皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第52回 中公文庫のキーパーソン・高梨茂

河原努(皓星社・近代出版研究所)

■中公文庫は一番難しい文庫

初めて買った中公文庫は何だったろう、と考えてみたら、高城肇『非情の空――ラバウル零戦隊始末』(1992)だったことを思い出した。新刊で買ったから中学2年の時かな。場所は行きつけの書店だった、スーパー「ナルックス」2階の北國書林。この頃の私は日本海軍に傾倒していて、やがて阿川弘之『米内光政』(新潮社、1978→新潮文庫、1982)をきっかけに近現代史の面白さに目を開いていくのだが、その少し前のこと。ライトノベルの吉岡平〈無責任艦長タイラー〉シリーズから坂井三郎『大空のサムライ』(光人社、1967)に手を伸ばし(注1)、さらに手を広げて中公文庫『非情の空』を買ったのだった。
当時書店で文庫目録を拾っては熟読していたが、中公文庫の目録ももちろん持ち帰り、気になる本に「○」を付けていた【図1】。確か2冊目は今東光の『東光金蘭帖』(中央公論社1959→中公文庫1978)で、店頭在庫がないため注文した。顔なじみの店のおばさんが「今東光なんて読むの!中公文庫は一番難しい文庫なんだよ」と教えてくれたのを今でも覚えている。当時今東光(1898-1977)は亡くなって15年、中学生が読む作家ではなかっただろう。

注1 〈無責任艦長タイラー〉シリーズは著者の吉岡平がミリタリーをはじめ多分野のオタクだったため、それらの知識を織り込んだ小説になっていた。スペースオペラなのだが、2巻がいきなり日清戦争前夜にタイムスリップして黄海海戦に参加する話だし(『明治一代無責任男』)。外伝2巻が『大宇宙おおぞらのサムライ』で、その元ネタを求めて坂井三郎『大空のサムライ』に辿り着いた。

【図1】1993年2月の目録より。ほとんどの目録を処分したがこの目録だけは大切に保管している。川瀬一馬『随筆 蝸牛』に「○」がないのは高かったからかな?

■「小さな社会人大学 中公文庫の100冊」――俺たちの坪内祐三

高校に進み、盟友・堀川秋海と出会うと、競うように中公文庫を買い始めた。2人で主導して部活動で人名事典を作り始め、そのネタ本が山のようにこの文庫に入っていたからだ。幣原喜重郎『外交五十年』、芳澤謙吉『外交六十年』、古島一雄『一老政治家の回想』、三浦梧楼『観樹将軍回顧録』、井筒月翁『維新侠艶録』、結城禮一郎『旧幕新撰組の結城無二三』……。これらの渋すぎるラインナップの中から森銑三の一連の文庫を読んで私淑し、大学に入って銑三翁の縁で恩師の稲岡勝(明治出版文化史)と邂逅することになる(注2)。
大学1年の時に坪内祐三『シブい本』(1997、文芸春秋)が出て、中に「小さな社会人大学 中公文庫の100冊」が収録されていた(初出は『ノーサイド』1994年12月号)。「一番好きな文庫は何かと問われたら私は、やはり、中公文庫を挙げる。やはり、の意味は、分かる人には今さら説明不要だろう。分からない人のために説明を始める」という書き出しのこの一文に、何百冊と中公文庫を買って読んでいた私と堀川は驚喜し、快哉を叫んだ。何というタイトル! 私たちの経験を「小さな社会人大学」と的確に表現していたのだった。「俺たちの時代(?)の評論家がとうとう現れた!」と、颯爽と現れた坪内祐三の姿は本当にまぶしく見えた。その後に出版された『sumus別冊/まるごと一冊 中公文庫』(2003)にも大興奮したことを書き添えておこう。

注2 大学3年の時に司書課程のガイダンスを終えた先生に「先生は都立中央図書館にいらっしゃったそうですが、森銑三さんと面識がありますか? もしご存知ならお話を訊かせてください」と話しかけたことが今まで続くご縁の端緒となった。

 

■中公文庫のキーパーソン

さて、その中公文庫を作ったのは誰なのか。『中央公論新社120年史』(2010)には「それまでの中公文庫は、実質的には担当役員の高梨茂が編集長といってよく」「古書、稀覯本の発掘再刊は、前述した江戸文学の全集以上に幅広く、それだけに根強い「中公文庫ファン」を持つ、言わば「玄人好み」の文庫だった」(p333)とある。この高梨がキーパーソンであることは、何百冊と読んできたなかでボンヤリとわかってきていた。
文中の「前述」とは「120年史」の以下の記述になる(p263-265)。

