第4回 児童文学雑誌『飛ぶ教室』から(2)柳田国男が唯一著書の刊行を許した地方出版社・山村書院
河原努(皓星社)
■理論社2代目社長の父も出版人?
8月の戦争物を挟んで、雑誌『飛ぶ教室』から見つけた出版人紹介の続きである。といっても、もともと前後編の予定であったので、今回でおしまい。同誌特集「子どもの本の出版」の3回目、理論社特集(38号)の開幕にあたる「ロングインタビュー 主体性探求と熱情と」(小宮山量平・山村光司・今江祥智)を読んでいると、次の発言が心にひっかかった。
小宮山 山村君は地方出版の御曹司で、私のところへやってきたわけだ。今だからいえばだな、やっぱりまともな本屋にしてお返ししなくちゃならないなという気持ちがぼくの中にあったもんだから(p97)
山村光司は理論社2代目社長で、まだご存命のようだ。さらに読み進めると稲葉通雄「山村さんとのこと」の末尾に
〔山村光司の〕御尊父が、信州の飯田で興された山村書院のお仕事がいまもなお、かたちをかえこそすれ、山村さんの胸中深く燃え続けていることを、あらためて僕は強く感じるのです(p140)
という記述があり、これで光司の父が経営していた出版社名が掴めた。これらを手がかりにインターネットを検索すると「よむとす No.186 活字に魅せられて70年 塩澤実信の本」という記事を見つけた。
■出版ジャーナリスト・塩澤実信によると
近代日本出版史の書き手は限られており、その一人に双葉社取締役編集局長を務めた塩澤実信(昭和5年生)がいる。『出版社の運命を決めた一冊の本』(流動出版、昭和55年)を皮切りに100点を超える著書があり、今年5月に『あの人この人思い出の記』(展望社、令和3年)を出すなど、90歳を超えた今日でも健筆を振るっている。
氏は出版王国として知られる長野県の出身で、その著書の中には東京の著名出版社からだけではなく地元長野の小出版社から出たものもあり、上記記事のおかげで『りんご並木の街いいだ』(南信州新聞社、平成9年)、『飯田の昭和を彩った人びと』(一草舎出版、平成20年)の中に、山村氏の父・山村正夫の記述があることがわかった。
こうした地方小出版の本は存在自体が把握しづらく、地元以外の公共図書館にはまず入らない(筆者は国立国会図書館で内容を確認したが、両書とも23区の公共図書館で未所蔵、後者のみ都立中央図書館にはある)。それでも今回のように“そこに必要な情報がある”ことがわかれば手にする算段は付けられる。塩澤氏を含め、この分野の先達の業績を俯瞰できる(もちろん出版社名索引・人名索引を完備した)書誌の整備も、今後の課題だろう。
■出版王国・長野県
前項で“出版王国として知られる”と書いたが、そう呼ばれる理由は大きく二つ。
一つは出版社の創業者が多いこと。岩波書店の岩波茂雄(とその片腕であった小林勇)、筑摩書房の古田晁・臼井吉見・唐木順三、みすず書房の小尾俊人(社名は信州の枕詞「水篶刈る(みすずかる)」に由来)をはじめ、戦前では矢島一三(中興館)、大井久五郎(郁文堂)、河野源(成光館)、田中弥助(第一法規出版)、橋本福松(古今書院)、岡茂雄(岡書院)、江川政之(江川書房)、戦後も小宮山量平(理論社)、岡本陸人(あかね書房)、山浦常克(あすなろ書房)、大和岩雄(大和書房)、小沢和一(青春出版社)、山崎賢二(桐原書店)、中村安孝(名著出版)、内川千裕(草風館)などを輩出している。
もう一つは人口に対して地元出版社が多いこと。日本の出版社約3500社のうち8割が東京にあるといわれ(※)、各県に存在する出版社は本当にわずか。少し古い本になるが『地方・小出版事典』(日外アソシエーツ、平成9年)はタイトル通り地方出版社・小出版社にアンケートをとってまとめた事典で、長野県は櫟(いちい)、銀河書房、郷土出版社、柳沢書苑など26社が掲載されている。これは大都市圏(埼玉・神奈川・京都・大阪など)を除くと、愛知県(17社)、北海道(15社)、福岡県(12社)より多く、群を抜いた数である。
山村正夫の山村書院は、この26社の先達にあたる、特色ある出版社であった。
※(創元社の歩み – 創元社 (sogensha.co.jp))
■山村書院・山村正夫の生い立ち
『りんご並木の街いいだ』所収の「飯田出版人・血脈の証明」により、十周忌を記念して編まれた『山村正夫君を偲ぶ』(甲陽書房、昭和28年)という追悼集の存在もわかり、幸い同書は国立国会図書館でデジタル化されていたので(国立国会図書館内/図書館送信)、コピーを入手できた。これをもとに山村正夫の生涯を追ってみる。
明治41年(1908年)1月、伊那電鉄に勤めていた山村房太郎の長男として現在の飯田市に生まれた正夫は、小学校を卒業すると12歳で地元飯田の書籍商・文星堂に入る。追悼集の文星堂主人・福沢保太郎の回想によるとこうである。(以下引用は原則『山村正夫君を偲ぶ』に拠る。引用に当たって旧字は新字に直した)
少年山村君は別にこれと云う特色のある人とは考えられなかったが、三年程たった頃から、何事も大きな仕事をやりたいようで、ときには大風呂敷を拡げられその後仕末に骨が折れたこともあったが、なおそれでも満足出来なかったとみえ、最初には大志を抱いて大阪に、次には東京方面に飛び出したこともあった。ところが、父君の房太郎氏は大へん実直な、石橋をたたいて渡ると云った、義理堅い人であったので、その都度つれ戻されて、豆々しく立働いて呉れた。(中略)その頃から山村君は他の店員と異ったところがあって、予約や集金、売上げなど大したもので、前澤さんの「太宰春台」「山口お藤」、岩崎さんの「伊那の伝説」(初版)や「観光案内」なども山村君の進言から私のところで発行すると云ったように、その頃から山村君は郷土出版を考えていたのでないかと思われる(p57-58)
