皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第3回  広島原爆で亡くなった3人の書店人と「平和の火」

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河原努(皓星社)

■広島原爆で亡くなった3人の書店人

数年前から国立国会図書館で新聞・出版・広告の業界紙『文化通信』(昭和21年5月1日創刊)のバックナンバーをめくっている。出版関係者の訃報探しをしながら気になった記事のコピーを取っているのだが、創刊間もない23年6月21日号の記事「業界今昔記②」に次のような記述があった。「丸岡才吉、山本弥助、岡原佐太郎の三氏が原子爆弾でたおれたのは痛ましい思出である」。記事タイトルの“業界”は小売業界(書店業界)のことで、丸岡は広文館、山本は金正堂、岡原は広島積善館の主人。『出版文化人物事典』(日外アソシエーツ、平成25年)を編集したときに原爆で亡くなった出版関係者を書いた記憶は無く、気になって調べてみることにした。筆者は別に広島出身ではなく同地の書店事情には疎いのだが、『文化通信』平成23年1月11日号「金正堂(広島市)が1月末で閉店へ」という記事によると「同書店(筆者註・金正堂)は1926年(大15)の創業で、広島積善館、廣文館と並んで広島御三家と呼ばれた」とある。

ちなみに『出版文化人物事典』収録者で「原爆」についての記述があったのは3人。のち主婦の友社の2代目社長となる石川数雄は、もともと放射線医学の研究者。当時は九州帝国大学医学部助教授で、昭和20年9月に長崎を訪れて被害調査や診療に従事している。筑摩書房の2代目社長となる竹之内静雄は当時海軍の一兵卒で、呉線で作業中に広島上空での原爆爆発を目撃した。そして随筆誌『酒』の名物編集長・佐々木久子は15歳の時に広島で被爆、家の下敷きになったが父や大工たちに助けられ九死に一生を得たという(平成20年に78歳で死去)。

 

■小売書店の歴史を調べる手がかり

県別の小売書店史については、ポプラ社社長であった田中治男が東京出版販売(東販、現・トーハン)の雑誌『書店経営』に二十年余にわたって連載したものをまとめた全4巻の『書店人国記』(東販商事→メディアパル、昭和52年~平成4年、新潟編・千葉編は連載のみで未刊)が詳細だが、詳細故に長くなりすぎ47都道府県の半分にも及ばなかった。幸い、広島編は執筆されており、第4巻に収録されている。同書ならそれぞれの被爆状況がわかるかと思ったら、案の定全員の状況が判明した。丸岡と山本はこれ以外にも資料があったが、岡原は同書にしか見つけられなかった。

 

■広島積善館・岡原佐太郎の場合

岡原は、昭和2年に義兄の死を受けて広島積善館を継ぎ、同社を株式会社に改組。広島県教科書販売社長、広島県書籍雑誌商組合組合長などを歴任した。20年8月6日は、原爆の爆心地至近である広島市塩屋町の店舗に居り、妻と幼い二男とともに命を落とした。

 

■広文館・丸岡才吉の場合

丸岡は、広島市で一番古い書店だった誠真堂(友田書店)の出身で、大正4年独立して広文館書店を創業。広島中等教科書販売協会会長、広島県雑誌商組合組合長を歴任するなど広島県書店界で重きをなし、広島市議会議員も務めた。20年8月6日の状況は、『広島市議会史 昭和(戦後)編』(広島市議会、平成2年)に記述があった。

 

丸岡 才吉

幟町国民学校での警防団の会合へ、団長として出席する途上、柳町で被爆。全身に火傷と打撲傷を受けた。その夜は京橋川の土手で野宿し、七日疎開先の安佐郡緑井村へ徒歩で避難した。治療ののち一時健康を回復していたが、その年の暮れ入院し、二十一年二月六日原爆症で死亡した。行年五十八歳。(p45)

 

『書店人国記』の記述は上記と異なっており、

 

二十年四月、京橋川のほとり、家柳町(現在の橋本町)の家に移り住んだ(中略)八月六日の朝、才吉は二階の表部屋で、才一郎は裏部屋で新聞を読んでいた。それが二人の運命を分けた。突然、空が光り、家が音を立てて崩れ落ちた。二人とも家の下敷きになったが助け合って脱出。幸い怪我が軽かったので、京橋川に飛び込み、燃えただれる広島の地獄絵を、なす術もなく、夕刻まで眺めつづけた。才吉は昭和二十一年二月六日、東京で倒れて死んだ(p18-19)

 

