皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第7回 宝文館の編集者(2)――藤村耕一と北村秀雄

河原努(皓星社)

■変わった遺稿集

前回、花村奨「対談「少女雑誌編集」」で『令女界』創刊編集長である藤村耕一の名前が拾えたと書いた。国立国会図書館オンラインで検索をかけると『遮莫』(昭和42年、タカダ印刷)という著書が引っかかった。版元が印刷所になっているということは自費出版(私刊本)である可能性が高い。出納してみると、派手な変な本であった。自己顕示欲の高さから他にも本を出している気配を感じて「日本の古本屋」を調べると、『夢のアルバム』(昭和37年)、『谺』(昭和38年)、『現』(昭和46年)の3冊に加え、『彩雲 : 藤村耕一先生遺稿集』(昭和52年)が出品されていた。各三千円前後、とりあえず年譜や自伝を期待して遺稿集だけを取り寄せてみた。これも変わった本であった。
『彩雲 : 藤村耕一先生遺稿集』【図1】はB5判・函入りの144頁、坂井範一の油絵を大胆にあしらった装丁で、中にはカラー写真がふんだんに収められている。遺稿集という割にはまず東京と岐阜での葬儀の模様からスタート。各3頁ずつで、東京での葬儀写真(カラー)には森繁久弥夫妻・中河与一夫妻・北村西望・滝井孝作・平櫛田中・安田靫彦・堀口大学・熊谷守一・東山魁夷・加藤東一・杉山寧・藤浦洸らから届いた献花がずらり。「遺稿集」本文に入るとまず家系図、次頁は教師時代の教え子に囲まれた同窓会の旅の集合写真。以降、本人の書いた葉書・年賀状、妻がつけた家計簿、息子の結婚、孫たちのアメリカ生活から、自身の大手術や公職選挙法違反の特赦状、旅先で知り合った孫くらいの女性とのツーショット写真まで、雑多も雑多。それぞれキャプション的な短文コメントがあったりするけど……これまでいろいろな出版人の遺稿集に目を通してきたが、これはその極北の一つだなあ。「終焉の記」の後にようやく「その生涯の中から」8頁、見開きの年譜2頁があった。ここがなかったら……。

【図1】『彩雲 : 藤村耕一先生遺稿集』

 

■読み解いてみました

それでも最後の10頁を読み解くと、なかなか面白いことがわかった。岐阜県の農家に生まれて小学校を卒業するとそのまま就農したが、その才幹を惜しんだ村長が小学校高等科への進学を勧め、授業料免除の特待生として二年生に編入。卒業後は寺の住職の援助を受けて師範学校に進み、28歳で小学校長に。30歳で東京の出版社・宝文館から入社を請われて上京、少年雑誌『樫の実』の編集長に就任する。大正11年『令女界』を創刊、小学校高学年から女学校を卒業して結婚くらいまでの若い女性向け雑誌として定着させた。14年にはその姉妹誌として文芸誌『若草』も創刊。
一方で副業として二光堂を創業して学習書や参考書の出版を始めたとあったが、出版社に勤めながら、自身も別の出版社を経営することが許されていたことが意外だった。やがて宝文館を辞めて二光堂一本に絞るも、戦時体制下で中等学校教科書の一元化が図られ、全国の中等学校教科書の95%のシェアを持っていながら(※)版権を取り上げられた。ただ、あまりのシェアから新会社だけでは実務をこなしきれず、二光堂が業務委託を受けて新会社のまとめた部数を印刷製本して納品していた由。その後、空襲で二光堂の社屋が焼けたため、同社は閉鎖を余儀なくされた。戦後は出版業界から離れ、元農水官僚だった女婿が始めた養鶏会社ハイデオ及びハイデオ岐阜(現ゲン・コーポレーション)の会長・社長を務め、米国からニワトリ(ハイライン鶏)の雛を輸入する仕事に転身、その普及に取り組んだようだ。