昭和二十三年に入社した高梨の社歴の大半は、書籍編集である。本造りの名人として、永井荷風、谷崎潤一郎など、造本に極めて厳しい目を持った作家からも認められた職人肌の編集者であり、また、主に江戸文学を中心とした古書の蒐集家として古書業界では知らぬ人のない存在だった。
編集部門の代表者として高梨が最初に企画したのは、人気がありながら一般には入手しにくい名著、旧著を発掘し、新たな装いのもとに出版することであった。
その第一弾は、昭和四十五年十二月から刊行開始された「森銑三著作集」全一二巻別巻一である。森銑三は江戸時代の有名無名の人物伝や、近世文芸史研究における該博な学識と達意の文章で、必読の文献と言われながら、一般読者の目にはほとんど触れることなく埋もれていた。その作品を集めた著作集は、読書界の話題をさらい、第二三回読売文学賞を受賞した。編集委員は、野間光辰、中村幸彦、朝倉治彦であった。
引き続き、「幸田成友著作集」、「山口剛著作集」、「三枝博音著作集」(毎日出版文化賞特別賞)、「水谷不倒著作集」、「江馬務著作集」、「潁原退蔵著作集」、「片岡良一著作集」、「中村幸彦著述集」と国文学関係の個人著作集は続いていく。

高梨は、中央公論社の渋すぎ路線の立役者かつ、『森銑三著作集』を作った人であったのだ。

この全集(筆者注・「三田村鳶魚全集」)が刊行された一年後の昭和五十一年五月から、今度は三田村鳶魚が編集した「未完随筆百種」全一二巻の刊行が始まった。(中略)さらに昭和五十三年八月からは同じく鳶魚編「鼠璞十種」全三巻が、また五十四年から五十七年にかけては、「燕石十種」全六巻、「続燕石十種」全三巻、「新燕石十種」全八巻、五十四年十一月からは「随筆百花苑」全一五巻と、江戸時代の奇書珍書を根こそぎ網羅した感があった。その一方で、昭和四十八年五月に『馬琴日記』全四巻別巻一、さらに十余年の歳月をかけて準備してきた「洒落本大成」全二九巻補巻一が昭和五十三年九月に刊行開始され、中央公論社は江戸文学大学京橋分校と言われるほどの活況ぶりを呈した。

三田村鳶魚(1870-1952)は在野研究者で、江戸学の大成者。高梨はまさに江戸学の再興に関わったとも言えよう。

以上のように高梨は同社の歴史上でもっとも重要な書籍編集者の一人であるわけだが、私にとっては“学恩”のある中公文庫のキーパーソンという側面でこの文章を草しているので、今回のようなタイトルとなった。

 

■仕事と人柄と

さすがに江戸文学までは手が出なかったものの、「小さな社会人大学」の創立者として高梨を徳としてきた私であったが、大学時代に図書館で『諸君!』を読んでいると、元中央公論社の編集者である粕谷一希の「中央公論社における失敗の研究」が掲載されていた(注3)。そこには外からはわからない高梨の人柄が描かれていた。
粕谷は高梨を「本造りの名人として他の追随を許さない職人肌の人であったが、ひとの上に立つ管理者としては狭量であった。自らを持することに厳しかっただけに、他者への要求も厳しかった」「高梨さんは胃弱だったのだろうか。癇癪もちだった。同僚や部下を時、所を選ばず、怒鳴った」「この癇癪が次第に部下である下の世代にも拡がっていった」(『中央公論社と私』p181)と書いた上で、

同世代の人々は、皆、高梨氏の面罵に遭って退社していった。またそれから年少世代の人々も、やはり人間としての誇りをもつ者は、高梨氏と衝突したとき自らを持するために退社していった。(中略)だから、私が中央公論社を去ったときには、中央公論社の成長期を支えた私以上の世代の人々はあらかた中央公論社を去っていたのである。

『中央公論社と私』p183

と続け、粕谷は高梨との不和が原因で退社した人物として三枝佐枝子、笹原金次郎、金子鉄麿、近藤信行、和田恒、宮脇俊三らの名前を挙げている。いずれも名だたる編集者である。