記述が食い違っているが、果たしてどちらが正しいのか。(長男の才一郎を含めた)遺族に取材していると思われる後者だろうか。引用の「家柳町」はおそらく「上柳町」で、爆心地からの距離は約1.2キロ。

 

■金正堂・山本弥助の場合

山本は、九州を代表する書店となる菊竹金文堂の出身で、その出身者による親睦団体・金文会初代会長を亡くなるまで務めた一門の代表格。広島には大正14年に進出して金正堂を開店、“広島御三家”の中では最後発ながらその手腕により一角にのし上がった。20年8月6日は、爆心地から約500メートルにあった広島市革屋町の店舗に居て、帰らぬ人となった。

これで疑問は解消した訳だが、調査過程で「Googleブックス」で「山本弥助 被爆」と検索をかけたところ、千田夏光『錠光如来 : 今なおピカの火を守る男』(汐文社、平成2年)という本が引っかかった。せっかくなので読んでみると、不可思議な物語に巡り会った。

 

■弥助の甥・山本達雄が叔父から託されたと思ったもの

『錠光如来』の主人公は山本達雄、弥助にとっては異母兄の長男(甥)にあたる人物である。広島への原爆投下時は広島県大乗村(現・竹原市)の暁第2940部隊に所属する陸軍軍曹。連絡下士官として毎日9時に宇品にある暁部隊司令部へ命令を受領しに行くのが任務で、3度目の召集の古参軍曹ということもあって割と行動の自由が利いたため、帰りに仲のよかった叔父の店に毎日のように顔を出していた。20年8月6日は、寝坊のため普段より1本遅れた電車に乗り宇品へ向かっていた車中、広島駅まで5.5キロの地点で原爆が投下された。自身に怪我は無く、同日午後遅くに司令部へ到着。7日夕刻に部隊に戻った後、8日には志願して再び宇品の司令部へ。このとき部隊長の副官から「叔父さんの安否をとことん確かめて来い。明日中に部隊まで帰って来れなかったら帰って来なくてもよい」と言われており、司令部に顔を出した後に叔父がいるはずの金正堂へ向かった。爆心地から約500メートルにあった店舗は焼け落ちており、広島郊外で生存していた叔母(弥助の妻)に会えたが、叔父の姿は無かった。その後も部隊と広島市内を往復して叔父を捜す内に敗戦を迎えた。

部隊長の温情で自己復員を認められ、そのまま広島に残って9月14日まで叔父の行方を捜し続けたが、遂に見つからなかった。

故郷・福岡県星野村(現・八女市)に戻ることにした9月15日、最後にもう一度だけと金正堂のあった場所を掘ると、地下倉庫から焼け残った書籍が灰の塊となって出てきた。それに息を吹きかけると炎が上がった。そのわずかな火をみるうちに叔父が「この無念をはらしてくれ」と訴えているように思えてきて、戦地でのお守りとして祖母から渡されていた懐炉に火を移して持ち帰ることにした。火が消えるまでおよそ30時間というタイムリミットがあったが、敗戦直後で交通事情がよくない中、叔父が見守ってくれたのか、無事に火を持ち帰ることができた。

以来、火を絶やさずに守り続けたが、戦後20年以上を経た41年に火の存在が朝日新聞によって報じられ、43年には村により永久保存されることになった。現在は市町村合併により八女市の星のふるさと公園内にある「平和の塔」の中で、叔父の“無念の火”は核廃絶を願う「平和の火」として灯され続けている。

入市被爆者(※)であった氏は平成16年に88歳の天寿を全うした。

 

※原爆投下直後に家族・知人の安否確認や救護のため爆心地近くに入って被曝した人を指し、被爆者健康手帳の交付対象となっている。

 

 

○岡原佐太郎(おかはら・さたろう)

広島積善館社長

明治19年(1886年)4月20日~昭和20年(1945年)8月6日

【出生地】広島県広島市

【経歴】大阪積善館の支店であった広島積善館を大正2年に合資会社に改組・独立させた花井卯助の義弟で、その片腕として広島高等師範学校前支店の経営を一任される。昭和2年義兄が亡くなったため、本社執行役員となり広島積善館を継承。8年株式会社に改組し、広島県教科書販売社長、広島県書籍雑誌商組合組合長などを歴任。20年8月6日、原爆の爆心地至近である広島市塩屋町の店舗で妻・二男とともに命を落とす。長男・秀夫は原爆投下当日の午後に入市被爆していたが、父の遺志を継いで間もなく広島積善館を再興した。

【参考】『書店人国記 第4巻』田中治男〔著〕/メディアパル/1992.4、『日本出版大観』出版タイムス社〔編〕/出版タイムス社/1931

 

