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第39回 神陵文庫、三洋出版貿易を創業した“ホルタン”鈴木常夫

河原努(皓星社・近代出版研究所)

 

■そういえば似たような人が……

前回第38回では伊部利秋という人物を取り上げた。彼は有斐閣、コダマプレスを経て、三洋出版貿易に入り同社の社長となった出版人であった。しかしその追悼文集きつゝとほく』を読むと、出版人としてよりも、むしろ旧制三高同窓会や寮歌祭のまとめ役として仲間に親しまれていたことが分かる。そして同書に頻出する三洋出版貿易創業者の鈴木常夫の名前を見て、思い出した。そういえば寮歌祭の会場で倒れて急逝した鈴木という人物がいたな、と。『出版文化人物事典』を作った時の記憶なのでさっそく「事典」を紐解いてみると、やはりそれはこの鈴木だった。

 

■追悼文集『紅萌』を手に入れる

改めて「事典」の鈴木の項目を見てみると、【参考】の欄に「『紅萠 鈴木常夫追悼集』故鈴木常夫君追悼文集刊行会編 1982」とあった。この本、どこにも所蔵が無く、存在は突き止めたけど中身は確認できていなかったような……。「日本の古本屋」に掲載があったので、購入してみた【図1】。

【図1】シンプルな装丁

手に取ってみると、タイトルは『紅萠』ではなく、背文字と奥付ともに『紅萌』で、「鈴木常夫追悼集」の文字はなかった。目次をみると百人を超える友人たちの追悼文が編まれているものの、肝心の故人の経歴や年譜が見当たらない。追悼文集は身内に配る本で、身内は故人のことを知っており、本としては不特定多数に読まれることは前提にしていないので、そういったもの――例えば名前のヨミなんかも――は必須では無いんだよなあ……私みたいな酔狂な他人には困ったことだが。
やむを得ず、全編をざっくり読み通して、“ホルタン”とあだ名された鈴木についての客観的事実を洗い出していく。砂金取りみたいに。なお『紅萌』は故人が熱愛した旧制第三高等学校(通称・三高、後の京都大学教養部)の、寮歌「逍遥の歌」の歌い出し「紅萌ゆる丘の花」にちなむ。

 

■『出版文化人物事典』における鈴木常夫の生年月日の訂正

その前に何か資料が無いかと手持ちの本を見ると『日本出版人総鑑』(文化通信社、昭和51年)に立項されていた他、『日本出版クラブ三十年史』(日本出版クラブ、昭和62年)の年表や『出版年鑑 1982年版』にも訃報の記述があった。

3・8 鈴木常夫(三洋出版貿易社長、大11・12・31生)歿。昭21年書肆神陵文庫創業、31年三洋出版貿易創業。日本寮歌振興会事務局長
『日本出版クラブ三十年史』p373

金沢文圃閣から複製が出ている『出版社調査録 昭和40年版』(丸之内興信所)。それに掲載されている「三洋出版貿易」の項を見ると、「大正12.1.3生」で「神戸出身、京都大卒後、出版業に従事、〔昭和〕20年当社を創業す」と、会社説明には「昭和20年現社長が京都に於て創業し、31年(株)に改組し、港区に本社を移転す。後35年9月現在地に移転し、現在に至る」とある。『出版文化人物事典』の項目で【生年月日】を「大正12年(1923年)1月3日」としているのは、この記述を採用したような気がする。ただ、『日本出版人総鑑』『日本出版クラブ三十年史』『出版社調査録 昭和49年版』では「大正11年(1922年)12月31日」となっているので、こちらが正しいのだろう(注1)。

 

注1 『産経日本紳士年鑑 第1版』(https://dl.ndl.go.jp/pid/3044973/1/1270)、『日本人事興信録 : 全国篇 第7版』(https://dl.ndl.go.jp/pid/3454340/1/239)など、紳士録系の資料は「大正12年(1923年)1月3日」となっている。

 

■三洋出版貿易の内実――昭和中期の出版社の実態を調べるには

『出版社調査録 昭和49年版』は同調査録の4冊目だが、正式なタイトルは『転換期にある出版業界』(丸之内リサーチセンター、昭和48年)で『出版文化人物事典』編集当時はその存在に気づけなかった。1971年版の3冊目も『多様化する出版業界』のタイトルで、1976年版の5冊目から『出版社調査録』に戻る。つまりOPACで書名「出版社調査録」を引いても1・2と5・6冊目しかヒットせず、3・4冊目は収蔵されていないと思ってしまったのだった。刊行後に当時国会図書館員だった小林さんから収蔵の事実を教えられ(利用できなかったことに)ガッカリしたものだが、小林さんの提案により金沢文圃閣から『高度成長期の出版社調査事典』(平成26~28年)として複製が出たのは喜ばしいことだ(解説は立教大学の石川巧先生)。
ちなみに現在「国立国会図書館館内限定公開」となっていてインターネットでは見られない同書の中身だが、こんな感じ【図2】。

