第4回 「三田文学」編輯長の二人、荷風と和木清三郎
稲岡勝(明治出版文化史)
前月の河原努「人物の略歴と経歴を書く――和木清三郎を題材に」はなかなか面白かった。材料の調査蒐集と、その取捨選択の呼吸。いわば人物事典の立項プロセスを具体的に述べた方法論とも言えそうだ。実は和木清三郎の名は全く知らなかった。戦前の「三田文学」の名編輯長の由だが、たまたま読み始めた柴田錬三郎『わが青春無頼帖』(中公文庫 2005年)にいきなり登場したから間のよいのに驚いた。その顛末を以下に。
〇柴錬と「三田文学」、そして「日本読書新聞」
柴田錬三郎は大学予科三年の時に、和木清三郎が編集する「三田文学」に出入りを始めた。編集室は銀座の交詢社二階にあって、校正の手伝いや雑誌の発送作業などをした。また和木の勧めで「十円紙幣」はじめいくつかの習作を発表したが、大学二年の頃からはその意欲は薄れた。慶應義塾大学中国文学科卒業後、銀行や「書道」編集部を経て日本出版文化協会に入る。協会では機関誌発行の編集部員を探していて、採用された杉浦明平(編輯長)、神田隆(のち俳優)などと愉快に仕事をした。1942(昭和17)年12月第一回目の召集、衛生兵として横須賀陸軍病院配属。好意的な軍医のおかげで、三カ月の入院後に召集解除。娑婆に戻ると日本出版文化協会は日本出版会と名を変えて用紙統制機関に変貌、やむなく田所太郎編集長の「日本読書新聞」の編集室に入った。そこには戦後『暮しの手帖』を創刊する大橋鎮子がいて不思議な才覚を発揮していた。
一年後二度目の召集、広島宇品の曉部隊で任務は輸送船の備砲小隊付きの衛生兵。乗船二度目で南方へおもむき、ボカ沈をくらってバシー海峡で七時間余漂流して駆逐艦に救助された。福山の陸軍病院で半年過ごすうちに敗戦をむかえる。同年9月裸一貫で上京、かっての住まいは焼失、やむなく古巣の日本出版会お茶の水文化アパートを訪ねた。幸運にもここで田所太郎に再会、「日本読書新聞」復刊の誘いを受ける。以後小さな書評週刊紙の編集に夢中になって働いた。
以上『わが青春無頼帖』の拙い(艶種は全て割愛)要約であるが、実は小林一博『遺稿 出版半生記1959~1970』(2003年)がヒントになっている。彼は60年安保の前年に筑豊炭坑を辞めて上京、日本読書新聞の営業に就職。それからの活動や経験が「第一章 日本読書新聞の五年」に詳述され、実に面白い。表舞台の編集ではなくて、裏方の営業(広告、印刷、製本業界との折衝・付き合いも含む)を扱ったものは余りないから貴重である。
〇永井荷風「文明発刊の辞」
和木清三郎は戦後独立して出版社を経営。1951(昭和26)年には小泉信三を看板に『新文明』を創刊する。その雑誌のタイトルは明らかに、1916(大正5)年4月創刊の荷風主宰『文明』を意識したものであろう。「扨私儀此の二月にて慶應義塾並に三田文学と関係を絶ち少し心静に勉強致度存居候處又々人に勧められ籾山書店より文明と申す小雑誌発行致す事と相成申候四月より第一号売出申候(以下略)」(大正五年三月二十一日、在マドリッド堀口大学宛書簡『荷風全集』第25巻 1965年)
ところで「文明発刊の辞」には次のような一節があるが、雑誌屋の用例がここにもあるのが面白い。
「私は唯々気楽にこれから先早衰の晩年を送つて行きたいのだ。されば三田文学を辞して更に新しく雑誌を起すなぞいふ計画は今の處強ひて望む處ではない。雑誌なぞに物書くよりは置炬燵に独り下手な三味線でも爪弾してゐる方が良い。然しそれでは余り吞気過ぎて、このいそがしい世の中、お天道さまに済むまいと人に云はれて、急に再び雑誌屋を始める事になつたのである。(中略)
この雑誌は或る人の勧めによって文明と題する事にした。(以下略)」
(永井荷風「文明発刊の辞」『荷風全集』第14巻 1963年)
〇『浄閑寺と永井荷風先生』(浄閑寺刊)
4月下旬のうららかな午後、もと大学図書館の連中と久々に東京散歩を挙行。樋口一葉記念館など箕輪界隈から千住大橋辺まで足をのばした。遊女の投げ込み寺と名のみは聞いていた浄閑寺にも初めて参詣。この寺の墓地には荷風碑があることでも知られる。谷口吉郎の設計になる黒御影石づくりの堂々たるものである。
翌日古書会館の城北展をのぞくと、なんと『浄閑寺と永井荷風先生』(浄閑寺刊 1963年)の小冊子が目にとまった。浄閑寺の来歴と荷風との因縁が要領よくまとめられ興味深く読んだ。
荷風碑撰文(荷風碑建立委員会 昭和三十八年四月三十日)には「(前略)谷崎潤一郎を初めとする吾等後輩四十二人故人追慕の情に堪へず故人が生前「娼妓の墓乱れ倒れ」(故人の昭和十二年六月二十二日の日記中の言葉)てゐるのを悦んで屡々杖を曳いたこの境内を選び故人ゆかりの品を埋めて荷風碑を建てた。」とある。発起人四十二人の大半は著名文学者や小説家であるが、岡野他家夫、森銑三がいるほか、森於菟、茉莉、杏奴(鴎外の子供たち)も名を連ねている。
荷風碑壁面には「偏奇館吟草」中の「震災」の詩が刻まれた。全部紹介したいところだがスペースの都合もあり、終わりの七連だけにとどめたい。
「今の世のわかき人々 我にな語りそ今の世と また来む時代の芸術を。 くもりし眼鏡ふくとても われ今何をか見得べき。 われは明治の児ならずや。去りし明治の世の児ならずや。」
「明治の児」のリフレインを昭和の児に読み替えてみれば、今年いつの間にか杖朝(八十歳)を迎える我々世代の感慨にもなりそうだ。(了)
稲岡勝
1943年、上海生まれ。早稲田大学政治学科および図書館短期大学別科卒業、1972年から東京都立図書館勤務。1999年から都留文科大学国文学科教授情報文化担当、専攻は明治の出版文化史。弊社刊の『明治出版史上の金港堂 社史のない出版社「史」の試み』(平成31年)で第8回ゲスナー賞銀賞、第41回日本出版学会賞を受賞。
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