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『ハンセン病文学全集』編集室へ




「みみずく通 信」創刊準備号
3月27日(火)鶴見さん宅にて、打ち合わせ後撮影。
 

『ハンセン病文学全集』とは。

皓星社では15年くらい前から、草津の楽泉園で詩の選者をされていた村松武司さんと、詩人で今回のハンセン病国賠訴訟の原告の谺雄二さんと、ハンセン病図書館の館長で原告の山下道輔さんらと『ハンセン病文学全集』を作るという「夢」を語りあっていました。話をしているうちに私たちは何が何でもやりきろうと決意を固めていったのです。
その後、10数年はあっという間にたち、村松武司さんは二度とお会いできない人となってしまいました。なくなられてしまうと村松さんとの約束を果 たすのは、『ハンセン病文学全集』を刊行するしかありません。皓星社の準備が整い、鶴見俊輔先生たちと具体化を話し合っている、ちょうど時を同じくしてハンセン病国賠訴訟の判決(熊本地裁)、政府の控訴せずの決定と情勢は、私たちの思いを追い越して急展開しました。

『ハンセン病文学全集』は文学全集として成立するのか。と思われる方々も多いでしょう。ある意味、『ハンセン病文学全集』が成立するという背景がハンセン病が抱えている問題点ともいえるのではと思います。 明石海人の有名な『白描』に「(略)――深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない――そう感じたののは病がすでに膏肓に入ってからであった。(略)」とあります。人はなぜ物を書くのでしょう。海人は病を得、病み重ねてゆく。不治といわれた病と闘いながら書きぬ きました。
北条民雄の小説「望郷歌」は療養所の学園について書かれています。「(略)いったいこの子達に何を教えたらよいのであろう。また彼等にどういう希望を与えたらいいのであろう、(略)ただ思いきり時間を豊に使用することを考えついた。(略)童話を話してやったり、読ませてみたりし、作文はなんでも勝手に綴らせ、時間の半分は学園の外に出て草や木の名を教えた。」療養所内は子供の世界でもこのようで、退所して生活をやりなおすという考え方はなかったに等しいといっても過言でないと思います。
島比呂志さんの「書くということ」では「失望、悲嘆、不満の渦巻く感情の中で、叫び出したくなる、訴えたくなる、理解してもらいたくなるのだが、療養所の垣根が自由な人間関係を遮断していて、私の声はとどかない。そこで私は、文章を書きはじめる。文章だけが療養所の垣根を越える唯一の手段であった。」ともいっています。
ふたたび、なぜ人は物を書くのか。今、私の手元には一度もお会いしたことのない患者さんの作品があります。名前を捨て療養所のなかで生活をしていたということは、残された作品だけが教えてくれています。

今から5年前、ようやく具体化の目途のついた皓星社は、鶴見俊輔先生にはじめてこの企画のお話をさせていただきました。先生はこころよく引き受けてくださって、加賀乙彦先生と大岡信先生に、お声をかけていただき、さらに大谷藤郎先生のご賛同もいただき『ハンセン病文学全集』は最良の編集委員を得て歩みだしたのです。
しかし、ひとえに皓星社の内部事情で思ったように作業が進行しませんでした。そのせいで『ハンセン病文学全集』をお見せしたかった在園者の方で、お亡くなりになった方もおおぜいいらっしゃいます。悔やんでも悔やみきれません。また5月11日に熊本地裁での判決、その23日の控訴断念と続きましたが、私たちは出版(『ハンセン病文学全集』)を通 して支援することもかないませんでした。そのことについては重く受け止めています。
それでもようやく7月6日に諸先生方もお忙しい中、東村山のハンセン病資料館において、編集会議を設定いたしました。刊行の予定は、第1期として(10巻)は2003年の春を目差して作業中です。 鶴見先生、大岡先生、加賀先生には本当にお待たせしてしまい、ご迷惑もかけてしまいました。今年になり、諸先生方にふたたび(何度も今度からがんばりますと申し上げたことがあり、前科五犯くらいあります)お願いしましたが、こんな私を見捨てずお付き合いを頂いております。
そんな先生方の気持ちをしっかりくんで仕事するためにも、この日誌をはじめることにしました。
公表することで、先生方に作業のご報告もできると思ったのがこの日誌のきっかけではありますが、なによりも自分自身をしっかり縛ろうと思ってのことです。拙いものですが、どうぞお付き合いください。

『ハンセン病文学全集』編集室 能登恵美子
(といっても私一人です)

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