皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第5回 博文堂研究の新紀元――『原田庄左衛門家資料目録』(行田市郷土博物館)

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稲岡勝(明治出版文化史)

 

何の気なしに博文堂をキイワードに検索していたら、とんでもない資料が目に飛び込んできた。①『原田庄左衛門家資料目録』(行田市郷土博物館収蔵資料目録 2021年3月)、②「原田庄左衛門『日誌第壱号』(従明治二十二年七月)」解題(研谷紀夫)・翻刻(渡辺桂子等)(行田市郷土博物館研究報告10 2020年3月)である。
おっとり刀で国会図書館に駆けつけ一見に及んだ。これだけの資料が今日まで散逸せずによく遺っていてくれた、これが偽りのない実感。2011(平成23)年2月原田庄左衛門の遺族から資料寄贈の申し出があって、行田市郷土博物館は受け入れを決定する。おそらく忍出身の写真家小川一真(原田庄左衛門の実弟)の縁からと思われる。2014(平成26)年9月から整理作業開始。所属肩書は省略するが、研谷紀夫、添野勉、塚田良道および渡辺桂子(早大院生)の長年にわたる尽力により、『原田庄左衛門家資料目録』はようやく完成し、利用に供されることになった。間抜けな話だがごく最近になって、小生は以上の事実を知ったのである。

〇『原田庄左衛門家資料目録』および、原田庄左衛門の明治二十二年『日記』

ざっと見た感想に過ぎないが、博文堂研究の新紀元を画する史料群と言って良いだろう。個人的な関心で云えば、博文堂経営関係資料(会計帳簿、版権の契約書など)、犬養毅、長尾雨山などゆかりの人物の書簡・墨蹟、博文堂発行書籍の序跋草稿等々。今すぐ飛んで行って見せてもらいたいくらいである。
「原田庄左衛門『日誌第壱号』(従明治二十二年七月)」(『行田市郷土博物館研究報告』10所収)も奇跡的な史料といえる。この年は博文堂の経営にとっては転換点にあたるからだ。「一番儲かったのは教科書」と二匹目の泥鰌を狙って検定教科書の出版に新規参入。ところが意に反して採用する府県はどこもなく見事に大失敗、巨額の借財だけが残った。以後原田庄左衛門は経営再建に腐心する日々をおくるが、日記にはどんなことが記されているのだろうか。この点からも興味がそそられ、精読してヒントがつかめたらと思う。
なおこの日記の翻刻には渡辺桂子(早大院生・日本史)の詳細な註解が付けられ、読解のよき助けになっている。調べ方のコツを体得している人らしく、註解は的確で無駄がない。ことに白井永整、後藤鋼吉、山野重徳など関係人物の調査には感心した。

 

〇東海散士『佳人之奇遇』の版権移転―博文堂研究の要諦

新史料の出現に舞い上がっているのはオマエ独りだろう。博文館ならともかく博文堂などの本屋資料がいったい何の役に立つのか!――俗流出版史家から出そうな典型的なご意見。俗流出版史家とは、既存の活字文献を批判もなく切り貼りして平気で出版史と号する輩のこと。だから根拠に乏しい業界伝説がいつの間にか実しやかな通説と化し、その弊風は今なお止むことなく横行しているのである。これを突破するにはどうしたら良いのか。迂遠のようだが確実な原史料を発掘し、これをもとに実証を重ねるのが一番の早道のようだ。博文堂の場合について一例を云えば、『佳人之奇遇』の版権移転と、柴四朗(東海散士)の二種類の証紙(検印紙らしい)との関係性はどうなっているのか。
博文堂の出版物で最も有名なのは東海散士『佳人之奇遇』全16冊(明治18~30年)であろう。今日その本文は『政治小説集二』(岩波書店 2006年、新日本古典文学大系明治編17)によって校注つきで容易に読める。しかしこの書の出版主体が博文堂の凋落により転々と移ったことは殆ど問題にされていない。出版の権利(版権)の継受関係がいかに遷移した(移転)のか――これは出版史研究上の無視できない課題であるが、また博文堂研究の要諦でもあろう。
図版には二種類の柴四朗の証紙を示したが、これまでにこの事実に気づきその意味を考察した人はまずいない。拙稿「原田博文堂の事業失墜と再興の歩み」(『書物・出版と社会変容』20号 2016年3月)では不十分ではあるが追求を試みた。今回の新史料の出現はこの問題解決に肉薄する上で大きな武器になりそうである。

