗、否……、揺れている心を伝えている。
延子は、「闘争の途」と言い、「階級」と歌った。そして「民衆」への思慕をあらわにした。「私をみつめる冷やかな眼指」は見抜いているのだ。お前は、俺なのだよ。「民衆の中に」なんかとびこんでゆけるものか。
昭和23年は、東京都豊島区椎名町で行員12人が毒殺された「帝銀事件」に始まり、新憲法下初の内閣を組織した社会党であったが、片山内閣は総辞職。アメリカの極東政策の下、民主化の潮流は一気に停頓。6月、作家太宰治が玉川上水に入水した。
福島泰樹(ふくしま・やすき)
1943年3月、東京下谷生。早大卒、69年、歌集『
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