【図2】ここまで調べられるんですね

これ以上に細かな公刊資料は無いと思われ、出版社の実態調査には必須といえよう。また原本の版元・丸之内リサーチセンターが出版した書籍を「国会図書館サーチ」で引いてみると『紙商社調査録』『印刷企業調査録』といったものを複数冊出しており、出版研究のみならず印刷研究にも役立ちそうだ。

 

■あだ名“ホルタン”の由来

さて、話は『紅萌』に戻る。百を超す追悼文から拾い上げた記述をパッチワークしていく。
鈴木常夫は「女系女傑(母堂ご自称)の神戸の貿易商の家に生れた。三高文丙で初めて会った時、はや神戸弁一本のホルタンだった。京大法学部、陸軍応召の後、神戸の戦災で京都に移り、書籍を手掛け、大阪より東京に出て、富士登頂を続けた」(p154)。
引用文末の“富士登頂”は三洋出版貿易を起こすと、毎年創立記念日に社員やその家族、仲間たちを引き連れて富士登山をしていたことを指す。
文中の“ホルタン”とはホルモン・タンクの意味だそうで、鈴木のあだ名だった。
「ホルタンの由来は彼が弓道部、小生(筆者注・三高同期の高橋博)柔道部に席を置いた頃彼は頬に銭形大の田虫の様なものが出来た為小生は田虫だ田虫だとからかうと彼はにきびだ、にきびだと言い、それではホルモン過剰、ホルモンのタンクだと言う事になり、以後ホルモンタンク、略してホルタンと呼ぶ様になった。兎に角ホルモンの塊の様な男で何事にもファイト満々であって、可成強引なところもあったが憎めない男で人の世話を良くした」(p130-131)。

 

■古本屋・神陵文庫を創業、現在の医薬書取扱の神陵文庫に

昭和21年「京大在学中に、京都の宅の店先に、三高、京大の友人、先輩たちの蔵書の一部を提供させて、数人の友達とともに神陵文庫を創いた」(p13)、「昭和二十年十月ごろ、復員、復学したが、食糧不足の京都市では、主食が九十五日も欠配となって、ついには、総長名で学生や若い教官に帰省が勧告されました。京都の街をぶらついていたある日、河原町二条の西北隅に「神陵文庫」という古本屋が眼にとまり、はいってびっくり、そこの主人(あるじ)はホルタンその人でした。神戸一中出身の彼がこんな所でと驚きとなつかしさで、三高の連中のいろいろの消息を話し合ったことでした」(p179)。
本がらみの道に足を踏み入れたのは古本屋からだったようで、“神陵”は三高の別名である。
「神戸にも神陵文庫の店をつくり、主として神大医学部を中心顧客とする医書の取扱を始め、その後の発展で兵庫県内第一の医薬書取扱業者の地位を確保するまでに至った。現在楠町六丁目で妹さん夫婦が営々とその基盤の拡大強化につとめておられる」(p222)。
神陵文庫で検索してみると、こちらは現在も営業中のようで、「会社案内」の「沿革」には「1946年  故 鈴木常夫 書肆神陵文庫 創業」とあった。『全国医書同業会九十周年誌』(全国医書同業会、昭和56年)には、昭和22年の創業で、同社の社名は京都大学総長・滝川幸辰による命名とある。

 

■北尾書店から三洋出版貿易へ

その後、「リーダーズ・ダイジェスト(注2)がつまらない本と抱きあわせでなければ買えないのが納得できないとして、鈴木文史朗氏に掛けあった縁で北尾書店に入社」(p13-14)するも、「鈴木常夫は請われて働いた北尾書店社長と意見の喰違いを生じたのか、同社と訣別し、東京へやって来たのが丁度私(筆者注・三高後輩の石津格夫)が東京赴任後数カ月経過後であったと思う。西久保巴町の一角に部屋を借り数名で外国図書の輸入の業を独立で始めた。三洋出版貿易の発足である」(p222)。
北尾書店は大阪市にあった洋書輸入業で『出版年鑑 昭和28年版』に記載がある。また、同社が「リーダイ」の配本を担ったことは、小川菊松『日本出版界のあゆみ』(誠文堂新光社、昭和37年)に「全国的な配本は「東販」や「北尾書店」がにぎって」という記述がある。この北尾書店、『谷沢永一書誌学研叢』(日外アソシエーツ、昭和61年)に収められた作家の開高健の事典項目に拠ると、サントリーに勤める以前に勤めた会社のようだ。「国会図書館デジタルコレクション」の威力をまざまざと見せつけられる……。