注3 のち『中央公論社と私』(文芸春秋、1999)【図2】に「第二部 修羅と哀惜」として収録された。『諸君!』は文芸春秋が出していた保守論壇誌で、山本夏彦や坪内祐三の連載目当てでよく読んでいた。

【図2】『中央公論新社120年史』と『中央公論社と私』

 

■ようやく判明した訃報

それから私は社会人となり、日外アソシエーツに就職して『出版文化人物事典』(2013)を編集した際、高梨について調べ直した。高梨ほどの経歴であればこの事典に収録されて然るべきだからだ。
同書は物故者のみを採録する編集方針で、存命の可能性がある人物は収録できない。平成22年(2010年)に刊行された社史『中央公論新社120年史』の年表には幹部社員の訃報が掲載されており、連載第40回で書いたように戦前の取締役・松下英麿の訃報まで載っている。大正9年(1920年)生の高梨の場合は、存命なら93歳。代表取締役専務まで昇った高梨の場合は掲載されないはずがないので、目を皿のようにして年表を確認したが訃報を見つけられず、存命とみなして収録を見送った。
その後も令和2年(2020年)に日外アソシエーツを退職するまで一貫して、人名データベース部門の日本人訃報担当者として集積される全ての訃報に目を通してきたが、高梨の訃報を見ることはなかった。その傍らで国会図書館に通って出版業界紙の訃報欄をメモし続けたが、そこでも目にしなかった。ところが昨年になって中央公論新社の方と面識を得たので、高梨について尋ねてみた。すると調べてくださり「平成15年4月18日、83歳没」という教示を得た(注3)。こうして長年の疑問は氷解した。やはり高梨は既に亡くなっていたのである。そこで、ここに高梨の人物事典項目を晴れて書けるというわけだ。

 

注3 私が把握している生年月日(『多様化する出版業界――360社の実態調査』丸之内リサーチセンター、 1971)は大正9年(1920年)1月11日生で【図3】、計算すると83歳没で情報と一致する。

【図3】右側の「役員」に生年月日がある。高梨の個人情報を載せた公刊資料は少ないので貴重。

 

■おまけ

金沢文圃閣から購入した高梨茂の古本注文ハガキ【図4・5】。『年ふりた』18号(2015年1月1日刊行)掲載【図6】。「私以外に買う人がいるのか? いや、いまい!」と買ってはみたが、ずっと筐底に眠っていた。今回のような機会でもないと埋もれ続けるので、日の目を見る場ができてよかった。

【図4】オモテ面と【図5】ウラ面。

【図6】古書目録『年ふりた』18号の掲載頁。

○高梨茂(たかなし・しげる)
中央公論社代表取締役専務
大正9年(1920年)1月11日~平成15年(2003年)4月18日
【経歴】昭和23年4月中央公論社に入社、同期に橋本進、横山真一らがいる。のち社長となる嶋中鵬二は同年9月の入社。33年出版部次長、34年同部長、36年第一出版部長、37年1月出版局次長を経て、同年9月同局長。40年取締役、42年常務に昇進、44年二代表制への移行で嶋中社長が代表取締役会長として総務・営業・雑誌局を統括するようになると、代表取締役専務に就任して書籍部門を統括した。59年二代表制を終えるにあたり取締役相談役に退く。永井荷風、谷崎潤一郎という中央公論社にとって重要な両大家との編集実務を担当した職人肌の編集者で、造本に厳しい目を持った2人からも認められた“本造りの名人”であった。また、江戸文学を中心とした古書の収集家として知られ、『未完随筆百種』『燕石十種』『随筆百花苑』『馬琴日記』『洒落本大成』といった江戸文学の全集や、読売文学賞を受賞した『森銑三著作集』を始め、三田村鳶魚、幸田成友、山口剛、水谷不倒、潁原退蔵、中村幸彦といった国文学関係の個人著作集を続々と製作。48年に刊行を開始した中公文庫でも実質的な編集長役を担い、その渋好みな路線を牽引した。粕谷一希によると癇癪持ちであり、高梨との不和が原因で複数の社員が社を去ったという。
【参考】『中央公論社の八十年』中央公論社/1965.10、『中央公論新社120年史』中央公論新社/2010.3、『中央公論社と私』粕谷一希/文芸春秋/1999.11

 


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