【図1】『佳人之奇遇』巻二(左)と『佳人之奇遇』巻十(右)。右の証紙、ローマ字で書かれている

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7月の初め、元大学図書館のいつもの連中と「日野春アルプ美術館」に鈴木伸介館長を訪ねた。今年11月末をもって四半世紀に及ぶ活動に終止符を打つというので、見納めに行ったのである。はるかな遠い昔伸介氏は、深井人詩主宰の私大図協(私立大学図書館協会)書誌作成分科会の世話人を引き受けていた。その頃が最も活気があって、故佐野眞さん、飯澤文夫、浅岡邦雄、佐藤研一、坂本寛などの面々と好き勝手をやっていたものである。今回同行したオバサンたちも当時は、山ガールならぬ初々しい書誌ガールであった。久々に常連メンバーに会ったクレヨン(じゃない)しんちゃん、すっかり舞い上がっていつもに増してオシャベリ伸ちゃんになっていました。
転んでもただは起きない小生は一日早く出発し、かねて念願の富士見高原を訪れ原田大観(庄左衛門)と正木不如丘の痕跡を探って若干の収穫がありました。

 

〇信州富士見白林荘

犬養毅と原田大観(庄左衛門)の親密な交際ぶりは、例えば鷲尾義直編『犬養木堂書簡集』(1940年、同新編1992年)に明らかである。『犬養木堂伝』(1938年)執筆のために鷲尾が収集した由であるが、百余通載っている。また岡山市真庭駅の木堂生家に隣接する犬養木堂記念館の展示でも、原田大観にふれた書簡を見かけたことがあった。
大正11年犬養毅は初めて信州富士見に来て気に入り、翌年白林荘を建て隠居生活をするつもりでいた。親友の榊原鉄硯、古島一雄などにもこの地での山荘建設を勧めている。原田大観の別荘は白林荘の近くに1927(昭和2)年完工、犬養によって三岳荘(富士甲斐駒八ヶ岳)と命名された。翌年にはほど近いところに古島一雄が三斜荘を建てた。
1932(昭和7)年5月15日犬養首相暗殺。以後百年近くたち白林荘の所有者は転々とするが、山荘は篤志家により良好に維持管理されて、荒廃することなく現存するのはなによりである。
なお富士見町高原のミュージアムで、日達良文著刊『信州富士見白林荘』(2012年)を入手した【図2】。この書は白林荘の歴史を調査したもので、この山荘に縁の人々(犬養健・道子、政治家古島一雄、実業家山縣勝見・元彦及び地元の村人たち)のエピソードが満載。また写真や新聞切り抜きがふんだんにあって一種の資料集でもある。肝心の原田大観については断片が所々にある程度なので、手控えとして個人用の索引を作成し何時でも参照できるようにしておいた。

【図2】『信州富士見白林荘』カバーと奥付(カバー画像は「https://aucfree.com/items/426638931」より)

〇富士見高原療養所と正木不如丘

堀辰雄『風立ちぬ』の舞台となった富士見高原療養所。また同タイトルのジブリ映画(2013年)では、主人公堀越二郎の妻がこのサナトリウムで療養するシーンが出てくる。1926(大正15)年の創立以来病院長としてかかわりをもち、一時は経営者にもなったのが正木不如丘である。彼は信濃教育界の重鎮正木直太郎の二男俊二、帝大医科大学を銀時計組で卒業しフランス留学の経験を持つエリート医師である。本務の傍ら不如丘のペンネームで小説を多数執筆したが、これは療養所経営に資するためといわれる。
久米正雄『月よりの使者』
富士見町高原のミュージアムの展示で、久米正雄『月よりの使者』が正木不如丘をモデルにした小説と知った。二人は父親の関係から旧知の間柄で親しかったし、また一高俳句会の同志でもあった。一高俳句会の先輩野村胡堂は「明治中期の俳句といえば、最も先端的な思想運動で、それに参加したのは、ハイティーンから、せいぜい三十歳どまり。しかも、東大、一高を中心とする進歩的インテリの進軍の譜だったのだ。」(『胡堂百話』中公文庫 1981年、俳句行脚)と述べている。久米正雄は通俗小説作家とされているが、俳人久米三汀の顔をあわせもちその力量は折り紙付きである。
なお『月よりの使者』は戦前から三度映画化された。博物館の展示では1954(昭和29)年大映作品(山本富士子、菅原謙二)のプログラムが出ていた。はなはだ懐かしく、改めて「去りし昭和の児ならずや」の思いを新たにした。(了)

 

稲岡勝

1943年、上海生まれ。早稲田大学政治学科および図書館短期大学別科卒業、1972年から東京都立図書館勤務。1999年から都留文科大学国文学科教授情報文化担当、専攻は明治の出版文化史。弊社刊の『明治出版史上の金港堂 社史のない出版社「史」の試み』(平成31年)で第8回ゲスナー賞銀賞、第41回日本出版学会賞を受賞。

 

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