また常々「新刊書籍の取次ぎ販売をするようなことは誰でも出来る。自分は出版事業をやってみたい」と言っていたそうである(p24)。
■山村書院を興す
昭和5年22歳で独立を許されて山村書院を興すと、7年小林郊人編『伊那俳句集』を処女出版して出版事業を開始。初めから郷土出版に意を払って、今井源四郎編『近世郷土年表』で注目を集める。追悼集の序(市村咸人)に曰く
進取的にして企画性に富み、良心的で堅実なる経営ぶりによって出版の基礎を確保し、「伊那史料叢書」「下伊那の地誌」「伊那歌道史」「智里村誌」「後藤三右衛門」「伊那の伝説」「山村小記」「黒田人形」「信州随筆」等の力作、大冊物がつぎつぎに刊行せられた。しかもその全部が山村君と志を同じくする原田島村君の研究社において刷成せられ、印刷の美、装幀の雅、共に中央出版に劣らぬものであったことは特に世人の注目をひいた。かくて郷土物といえば直ちに山村を連想させるまで有名な存在となった
妻の回想によると「市村〔咸人〕先生の御執筆、研究社原田島村様の印刷、山村書院の出版、この三拍子が郷土出版の中心だと主人はよく云って居りました」(p2)。市村は演劇学者・河竹繁俊の実兄で、『市村咸人全集』全12巻(下伊那教育会、昭和55~56年)がある地元郷土史の重鎮。原田島村も戦後に郷土誌『伊那』を再興したことで知られる。
■柳田国男『信州随筆』
山村書院の出版物で最も目を引く一つに柳田国男『信州随筆』がある。追悼集ではさほど触れられている印象は無いが、『飯田の昭和を彩った人びと』では「柳田国男の本を刊行」として一項を設けて特筆されている。
民俗学の泰斗・柳田国男の『信州随筆』は、柳田の生前一○○点を超える著者〔ママ〕の中で、東京の著名出版社以外で刊行された唯一の本だった。山郷風物誌、信濃柿、木曽民話集、眠流し考、新野の盆踊などを収めた信州に関するエッセイである。碩学が、この本の刊行を山村書院に許したのは、正夫が東京成城の柳田邸喜談書屋に足繁く通った熱意と、飯田が柳田家と因縁浅からざる町であったからだった(p109-110)
国男が養嗣子として入籍した柳田家は信濃飯田藩主であった堀家に仕えた旧家であった。民俗学を含む郷土出版を志した山村青年にとって、中央に鎮座するこの分野の指導者・柳田の著書を出せたことが誉れであったことは想像に難くない。
■突然の死
昭和18年6月、長野県の書店チェーン・平安堂の創業者である平野正祐は山村と2人で木崎湖に遊んだ。「柄にもなく将来を、人生を論じ、且つ語り全く愉快な清遊であった(中略)それが全く一カ月とたつかたたぬに帰らぬ旅へ立とうとは」(p53)。正夫は同月8日の夜から発熱、当初満洲風邪と思い自宅で病臥したが、14日腸チフスと診断され入院。同月末に35歳の若さで亡くなった。長男の光司はまだ12歳だった。24歳からの12年間で出版した著書は約90点、そのほぼ全てが郷土史にまつわるもの。現在と違って社会に出るのが早いとはいえ、若くしてのその精力的な活動は一驚に値する。
本稿でたびたび引用してきた追悼集『山村正夫君を偲ぶ』を出版したのは甲陽書房。甲陽とは甲斐の国、即ち山梨県を指し、同社は山梨の郷土史出版で有名である。同書後記に「小書の発行についても見通しがつかず困っていたところ、此の頃郷土史の出版をやらるるようになった下諏訪町の甲陽書房主人石井計記氏が「山村さんは郷土史出版については、自分の先輩のことであるからお引受け致しましょう」と快諾して下さった」(p94)。出版の志は長男の理論社以外にも継がれていた。
○山村正夫(やまむら・まさお)
山村書院創業者
明治41年(1908年)1月29日~昭和18年(1943年)6月29日
【出生地】長野県下伊那郡上飯田村(飯田市)
【学歴】飯田小学校〔大正9年〕卒
【経歴】本名は山村政男。長男で、大正9年小学校を卒業して地元長野県飯田の書籍商・文星堂の店員となるが、大望を抱いて3度出奔した。出版を志して主人の福沢保太郎を促し、同店から前沢渕月『太宰春台』などを出版。昭和5年独立して山村書院を興し、7年より郷土出版を開始。処女出版は小林郊人編著の『伊那俳句集』。「伊那史料叢書」「伊那郷土文庫」を始め数々の郷土関連本を出し、柳田国男『信州随筆』は生前に著書を100点以上刊行した柳田が東京の著名出版社以外で唯一刊行をした本だった。精力的に活動を続けていた矢先の18年、腸チフスのため35歳で急逝した。亡くなったときに12歳だった長男・光司は長じて出版の道に進み、理論社の2代目社長となった。28年追悼集『山村正夫君を偲ぶ』が編まれた。
【参考】『山村正夫君を偲ぶ』山村正夫君を偲ぶ会〔編〕/甲陽書房/1953.6、『りんご並木の街いいだ』塩沢実信〔著〕/南信州新聞社出版局/1997.1、『飯田の昭和を彩った人びと』塩沢実信〔著〕/一草舎出版/2008.5
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