2,000枚にもわたる原稿
三好先生から連絡をいただき、田中文雄氏の2,000枚にもわたる原稿を受け取りました。
「愛生」の原稿用紙のます目いっぱいに、万年筆で達筆に書き込まれた原稿。
括っても括ってもまだまだ原稿用紙。2,000枚のボリュームにのけぞりました。
読むほどに、これをお書きになられた、田中さんの熱情、使命感、正義感に圧倒されます。
内容としては、『すばらしき復活』田中一良著(1977・すばる書房)と重複しますが、今回の原稿はご本人が書かれているので新事実もあります。編集部としましても、あまりに大部であることと、未完なので今後どう編集をしてゆこうかと考えておりますが、30年という時間を超えて(ご本人が亡くなっていますので)大変貴重な原稿をお送り下さったことを感謝しております。
田中文雄(鈴木重雄)氏について。 三好邦雄
長島愛生園に、夏期休暇で医学生達が実習に出かけて行ったのは、今から約40年ほど前のことでした。
当時の厚生省が主だった国立療養所を医学生の実習に解放したのでした。 田中文雄(社会復帰後は本名にかえり[鈴木重雄])氏は、その時に迎えてくださった患者さん達の中心的人物でした。
田中さんは、東京商科大学(現一橋大学)在学中に発病し、入所したのは昭和10年代だったそうです。
私が初めてお会いしたときは、田中さんは40歳代でした。たしか気仙沼あるいはその近くの出身でした。
大した人物で、行動力に富み、正義感が強く、頭脳明晰な方で、我々医学生と昼夜行動をともにして、語り合いました。
私は田中さんが書かずに、他に日本のハンセン病患者を取り巻く世界を、記録として残せる人はいないと思いました。
人間が人間として扱われなくなる、実存体験と深い思索の記録は、田中さんのような人でないと書けないと考えました。
私はただの学生で、何もできる力はありませんでした。私の説得に応じた田中さんは、若者と同じ情熱とエネルギーを持って筆をとりはじめました。
その後自宅へ田中さんから原稿が送られてきました。それはなんと原稿用紙2,000枚にもわたる自叙伝でした。
私は一人読んで興奮し、このような人類稀な記録を形にするきっかけを作ったと自分自身に小さな価値を覚えました。
その後、田中さんはすさまじい執念で社会復帰をしました。社会復帰後は、大学のクラス会へ参加したり、亡くなったものだと思っていた旧友達と手を握り合って再会を喜んだり、国際ライ学会で英語でスピーチをしたり、同級生の取り計らいで、ダイキン工業の顧問役となり、ついに郷里の町長選にまで、立候補(編集部註1)し活躍しました。
田中さんの最期の仕事は、厚生省からお金を引き出して、気仙沼に国民宿舎を作ったことです。
たしか完成の日だったと記憶していますが、田中さんを飛び降り自殺をしてしまいました。
奥さんは残されたのだと思います。 原稿は未完でした。私は医師となり、30年たちます。
折にふれこの原稿を持ち、いくつかの出版社を回りました。しかしダメでした。
本になるには、売れる見込みがなければなりません。きっと採算が見込めなかったのだと思います。
そんな時、朝日新聞(2001・9・20・夕刊)に、『ハンセン病文学全集』の記事を見ました。さっそく、新聞社に皓星社の連絡先を聞き電話を入れました。
「鶴見俊輔先生から、田中文雄さんのお話は伺ったことがあります。田中さんの生原稿があったのですか。」と担当の能登さんの言葉でした。
よく「気持ちがすっと軽くなる」というようなことを聞きますが、私はこの瞬間、本当に肩ではなく全身が軽くなるものであるということを知りました。
そしてさっそく「ハンセン病文学全集編集室」に、2,000枚もの田中氏の生原稿を送りました。
私は、当時のハンセン病の療養所を思うときに、次のような出来事を思い出します。
愛生園に隣接する光明園での出来事でした。 形成手術のために来ていた非常勤の医師のことです。たまたま雨の中長靴で病室に入ってきた全盲の患者さんをつかまえ、医師は老人の顔すれすれに手に持った傘の先端を動かして、手術のやり方を私達医学生に示したのでした。