※『彩雲 : 藤村耕一先生遺稿集』のp133に拠る。p132には「二光堂発行の四種類のリーダーは、当時の日本の英語教科書の大半を占め」とあるが、95%という自称には確たる資料を見ない限り「比率が高すぎでは?」と思わざるを得ない。

 

■『令女界』と『若草』

上記のようにまとめてみると教科書出版社時代が頂点のように思えるが、藤村の名が残っているのは『令女界』の創刊編集長としてである。以下花村の未完原稿「「若草」創刊前後」(『行路』所収)に拠ると、『令女界』は蕗谷虹児・岩田専太郎・加藤まさを・後藤しげる・林唯一らの口絵・挿絵で人気を博し、吉屋信子・北原白秋・西条八十・北川千代らが執筆。大正12年大日本雄弁会講談社が『少女倶楽部』を創刊すると、対象読者の年齢層を上に広げた。何より創刊号から読者の文芸作品を募集して読者の声に紙面を割く編集方針が文学好きの青年女子によろこばれ、投書が山をなしたという。こうした投書は藤村のかつての教え子で『令女界』の編集者となっていた北村秀雄が、東京・大森にあった藤村宅で整理をして、不要になったものは庭で焼いていたそうで、北村は灰にした投書に詫びる気持ちで庭の一隅に「投書塚」と書かれた小さな石塚を立てたとも。
そんなある日「投書欄が増やせないなら投書だけのパンフレットでいいから作って欲しい、宝文館の図書目録に投書の一部を載せ定価を付けて毎月出してみては」という要望が届いたのを受けて藤村は新雑誌の創刊を決意、『若草』と命名した。当初は『令女界』常連執筆者と編集者の同人雑誌という体裁でスタートした同誌は竹久夢二を表紙絵に起用、女性のみならず男性にも投書の門戸を開いた読者文芸欄が好評を博して発行部数を伸ばした。『令女界』『若草』両誌とも昭和25年まで続き、『若草』に関しては雄松堂書店から「精選近代文芸雑誌集」としてマイクロフィッシュ版での復刻がある他、『文芸雑誌『若草』 : 私たちは文芸を愛好している』小平麻衣子編(平成30年、翰林書房)という研究書も編まれている。『若草』創刊の回想は、同誌十周年記念号(昭和10年10月号)に書かれた、前述の内容を含む北村稿などもある。雑誌の周年号には、こういった社史代わりになる記事が掲載されることがよくあるので、注意が必要だ。

 

■戦後の宝文館のキーパーソン?

北村秀雄にも『篝火 : 北村秀雄・追憶』(昭和47年)という追悼文集があり、国会図書館に所蔵されているものの、現在(令和3年12月)はデジタル化作業中で見られない。「日本の古本屋」でも取り扱いが無いため、未見のままである。それでも調べてみると、高橋輝次『ぼくの古本探検記』(大散歩通信社、平成23年)の中に「北村秀雄と『令女界』『若草』編集部――大正、昭和前期の宝文館のおもかげ」という一文があることを突き止めた。読んでみると『篝火 : 北村秀雄・追憶』を手がかりに『令女界』『若草』及び戦前期の宝文館を取り上げている。何事にも先達がいるものだ。とりあえず氏の文章から事典の項目を作成してみた。前回の拙稿で、戦後の宝文館について「戦後は『ラジオ小劇場脚本選集』から放送文芸書に新しい分野を見いだし、〔昭和〕27年には菊田一夫の大ヒットラジオドラマ『君の名は』の小説版がヒット」と書いたが、どうやら北村がキーパーソンのようで、昭和31年に出版ニュース社から出版された『現代の出版人五十人集』という、作家らが旧知の出版人の紹介文を書く『出版ニュース』連載のグラビア頁を集めた書籍では、『君の名は』の著者である菊田一夫が北村の紹介文を書いていた。

 

