皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第38回 織田作之助の小説のモデル? コダマプレス、三洋出版貿易の伊部利秋

河原努(皓星社・近代出版研究所)

 

■週末古書展で5000円と200円

次号の編集会議を終えた金曜日の午後、近代出版研究所の3人で週末古書展を訪れた。月の輪書林さんの棚を見ていると(他にも顔見知りの古書店主がいるのだがこの連載ではなぜか月の輪書林さんの棚ばかりが登場する……たとえば第24回第32回)、清水真弓『花冷え』(七曜社、昭和39年)という本があった。「おや」と思い価格を見ると5000円。さすがの値付けで、これは角川書店(現・KADOKAWA)創業者である角川源義の長女、角川春樹・歴彦兄弟の姉であり、幻戯書房創業者、ノンフィクション作家・歌人の辺見じゅん(1939~2011)の最初の著作。未読だが自身の家族をモチーフとした作品で、出版史本といえなくもないが、5000円となると、別の方の手元に行かれるとよいでしょう、と思った。
続いて、同じ棚にあったきつゝとほく 伊部利秋追悼文集』(伊部利秋君追悼文集刊行会、平成4年)という饅頭本を手に取った【図1】。こちらは200円。本を開くと「自由寮」と書かれた幟の横で「青春」と書かれた太鼓を叩く写真が出てきて「こりゃあかん」と思うも、一応年譜を確認しなくてはと目を通すと「コダマプレス」「三洋出版貿易」という言葉が目に飛び込んできた。「あ、未知の出版人の饅頭本だ!」と、打って変わっていそいそと帳場へ向かった。

【図1】函入りでビニールがかかった瀟洒な装丁

■コダマプレスの盛衰

最初に反応した単語は、実は「コダマプレス」。私の記憶が確かならば、朝日ソノラマと並ぶ、フォノシート(※1)出版の雄ではなかったか。自作のレファレンスツール「出版社の「自社紹介」横断索引――ミニ社史を見つける」を引くと、『戦後20年・日本の出版界』(日本出版販売弘報課、昭和40年)に自社紹介があった【図2】。

【図2】昭和30年代の「文化通信」にはフォノシート出版社の業界団体紹介があったような……コピーが出てこない

伊部は常務取締役として名前が出ており、編集代表として歌人の来嶋靖生(1931~2022)の名も。『泛きつゝとほく』には来嶋の「編集者としての伊部さん」という一文が収められており、この会社の概略が分かる。

昭和三十四年、日本出版史上、画期的な意味をもつ「音の出る雑誌」(フォノシート出版物)KODAMA、AAAが創刊された。これは田中・伊部の三高コンビが仕掛人で、二人を中心に設立されたコダマプレスに私は出向を命じられた。フランスのソノラマの権利を得た朝日ソノラマが当初、主としてニューズ本位であったのに対し、コダマは出版社らしい多彩な内容(自然の音声、英会話、ポピュラー音楽、童謡、民謡、演劇など)をめざした。十月八日発売と同時に売り切れ、社には注文伝票をもった取次店や小売り書店の人たちが殺到した。伊部編集長は、文字通り昼夜を分かたず、寝食を忘れ、獅子奮迅の勢いで事に当たった。学術・教養書の、いわば硬派の編集者が、音楽ディレクターや芸能記者に急変身したのである。当時のシートは収録時間が七分であった。「七分間の芸術」のために伊部さんが発揮した企画力と行動力のすばらしさは、とても私の筆力では表現しきれない。(中略)ところで音声と活字の結合という新しい試みは、やや状況を先取りしすぎた気味があった。シートの出版はやがて行き詰まり、ディスクへの進出をはかったが、レコード業界の堅いガードに阻まれて思うように行かず、昭和四十一年、コダマプレスは夏の夜の花火のように、短くも輝かしい命を終えた。(『泛きつゝとほく』p115-116)

文中の田中・伊部の三高コンビとは、旧制第三高等学校出身である田中京之介と伊部のことで、2人は法律書の版元・有斐閣の編集者であった。来嶋によると「有斐閣時代の伊部さんは、社内屈指の切れもの編集者」で「有斐閣が、戦後徐々に他の学問分野への進出を企てた。伊部さんはその輝けるパイオニアの一人であった。特に社会学、哲学、経済学などにかかわる企画はすべて伊部さんの手になると言ってよい」という。“出向”と書かれているので『有斐閣百年史』(有斐閣、昭和55年)を確認すると次のようにあった。

この年〔河原注・昭和34年〕の十月六日、有斐閣の傍系会社としてコダマプレス社が創業した。十一月十日にわが国で初めてのフォノ・シートを開発し、音出誌といわれる『KODAMA』『AAA(スリーエー)』を創刊した。なお音出誌としては『朝日ソノラマ』(朝日ソノプレス、昭和三五年十二月)の創刊もあった。音出誌はフォノ・シート利用による新領域の開拓ということで話題を呼んだが、しかし、コダマプレス社は成功するにいたらず、結局、昭和三九年(一九六四)一月整理撤退することになった。コダマプレス社は田中京之介の提唱によって創業されたもので、田中が社長になって経営にあたり当初は順調にスタートしたが、販売流通過程に問題が多く、ついに失敗に終ったものである。有斐閣はその整理撤退に際し少なからぬ経済的負担をよぎなくされた。これは有斐閣百年の歩みのなかで、間接的ではあるが唯一の失敗として、また、今後の反省の糧としてあげることができるだろう。(『有斐閣百年史』p514)