○丸岡才吉(まるおか・さいきち)

広文館創業者

明治22年(1889年)9月21日~昭和21年(1946年)2月6日

【出生地】広島県沼田郡緑井村(現・広島市)

【経歴】三男。明治35年広島市で一番古い書店の誠真堂(友田書店)に入店。14年間勤めた後、大正4年独立して広島市堀川町に広文館を創業。6年香川県の津村体育製作所で製造する学校体育用品の広島県下各学校の一手販売権を取得して足場を固め、教科書販売にも力を入れる。昭和2年合名会社に改組。また、出版部を設け、大正14年海軍看護特務大尉であった築田多吉の著書『家庭に於ける実際的看護の秘訣』を出版。同書は表紙の色から“赤本”と呼ばれ、家庭医学書として戦前には“一家に一冊”といわれるほど普及、昭和21年時点ですでに1300版に至る大ベストセラーとなった。全国に梅肉エキスや卵油の作り方が広まったのは同書に因る。なお、出版部は広陵社と名を改め、戦後に研数書院に買収された。広島中等教科書販売協会会長、広島県雑誌商組合組合長を歴任するなど広島県書店界で重きをなし、広島市議会議員にも選出される。傍ら、広島県下への村立図書館設置運動にも取り組んで300を超える図書館が開設され、県内の文化向上に貢献。20年8月6日、広島市柳町で被爆。全身に火傷と打撲傷を受け、一時は回復したが、翌21年2月原爆症のために亡くなった。店は長男の才一郎に手により復興された。現在も東京・神田神保町で営業中の廣文館書店は長兄の佐次郎を責任者として大正11年に支店として開設されたのが最初で、関東大震災での閉店を経て、昭和2年に再進出したもの。

【参考】『書店人国記 第4巻』田中治男〔著〕/メディアパル/1992.4、『広島市議会史 昭和(戦後)編』広島市議会/1990.3、『日本出版大観』出版タイムス社〔編〕/出版タイムス社/1931

 

○山本弥助(やまもと・やすけ)

金正堂創業者

明治22年(1889年)5月18日~昭和20年(1945年)8月6日

【出生地】福岡県八女郡星野村(現・八女市)

【経歴】農家の二男。明治35年小学校を卒業し、久留米の菊竹金文堂に入る。45年当時九州最大の書店であった福岡市博多の福岡積善館の前に金星堂を開いて独立。大正5年5月福岡積善館閉鎖の情報を手にするとすぐに旧主の菊竹嘉市に連絡、7月全権を託されて大阪で買収交渉に当たり金文堂の福岡進出の基礎を築いた。11月菊竹金文堂福岡支店が開設されると金星堂を閉じて主家に戻り、同支店長。8年福岡支店が改組して株式会社となると同取締役支配人に就いて引き続き辣腕を振るったが、13年5月突如辞任、8月中洲に新店舗を築くも開店数日前に暴力団から脅され開店を断念。14年新店舗を明治製菓に売却して九州を離れ、広島市で金正堂を開業。店名の“正”は長男の正蔵に由来する。昭和元年12月合資会社に改組して代表社員。10年店舗を新築、1階は売り場、2階はレストラン「広楽」、3階は宴会場にして直営。傍ら、大正14年金文堂出身者による親睦団体・丸文会(のち金文会)を発足させ、初代会長に就任。以来、20年余にわたって会を指導。主家の金文堂に礼を欠かさず、次々と独立する後輩たちにも親身になって助言と支援を行った。昭和14年には金文会とは別に金文会卒業者のみによる貯金会として興正会を発足させて幹事長となり、仲間の窮状打破に努めた。20年8月6日、原爆の爆心地から約500メートルにあった広島市革屋町の店舗で死亡。戦後、妻のシツエと長男の正蔵が店舗を復興させるも、24年5月30日被爆者である正蔵が病死。妻が代表社員を継いだ後、37年妻の妹の長男で、弥助の長女と結婚した山本淳が4代目となり金正堂を発展させた。今日、故郷の福岡県星野村(現・八女市)で守り続けられている原爆の残り火は、長兄の息子である山本達雄が金正堂の焼け跡から採取して持ち帰ったもの。この物語は千田夏光の著書『錠光如来 : 今なおピカの火を守る男』(汐文社、平成2年)に詳しい。

【参考】『金文会百年史 : 一筋の長い道』金文会百周年実行委員会〔編〕/金文会/2014.1、『書店人国記 第4巻』田中治男〔著〕/メディアパル/1992.4、『日本出版大観』出版タイムス社〔編〕/出版タイムス社/1931

 

 


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