第1回 「雑誌屋考」と藤村『破戒』
稲岡勝(明治出版文化史)
連載の辞
玩物喪志とは枝葉にこだわる余りことの本質を見失う愚の意。しかし出版史の場合はむしろ逆で、細部(玩物)にこそ見逃してきた歴史の真実が隠れていることが多い。まず玩物にこだわることから始めて(創始)、その核心に迫れたらと考えている。神は細部に宿るというではないか。
間もなく発売の『近代出版研究』第2号に「雑誌屋考―地本、小新聞、絵草子屋」を寄稿した。その枕に振ったのは島崎藤村『破戒』の一節。主人公丑松が求めた欲しい本はなんと雑誌屋にあった。なぜ本屋ではなくて雑誌屋なのだろうか。この素朴な疑問に対し、既存の近代出版史研究には明快な回答が見当たらなかった。そんな中で小林昌樹「「立ち読み」の歴史—それは明治二十年代日本の「雑誌屋」で始まった」(『近代出版研究』創刊号)には伎癢を感じて、論考執筆の誘因になったと言っても過言ではない。
今回は藤村『破戒』の自著出版について、面白い雑誌記事を見つけたこと、更にそれに食いついた書店の主人について述べてみたい。
◎文士の覚醒 新体詩を以て有名なる島崎藤村氏は、従来信濃小諸に教鞭を執って詩作に余念なかりしが、今回感ずる所あって東上し府下大久保に居を卜して、自著出版の業を開始すべく、既に四百頁余の大作を成就し、之れを血祭として大いに雄を文壇に競はんとするの計画ある由。其成功と否とは知らず意気壮とすべきにあらずや。而も氏は今後完く新体詩の筆を絶つべしと。(『文芸倶楽部』11巻7号、明治38年5月1日「時報」欄 p316)
《書肆の機敏可驚》—金尾文淵堂主人の来訪
〇[明治三十八年]五月四日
この夜金尾文淵堂なる書店の主人来訪、『文芸倶楽部』紙上にて小生の出版事業を聞きたりとて、その一手販売の委托を乞ひに来る。書肆の機敏可驚、尤も思ふよしありて発売上の相談は『破戒』の完成まで一切せざることになし(田山氏の注意もありて)同書店へも此旨を通じ申候。(以下略)(『藤村全集』17巻 筑摩書房 1968年 p97)
上記「時報」欄の一文は田山花袋の筆かと睨んでいたが、藤村の花袋や神津猛宛書簡によってほぼ確実と見てよいようだ。偶然にもこの年に文淵堂金尾種次郎も店を東京に移している。門出となるめぼしい出版物を探していて、「◎文士の覚醒」が目についたのだろう。それにしても金尾文淵堂の素早い行動力は、藤村を驚かすのに十分であった。
「小生の出版事業」とは『破戒』(緑陰叢書第一篇)自費出版のこと。そのお蔭で同書の出版プロセスやコストが逐一分かる珍しいケースになった。藤村は原稿作成から組版印刷、口絵挿図の製版、製本発売までの出版作業一切に自ら進んで関与した。その委細を綿々と綴ったパトロンの神津猛宛書簡が遺ったのも幸運。上記の『藤村全集』17巻で容易に見ることが出来るが、既に早く『「破戒」をめぐる藤村の手紙』(島崎楠生・神津得一郎編 羽田書店 1948年)が出ている。
偶然は重なるものでこの4月1日から、日本近代文学館では春季特別展「島崎藤村の世紀」展を6月10日まで開催する。〈編集〉という視点から藤村の足跡をたどる由だが、『破戒』(緑陰叢書第一篇)の自費出版は取り上げないようである。(了)
稲岡勝
1943年、上海生まれ。早稲田大学政治学科および図書館短期大学別科卒業、1972年から東京都立図書館勤務。1999年から都留文科大学国文学科教授情報文化担当、専攻は明治の出版文化史。弊社刊の『明治出版史上の金港堂 社史のない出版社「史」の試み』(平成31年)で第8回ゲスナー賞銀賞、第41回日本出版学会賞を受賞。
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