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第3回 浮き雲、15歳の詩

福島泰樹(歌人)

 

 「折鶴」「寂寥」に続く昭和21年11月、延子14歳の詩は、5連33行からなる詩「冬」。第1連を引く。

 

緑なる夢のあえかに消ゆるごとく

黄金なす秋は早くもかくれ去ったーー

しかすがに あかき入陽は

あらわなる樹々のなめらかな肌えにふるえつゝ

かすかにも奏でる白きものへの前奏曲の

ヴァイオリンの絲をはや断ってしまった           「冬」

 

 この口調に聴き覚えはないか。北原白秋の嘆息、室生犀星の咳き、さらには、上田敏、日夏耿之介、堀口大学、鈴木信太郎らの「名詞名訳」の調べを。

 

白き靜寂シジマにしずむ家々と

死に近き憩いにやすむる我が孤獨なる魂とを

冬よ 汝の溜息は靜かにおゝって行く

やがて眞白きものが一面に全てを包む時

黑い沈默は家々の魂をかすめてとびかい

黒く白く乱立する沈默の墓場には

私の恐怖が煙のように立ちのぼっている           「冬」

 

 ……残念でならないのは、延子がつねに携えていた「読書ノート」が後年、詩、戯曲や小説と一緒に養父によって、焼却されてしまったことだ。そのためこの頃、延子が読み、その情操と文体に少なからぬ影響を受けた詩人とその詩をじかに知ることはできない。

 延子が、詩を書き始めたのは、桐生高等女学校に入学した昭和19年春(12歳)。

 島崎藤村、佐藤春夫、ヘルマン・ヘッセのスタイルを真似(『海 長澤延子遺稿集』あとがき)、19世紀のドイツロマン派の詩人で小説家ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(1788 ~1857)「元気な出発」に後押しされ(「手記A」)たことについても、すでに語った。

 そして延子の頭上を戦争の風が吹き過ぎていった。

 だが、残念ながら戦時から敗戦に至る12歳、13歳の詩は遺ってはいない。

ただ言えることは、幼い詩人長澤延子にとって、詩とは甘美な感傷を綴る抒情詩ではありえなかったということである。延子が恋したのは、社会の現実であったのだ。私は、「冬」の第一連を引き、白秋の嘆息、犀星の咳きと言い、上田敏、日夏耿之介ら翻訳詩の格調を言い募ったが、延子が奏でる天然、自然の調べは、北村透谷「楚囚之詩」の趣きであり、「秋風の樹葉このはをからさんはあすのこと。野も里もなべてに霜の置きけば草のいのちも消えつきて、いましが宿もなかるべし。」の「孤飛蝶」の其れであろう。反逆の精神の、其れである。

 4連5連を引く。

 

おごそかな冬の手はそれを断ち切って

全世界を陰鬱な冬が支配して行く

黑い沈默と死の憩いと

荒れ狂う木枯とその合間合間のすさまじい靜寂とが

私の恐怖の中に残ったのだ

見つむるな冬よ 我が魂を

その異様に輝やく冷たき瞳

雪の上にひざまずき

うつろなマナコを力一ぱい見開いて

わなゝく諸手を私は冬にさしのべる

恐怖の煙はあたりにくすぶって

やがてそれは全身を凍らせてしまった           「冬」

 

 素材マテリアルを移ろいゆく天然の四季におきながら、敗戦荒廃の時代を背景に、この厳粛の詩を14歳の少女が書きあげたのである。

 

*

 昭和22年2月11日、延子は15歳の誕生日を迎える。

 この月、日本最初のゼネスト(2・1スト)は、マッカーサーの命令で中止。3月、教育基本法の制定。新制小中学校発足。旧制女学校は、4年制から5年制に変更。延子は、最後の女学校卒業生として4年に進級。

 GHQによる戦後体制は、着々と進行。アメリカの国益に対応し、国内体制が整えられてゆく。5月、「日本国憲法」施行。9月、キャサリン台風、関東全域に来襲。利根川、荒川などで決壊が相次ぎ茨城、埼玉、群馬、栃木の4県に氾濫。台風は東日本に被害を与え死者1500人、浸水家屋は42万戸に及び、桐生も浸水、多大の被害をなし、女学校も休校となり、水害地への救援活動が始まった。