■『日本人物レファレンス事典 図書館・出版・ジャーナリズム篇』

ところで、今年の10月に古巣の日外アソシエーツから『日本人物レファレンス事典 図書館・出版・ジャーナリズム篇』が出た。同社の「人物レファレンス事典」は「調べたい人物がどの人名事典に掲載されているか」を横断的に調べられるレファレンスツールで、同書は「日本の図書館・出版・ジャーナリズム分野の人物、8,165人(事典項目のべ42,321件)を434種629冊の人名事典・百科事典・歴史事典・地域別事典等から収録」している。藤村と北村についても引いてみたが、藤村は吉岡勲編著『郷土歴史人物事典岐阜』(昭和55年、第一法規出版)と中濃史談論会編著『今を築いた中濃の人びと』(平成18年、岐阜新聞社)に掲載されていることがわかった(北村は立項なし)。連載第四回でも触れたが郷土の出版社から出ている本まではなかなか目が届きにくく、『今を築いた中濃の人びと』のように書名に「岐阜」「人名」「事典」といった単語を含まない本だと尚更だ。そういった点で大変助かり、出版関係者を調べる上ではまずこの本を引くことになろう。

しかしながら、期待していたのに残念だったのは、各分野の専門事典の抜けの多さである。出版分野では新しく『近代製本関係人物事典 : 製本業者・社の歴史』(平成29年、金沢文圃閣)などを採録しているが、当然採録すべき『東京書籍商組合史及組合員概歴』(大正1年、東京書籍商組合)またはその複製である『東京書籍商伝記集覧』(昭和53年、青裳堂書店)、日本図書センターの復刻『出版文化人名辞典』(全4巻、昭和63年)、金沢文圃閣の復刻でも(私が購入したので)社内資料として所蔵している(はずの)『出版・書籍商人物情報大観-昭和初期』(平成20年)、『出版書籍商人物事典』(平成22年)が漏れている。ジャーナリズムでは明治期の新聞人の基礎文献である宮武外骨・西田長寿著『明治新聞雑誌関係者略伝』(昭和60年、みすず書房)が相変わらず採録されていない(在社中『ジャーナリスト人名事典』の編集を進めていたAさん・Yさんに「あの本、知っていますか?」と訊いたが2人とも知らなかったし、資料として購入はしていたがうまく使われた形跡もなかった)。図書館分野では自社出版物の『図書館関係専門家事典』(昭和59年)も採用して然るべき。会社を去った私に訊かないまでも、『出版文化人物事典』(平成25年)凡例の「主要参考文献」や監修者あとがきに目を通していれば、出版関係の基礎的な事典類が拾えたはずである。

 

■一本ずつの釘

閑話休題。『行路』の目次をよくよく見ると「藤村耕一」で一項が立てられていたのに、今更ながら気がついた。前述の「「若草」創刊前後」の他、「一本ずつの釘」と詩「釘――F翁逝く」から構成されているが、藤村の人柄をスケッチした「一本ずつの釘」からの引用で本稿を締めようと思う。

先生の八十一歳の誕生祝いの席だったかで誰かが、
「F先生、みんなで何か、誕生日のお祝いを差上げたいと思いますが、何がいいですか?」とたずねたところ、先生は、
「もう欲しいものは何もない。が、くださるというなら、わしが死ぬまで毎日持っている物と、死んでも持っていける物にしてもらいたいな」
と、謎のようなへんじをされた。
死ぬまで毎日持っている物と、死んでも持っていける物?
「はて?」
と、みんなが首をひねって考えこんでしまった。そのあげく、
「どうもわかりません。ハッキリとおっしゃってください」
「いや。まあ、よく考えておいてください」
それから数日して、誰かが、先生の入歯にちょっとガタがきていたことを思い出した。「毎日持っている物」とは、それだろうと判断して、さっそく歯科医の手配をした。それはそれでよかったのだが、もう一つの「死んでも持っていける物」が、どうしてもわからない。
思いきって、先生に聞くと、
「わからないかね。それは、お棺に打つ釘だよ。まあ、ついでの時に、一人一本ずつの釘を届けてくれたまえ」
と言って、呵々大笑された。
そのことがみんなに伝えられると、それからは、わざわざ一本の釘を持参する人あり、遠い外国から郵送する人ありで、先生のところにはたちまち、何百本もの釘が集まったそうである。
わたしは、上品な……というより、むしろ福徳円満な仏像か、仙人のような顔のF先生が、「わしは、その釘をだいじに保管しているが、それを一本残らず打つ場所があるかどうか、ちょっと心配しているんだ」
と語られるのを聞きながら、心配の中には、こういう倖せな心配もあるのだな……と思ったのであった。