もちろん、こんな態度の医者は例外的な存在でした。 しかし私は、胸の中を傘の先でかき回される思いでした。
田中さんがもしこの場に居合わせてら、掴みかからんばかりに激怒したに違いありません。
園の職員は、田中さんを煙たがったようです。職員をなだめるために、一時田中さんは退所処分になったことがあったと聞きました。
社会復帰をして、積極的に活動して、国民宿舎が出来あがったときに、田中さんを底無しの空虚さに襲われたのではないかと思うのですが、それも傍観者で健常者の私の勝手な思いです。
失われた人間存在と失われた長い歳月は、当事者であるハンセン病患者さん達にしかわからないものです。
彼の原稿を読む人の感動は、彼にとって遠い世界の出来事に違いありません。
それでも原稿は読まれて欲しいと私はひたすら思います。
(編集部註1)敗戦により、ハンセン病療養所入園者は選挙権を獲得したのだが、被選挙権は実に「ライ予防法」の廃止まで入園者にはなかった。このことは、うかつにも栗生楽泉園の谺雄二さんが草津町の町議補欠選挙に立候補して、その応援に行くまでは私は知らなかった。谺さんは、予防法廃止後、先の総選挙のとき社民党から立候補した森元美代冶さんについで、二人目の立候補者だ。しかし、それではハンセン病患者・元患者の立候補者は戦後二人しかいないかというと、その前にもう一人いることを忘れてはならない。それが鈴木重雄さんだ。すでに1973年宮城県唐桑町の町長選に立候補している。鈴木さんは、退所、就職、戸籍の回復など想像もつかないような闘いの末、郷里の町長選に出馬したのである。しかし、ハンセン病元患者の闘いは、いまだ当選者は出していない。
編集部より
訃報
2月26日、作家冬敏之氏が亡くなられました。「みみずく1号」「みみずく2号」(本紙)の「『ハンセン病文学全集』「第1回編集会議」」でも活発なご意見をいただいております。
本全集を立ち上げたときにも、いろいろご相談にものっていただきました。 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
冬さん。冬さんのご遺志に、添えるような全集を一所懸命作ります。見ていてくださいね。
お詫び
「みみずく1号」を刊行してから、はや8ヶ月も経ってしまいました。 当初毎月刊行を目指していたのですから、なんともいい訳のしようもありません。読者の方から「いつ2号が出るのですか。」という問い合わせをいただいたりし、このような小紙でも楽しみにしてくださる方がいるということを改めて思い、反省しております。また皆様にお伝えしたい『ハンセン病文学全集』関係のニュースもあります。「みみずく通
信2号」を機に、定期的に刊行してゆくつもりですので、ご期待下さい。
予告
2月22日〜23日と編集委員の加賀先生と、草津の栗生楽泉園へとご一緒させていただきました。
今回の旅の目的は、加賀先生は『ハンセン病文学全集』1〜3巻「小説」の解説をお書きになるために、自然条件の厳しい頃に療養所を訪ねてみたいというお気持ちがあったためです。雪深い草津を考えていましたが、当日は天候にも恵まれ(温かすぎました)、園内を隈なく探訪しました。(それにしても加賀先生は健脚です。ついてゆくのがやっとでした。)しかしこのように温かい日でも、「重監房跡」は雪が膝くらいまであり、また入口にある盲導鈴も聞こえてこないほど静まり返っていました。加賀先生は「これでは叫んでも外に聞こえないし、この雪では食事を運ぶのも大変だったろう。」とおっしゃっておられました。23日午後からは、福祉会館で、先生は講演をなさり、在園者の方々と懇談をなされました。その模様は次回「みみずく3号」でご紹介したいと思っております。
4月2日に、「第2回編集会議」を編集委員の先生方と行う予定にしております。それも追ってご紹介するつもりでおります。
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