 この年、延子は3月に短詩「慕情」を、5月になって小癪な6行詩「物語」(「二人の女が失恋した/二人の女は海へとびこんだ/二ツのヨットが海を走った……」) を書いたのみであったが、10月に至って作詩を開始。「果実」「喪失」の短詩2編をなす。

 小唄風の「喪失」。デカダンの匂いが少しして、詩人長澤延子の原質のような気配が漂っている。

 

小さな生活の中に

私は うた を失った。

うた は煙草にまつわりつき

紅ぬりの鏡にはりついた

私は 銀箔のようにチャチな

その うた を眺めながら

毎日々 銀箔を失い

うた を失い

そして一人の恋人に

別れを告げた。           「喪失」

 

 決定的であったはずの自殺(昭和24年3月27日)に失敗した延子が、やけっぱちに書いた「挽歌 Ⅲ」(「……あの子 銀色の折紙を頭にのっけて/寒そうに 肩すくめていたよ……」)を私は思い起こしていた。だが、いまだ延子の詩は始まったばかりではある。改めて私は、詩人長澤延子の3年間という歳月を想う。私などには、わずかの3年間に過ぎない、この3年余りの歳月の中で、延子は、全身の血を少しずつインク壺に注ぎ、ペン先に浸し、3冊もの大学ノートを、致死量に至るまで、その切り裂くような字体で、真っ赤に染め上げてきたのだ。「詩集ノート〈A〉」「詩集ノート〈B〉」そして、決定的自殺失敗後の、死に至るわずか2ヶ月で纏め上げた「詩集〈NoteBook〉」……。

 だが、話をもとへ戻そう。

 そして、11月に入り、「黑い星」「うた」「困惑」「うき雲」「雲」の5編を一気に書く。クリハラ冉作成の「略年譜」(「江古田文学」68号)には、「この頃、死を試み失敗」とある。長澤延子が、改めて喪ったものは何か。

 「うき雲」を引く。

 

過去を捨てゝしまった

現在をも捨てゝしまった

私をどうしたらいゝ

眞晝の草原は冬

 

未来へとつながれた絲は

みな断ち切られて

私ののぞみが

空に浮いているのが見える

 

ポカリポカリと

どこへ行くんだ

私は眠い

あっちに墓が見える

 

あゝ私はまだ

こんなに若いのになあ

ポカリポカリと何處へ行く 雲よーー

まわりの空気が冷たくて

私は眠られぬ           「うき雲」

 

 1年前作「秋」に顕著であった、日本近代の詩法、文体との格闘の痕は美事にかき消され、日常語による4行詩、3連がそれぞれ独立して時を刻み、肩を並べ合いながら4連目の5行に移行してゆく。そしてこの間を代表する「雲」へと連なってゆくのである。

 


福島泰樹(ふくしま・やすき)
1943年3月、東京下谷生。早大卒、69年、歌集『バリケード・一九六六年二月』でデビュー。「短歌絶叫コンサート」を創出、朗読ブームの火付け役を果たす。85年4月、「死者との共闘」を求めて東京吉祥寺「曼荼羅」で「月例」コンサートを開始。ブルガリアを皮切りに世界の各地で公演。国内外1700ステージをこなす。単行歌集に『下谷風煙録』(皓星社)他33冊、全歌集に『福島泰樹全歌集』(河出書房新社)。評論集に『弔いーー死に臨むこころ』(ちくま新書)『寺山修司/死と生の履歴書』(彩流社)、『誰も語らなかった中原中也』(PHP新書)、『追憶の風景』(晶文社)。他にDVD『福島泰樹短歌絶叫コンサート総集編/遙かなる友へ』(クエスト)など著作多数。毎月10日、吉祥寺「曼荼羅」での月例「短歌絶叫コンサート」も37年を迎えた。


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