前述の来嶋の証言と、有斐閣の社史を組み合わせるとコダマプレスは昭和34年創業、39年有斐閣が手を引き、41年倒産となる。国会図書館の蔵書検索では、コダマプレスの出版物は42年まで確認できるので、実際に行き詰まったのは42年かと思われる。

※1 フォノシートと呼ばれているものは、塩化ビニール製の、薄手でやわらかいレコードのこと。「ソノシート」という呼び方のほうが一般的である。フォノシート出版については「フォノシートへの招待」というウェブサイトが詳しく、参考になる。

 

■三洋出版貿易をフランス料理専門書の翻訳出版社に

コダマプレスが無くなった後、伊部は三洋出版貿易に入社。同社は科学技術書の輸入販売を生業としていたが、伊部の入社に合わせて出版部を新設する。主婦向けの家庭料理書しかない時代に、料理の本場フランスから原書の版権を買い取り、ホテルやレストランのコックさん向けの料理専門書を販売して売り上げを伸ばし、フランス料理専門書の翻訳出版社としての地位を確立。“料理の三洋”と呼ばれるまでに育て上げた。53年には東京・茅場町の自社ビル1階に料理書だけの書店「サンヨー・ブックショップ」を開店。
昭和56年創業社長の鈴木常夫が急逝すると、ややあって社長に就任。傾きかけていた経営を再建したが、平成2年退社。『泛きつゝとほく』掲載の平岩新吾「伊部君との交友二十年」によると創業家立ち会いのもとで社長を解任された(三洋出版貿易は売却されたらしい)。その後、間もなく病に倒れ、64歳で急逝した。

 

■織田作之助の小説のモデル?

先に「こりゃあかん」と思ったと書いたが、その写真は旧制三高同窓会の関東支部大会での写真であった【図3】。伊部は同窓会活動に熱心で『泛きつゝとほく』の大半は同窓会関係者の文章で埋まっているのだが、それ以外の一つである“元部下枠”のいくつかを参照して、本稿を書き上げた。
実は伊部は出版社に勤める前に中学校教師をしていたので、“元教え子枠”の文章もある。そうして文章を寄せた一人に、後年中央公論社の編集者となった宮田毬栄(1936-)がいた。宮田は書く。

伊部先生が私たちのクラス担任だったのは、わずかに一年間のことである。しかし、人生での恩師を一人あげよといわれたら、私は躊躇なく伊部先生の名を記すだろう。高校から大学に進み、学生運動がまっ盛りの青春を生きている間も、いつも伊部先生は私のなかの大切な支えであった。(中略)私は学生時代、三高生だった伊部先生がモデルだといわれる織田作之助の小説『それでも私は行く』を読んだことがある。織田作之助の作品としては一風変わった小説であるが、その主人公のモデルが伊部先生らしいというので、忘れられない小説になった。(『泛きつゝとほく』p108-109)

伊部が作中人物モデルとなった小説があったとは。『泛きつゝとほく』は国会図書館には所蔵されている。現在デジタル化作業中と蔵書データに表示が出るが、完了すれば、このような事実(?)も全文検索で容易に見つけられるようになるのだろう。

【図3】こちらが問題の写真。身内向けに作られた本だからね……。

 

○伊部利秋(いべ・としあき)
三洋出版貿易社長 コダマプレス常務
大正15年(1926年)11月4日~平成3年(1991年)5月30日
【出生地】東京市小石川区江戸町(東京都文京区)
【学歴】三高〔昭和22年〕卒
【経歴】昭和23年より東京都大田区立大森第五中学校(25年馬込中学校に校名変更)で教鞭を執り、当時の教え子に宮田毬栄らがいた。27年有斐閣に入社、それまで法律書の出版社であった同社が社会学、哲学、経済学など他の学問分野へ進出する際にパイオニアの一人となり、同社の田中京之介と進めた宮沢俊義・国分一太郎・堀文子の共著『わたくしたちの憲法』や自身が企画した「らいぶらりい・しりいず」の佐藤功編『警察』は毎日出版文化賞を受賞した。34年田中とともに有斐閣の傍系会社としてフォノシート出版のコダマプレスを設立、初代編集長として音声と活字の結合という新しい試みに力を注いだが、失敗。42年三洋出版貿易に入社すると新設された出版部の部長として手腕を発揮。フランス料理専門書の翻訳出版社としての地位を確立し、科学技術書の輸入販売を本業としていた同社を“料理の三洋”として認知させるに至った。53年には東京・茅場町の自社ビル1階に料理書だけの書店「サンヨー・ブックショップ」を開店。56年社長に就任、平成2年退社。旧制三高同窓会のまとめ役で、日本寮歌祭の運営にも尽力した。没後、追悼文集『泛きつゝとほく 伊部利秋追悼文集』が編まれた。
【参考】『泛きつゝとほく 伊部利秋追悼文集』伊部利秋君追悼文集刊行会/1992.4、『日本出版人総鑑』76年版/文化通信社/1976.8

 


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