注2 アメリカの総合雑誌で、1946年から1986年まで日本版が製作された。通称「リーダイ」。高度成長期までは数少ない海外の“窓” として、アメリカ文化を伝える上で大きな役割を果たした。

 

■“ホルタン”の最期

三洋出版貿易については、前回触れたのでここでは繰り返さない。鈴木没後に創業家によって売却されたようだが、詳しいことはわからなかった。そもそも会社(特に出版社)がいつ無くなったのかはどう調べればよいのか……。
“ホルタン”鈴木常夫は、人一倍母校・三高への愛に溢れた人物であった。

鈴木常夫五十八年の生涯を通じて、第三高等学校こそは彼にとって寝ても覚めても最大最要最優先のプロジェクトであった。三洋出版貿易には早くから専属の女子社員が居て三高同窓会名簿の整備訂正を担当し、ここに照会すれば卒業生の住所や消息は京都本部の名簿を繙くよりも遙かに迅速且つ正確に知ることが出来た。又、昭和四十六年末に完成を見た紅萌ビルは、資材納入・設計施工・ビルテナントの何れに漏れなく同窓生が名を連ねた上に、塔屋の桜花のマーク・常設の三高クラブ・“紅萌ゆる”の電話チャイム等数々の新機軸はすべて鈴木の独創であり、鈴木のおかげで東京のド真中にかかる格好な拠点を得たことは同窓生のひとしく幸せ且つ誇りとする処であった(『紅萌』p77-78)

いささかやり過ぎの気もするが、公私混同ぶりに昭和を感じるなあ。
三高愛は“寮歌”――旧制高等学校の歌――につながり、日本寮歌祭の事務局長や副委員長も務めた。各地の寮歌祭にも足を運び、昭和56年3月8日は第3回岡山寮歌祭に参加。「三高有志と一緒に壇上で寮歌を歌い、行進歌を叫びながら壇を下りて、一高OBのいるところへ歩いて、一高の代表と握手をしようと手を差し出したとたんにバッタリと倒れた」(p46)という。前回、後継社長となった伊部利秋が「青春」と書かれた太鼓を叩く写真を掲げたが、『紅萌』にも“ホルタン”が同じ太鼓(と思われる)を叩く写真が収められていた【図3】。

【図3】口絵写真より

○鈴木常夫(すずき・つねお)
三洋出版貿易創業者 神陵文庫創業者
大正11年(1922年)12月31日~昭和56年(1981年)3月8日
【出身地】兵庫県神戸市
【学歴】三高文科丙類〔昭和17年〕卒;京都帝国大学法学部〔昭和21年〕卒
【経歴】実家は神戸の貿易商。神戸一中を経て、昭和15年三高文科丙類に入学。17年9月卒業、京都帝国大学法学部に進む。在学中、学徒出陣。復員後、21年卒業。三高や京大の友人、先輩たちから蔵書の提供を受けて古本屋の神陵文庫を創業。妹夫妻が営んだ神戸の店舗は神戸大学医学部を中心顧客とし、やがて兵庫県内第一の医薬書取扱業者に発展した。その後、『リーダーズ・ダイジェスト』の配本を手がけた大阪の洋書輸入業・北尾書店を経て、31年東京で三洋出版貿易を創業。科学技術書の輸入販売を行う一方、42年三高の後輩である伊部利秋の入社に合わせて出版部を新設、伊部に手腕を発揮させフランス料理専門書の翻訳出版社としての地位も確立した。三高への愛校心に溢れ、自社ビルを三高の寮歌「逍遥の歌」にちなむ“紅萌ビル”と命名、三高同窓会名簿の整備訂正を担当する専属社員を置いたり、常設の三高クラブを設けるなど、三高の同窓生の世話に心を砕いた。また、日本寮歌振興会の事務局長や副委員長を歴任した。56年岡山寮歌祭の席上で倒れ急逝。没後、追悼文集『紅萌』が編まれた。
【参考】『紅萌』故鈴木常夫君追悼文集刊行会〔編〕/1982.3、『日本出版人総鑑』76年版/文化通信社/1976.8

 


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