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みみずくつうしん
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『ハンセン病文学全集』編集会議・2 (2001・7・6) | ||||||||
出席者 編集委員=大岡信・加賀乙彦・鶴見俊輔
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編集協力=國本衛・冬敏之・山下道輔(五十音順)
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編集部 今先生方のお手元に、「ハンセン病文学全集 第1期編集打合せ案」をお配りさせていただいております。
『ハンセン病文学全集』は、必ずしも狭い意味の「文学」に限定せず、文学を「文字で書かれたもの」と考え全体で20巻、第1期(全10巻)、第2期(全10巻)と分けて編集することを考えております。第1期は狭義の文学作品で、かつ単行本化された作品に絞りました。調査によりますと、1920(大正9)年〜2000(平成12)年までに、その単行本数は約875冊となります。第1期に単行本を柱とした理由は、単行本だけでそれだけの分量
があること、単行本は作者の最終意思(決定稿)と推定できることです。そして第2期は、このあと全国の療養所を長期滞在取材をして、園の機関誌に収録された作品、埋もれた生原稿などの発掘、また聞き書きなど、在園者の方々のお話を伺ってくるつもりでおります。そして第2期は、文学作品に限らず、論文、記録、書簡、調査研究報告その他、文字で書かれたあらゆるものを対象に編集したいと考えます。
また、1期と2期の区分として、多くの単行本は自費出版によって刊行されておりますが、このような出版が可能になるのは、年金の支給年(1960・昭和35年)とプロミン治療の成果
が現れてくる時期と重なります。そこで、第1期を「プロミン以後」第2期を「プロミン以前」という区分も可能かと思います。(註1)
第1期の仕様は、全10巻、A5判上製、各巻平均550頁前後。
第1巻〜3巻「小説」、4巻「随筆・記録」、5巻「評論」、6巻〜7巻「現代詩」、8巻「短歌」、9巻「俳句」、10巻「児童作品集」となります。
さきほどもお話させていただきました、『ハンセン病文学全集』第2期にも関係してくることになるのですが、今回の1期に収録するため評論原稿を読みこんでみると、普遍性のある評論というものが思ったより少ないのです。そこで、もう少し大きな枠で、ハンセン病史というとらえ方では考えられないかと思ったりするのですが、例えば予防法闘争とか、死刑判決を受けた藤本松夫事件だとかです。これらは療養所を足で歩き、いろんな方にお会いすることによっていろいろ膨らんでゆく可能性を感じています。したがって2期の内容は作品編「プロミン以前」(園内の機関誌を中心に)と社会編
(ハンセン病史に関わる一切の記録)と考えております。 どうぞ先生がたのご意見をうかがわせていただけましたらと、思います。
終
(註1)日本におけるプロミン
(註2)『日本詩人全集』第10巻の解説に大江はこう書いている。 (略)この全集は全編者が熱心に人選その他につき意見を交して成立したものだが、各巻の編纂責任者の個性が出ることは当然だ。私は、新居(格)、湯川(秀樹)、武谷(三男)、阿部(襄)というような批評家や原子学者、生物学者の詩をこの巻にいれている。この巻に収めた新居格氏の詩は永眠直前書いたといってよい詩だ。新居氏は銀座を足を重くるしくゆっくり歩きながら「僕はこれでも詩人なのだよ。詩を書きたいな」といったので、私は書くことをすすめた。阿部襄氏の詩は専門の立場からの観察の美があると思う。武谷氏の三段階論は素粒子グループの研究に大きな作用をしてきたということを特に言いたい。(略) (註3)これは実は、 1946年に初版が出た名著『弁証法の諸問題』(理学社)の巻頭に掲げられたもの。しかしこちらにあたると若干の異同と、別 な事実がわかる。『弁証法の諸問題』のほうは、タイトル「言葉」の後に(太平洋戦の渦中にて)と添えられ、最後に(昭和18年3月真壁町久保氏主宰の展覧会のために)とあり、執筆の時期が知れる。また、第一行は『全集』が「人間の理想」となっているのに対し『諸問題』は「人間の理性わ(ママ)」となっている。 (註4)少し面映いのですが、ほめられた経験はめったにないので記念として。
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みみずくニュース | ||||||||
2,000枚にもわたる原稿
(編集部註1)敗戦により、ハンセン病療養所入園者は選挙権を獲得したのだが、被選挙権は実に「ライ予防法」の廃止まで入園者にはなかった。このことは、うかつにも栗生楽泉園の谺雄二さんが草津町の町議補欠選挙に立候補して、その応援に行くまでは私は知らなかった。谺さんは、予防法廃止後、先の総選挙のとき社民党から立候補した森元美代冶さんについで、二人目の立候補者だ。しかし、それではハンセン病患者・元患者の立候補者は戦後二人しかいないかというと、その前にもう一人いることを忘れてはならない。それが鈴木重雄さんだ。すでに1973年宮城県唐桑町の町長選に立候補している。鈴木さんは、退所、就職、戸籍の回復など想像もつかないような闘いの末、郷里の町長選に出馬したのである。しかし、ハンセン病元患者の闘いは、いまだ当選者は出していない。
編集部より 訃報 お詫び 予告
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