 

○藤村耕一(ふじむら・こういち)
『令女界』編集長 二光堂創業者
明治25年(1892年)5月28日~昭和51年(1976年)3月18日
【出生地】岐阜県武儀郡小金田村(関市)
【学歴】岐阜師範学校〔大正2年〕卒
【経歴】農家の長男で、耕作第一から“耕一”と名付けられる。岐阜師範学校を卒業後、県下の小学校に勤め、大正8年伊自良村大森小学校校長となる。10年宝文館社長の大葉久吉から少年雑誌『樫の実』の編集をと請われて上京し、同社に入社。11年『令女界』を創刊、かつての教え子である北村秀雄とともに小学校高学年から女学校卒まで、未婚女性向け雑誌として定着させた。14年には『令女界』の投稿欄拡張の要望に応えて姉妹誌である文芸誌『若草』を創刊。一方、13年副業として東京・本郷菊坂に二光堂を創業、学習書や参考書の出版を始める。昭和初年には森巻吉著の英語教科書、中学校向けの『New light readers』、女学校向けの『Girls’ royal readers』を発行。7年宝文館を辞職して二光堂の事務所を神田錦町の文修堂の中に移し、8年には日本橋室町に新事務所を建設、高屋満司と本格的な中学教科書の出版を始める。17年戦時の企業整備で中等学校教科書株式会社が誕生すると二光堂も全教科書の版権を譲渡させられたが、全国の中等学校の英語教科書で高いシェアを持っていたため新会社だけでは実務をこなしきれず、印刷製本の業務委託を受けて二光堂は存続。しかし、19年空襲のため社屋を焼失して閉鎖を余儀なくされた。21年郷里の岐阜県小金田村長に就任、22年退任して東京に戻る。戦後は出版業界を離れ、38年養鶏会社のハイデオ会長、39~49年ハイデオ岐阜社長。東京岐阜県人会の結成と伸張にも尽くした。著書に『夢のアルバム』『谺』『遮莫』『現』がある。没後、『彩雲 : 藤村耕一先生遺稿集』が編まれた。
【参考】『彩雲 : 藤村耕一先生遺稿集』藤村耕一先生遺稿集刊行委員会/1977.3、『行路―花村奨文集』花村奨〔著〕・山本和夫〔編〕/朝日書林/1993.10

 

○北村秀雄(きたむら・ひでお)
宝文館取締役編集長
明治39年(1906年)9月15日~昭和46年(1971年)11月18日
【出生地】岐阜県岐阜市
【学歴】岐阜商業学校〔大正12年〕卒
【経歴】大正12年岐阜商業学校を卒業後、小学校の恩師で宝文館に勤めていた藤村耕一の招きで上京して同社に入社。藤村の下で少女雑誌『令女界』の編集に従事、小学校高学年から女学校卒まで、未婚女性向け雑誌として定着させた。14年には『令女界』の投稿欄拡張の要望に応えて姉妹誌である文芸誌『若草』を創刊。昭和4年両誌の編集長となる。戦災に遭い郷里に疎開した後、22年雄鶏社に入って雑誌『紺青』編集長。23年退社、24年宝文館に復帰して取締役編集長を務め、放送文芸作品の出版に携わる一方で、NHK『黄金(きん)のいす』『歌は生きている』その他の編成やラジオドラマに活躍。36年ワグナー出版、のちデラックスライフ社を設立した。没後、追悼集『篝火 : 北村秀雄・追憶』が編まれた。『現代の出版人五十人集』では9月18日生。
【参考】『ぼくの古本探検記』高橋輝次〔著〕/大散歩通信社/2011.11、『現代の出版人五十人集』出版ニュース社/1956.7

 


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