第27回 作家・子母沢寛の名付け親――萬里閣の小竹即一
河原努(皓星社・近代出版研究所)
■「一問一答 小竹即一論」
webコラム連載「玩物創始」の図版用にと恩師・稲岡勝から送られてきた資料の返送準備中のこと。せっかく郵送するのだから新刊チラシなどを同封しようかと考えたが、適当なものが何もない。「さてさて」と思って自分の机に目を落とすと、出版人資料のコピーが目に入った。しばらく前に「ざっさくプラス」登載用に購入した『副業雜誌』『新職業』からコピーした「一問一答 小竹即一論」というインタビュー記事だ(【図1】)。この雑誌、2誌とも国会図書館未所蔵、CiNiiを引いても所蔵館は1~2館しかない珍しい雑誌。先生も未見だろうと、これを同封することにした。
【図1】『新職業』昭和10年10月号掲載。『副業雜誌』『新職業』とも表紙はギラついてます
■ヤフオクで150円のアヤシゲ本
この小竹という人、「即一」という他では見たことがない名前ということもあって印象が強く、『日本出版大観』(出版タイムス社、昭和5年)や『全国書籍商総覧』(新聞之新聞社、昭和10年)といった戦前の出版業界紳士録で字面なじみ(?)の人物。ふと、戦前はよく見る名前だが、戦後は見かけないなあ、と「国会図書館デジタルコレクション」で引いてみたところ、750件も出てきた! てっきり戦前に活動して戦後はパッとしなかったか、鬼籍に入ったか、どちらかだと思い込んでいたので、思った以上の件数に驚いた。新しい方から遡っていくと、『政経人』という雑誌がたくさん出てきて、その平成4年4月号に「訃報 小竹社長哀悼の辞に代えて」という記事があった。小竹氏は戦後は電力業界誌のオーナーとなり、92歳の天寿を全うしていたのであった。
記事中に「あたかもドラマで演じられるかのような、激しい浮き沈み、波乱の半生は、自著『人生みな我が師』に詳しい」とある。さっそく同書の所蔵を調べてみる。「国会図書館オンライン」で所蔵なし、都立図書館の「都内図書館統合検索」や「CiNii Books」を引いても出てこない。「日本の古本屋」にも無く「そんなにレアな本なの?」とダメ元で「ヤフオク!」を検索したら、なんと150円で売りに出されていた! すぐに小林昌樹所長に御注進すると、2分後には「落札したよ」と返ってきた。届いてみると、趣深いフォントの背文字、日の出写真を配した立派な外箱、それに政経社という社名、古本屋の均一台にしかなさそうなスリーカードが揃い、自己啓発/右派思想の“教祖”本の臭いを漂わせていた(【図2】)。
【図2】奥付には「非売品」とあり。ちなみに昭和58年刊
■小竹の足跡
同書に拠って小竹の足跡を辿ってみる。佐渡島の時宗寺院の長男として生まれた即一少年は12歳で本山へ修行に出るが、僧職の偽善ぶりに辟易して本山を飛び出す。17歳で実業之世界社社長・野依秀市に気に入られて同社に入り、出版業界に足を踏み入れる。やがて同社の営業が独立する際に誘われて事業之日本社の設立に参画、新雑誌『事業之日本』を編集することに。
大正12年、関東大震災にショックを受けた社長が失踪・出家してしまったため社員に請われて後継社長に就任。当時23歳。中学中退の学歴しか持たなかったが、持ち前の直情径行ぶりで後藤新平、渋沢栄一、藤山雷太といった政財界のお歴々のもとに押しかけてその知遇を得、前途は洋々であった。昭和2年、円本ブームを目の当たりにして経済雑誌の発行のみでは飽き足らなくなっていた小竹は、中国旅行中に目にした万里の長城の雄大さに感銘を受け「真の文化とは、この長城のように不朽で、しかも、後世に伝え得るものでなくちゃならない。よし、俺は日本の出版界に、万里の長城を築こう!」と志す。これを同行者であった言語学者の後藤朝太郎に打ち明けると「それは素晴らしい。いま書いている原稿を、君にあげよう」ということになり、帰国するとすぐに萬里閣の看板を掲げ、後藤の著書『支那行脚記』を出版した。
■子母沢寛と山岡荘八
萬里閣の創業により交友関係は文壇にも広がったが、中でも特に関わりが深かったのは歴史小説作家の子母沢寛と山岡荘八であった。
昭和2年12月27日から翌3年2月4日まで、東京日日新聞は紙上で幕末維新時を体験した人々の聞き書き「戊辰物語」を連載した。これに目を付けた小竹は手を回して同書の版権を得て刊行すると、出版と同時に1万5000部を売るベストセラーとなった(同書は現在岩波文庫に入っている)。この書き手の一人に、小竹より8歳年長の東京日日新聞社会部記者・梅谷松太郎がいた。『戊辰物語』の出版記念会から一週間ほど経ったある日、小竹のもとを訪れた梅谷はこう切り出す。
「あの時の取材と並行して、私は新選組のことを書きました。小竹さんが読んでみて、イケるようなら、出して頂きたいんですが……」
彼の原稿に目を通した結果、私は迷うことなく、それの出版に踏み切った。『戊辰物語』の成功で、私は自信に溢れていた。
「ただ、社の手前、本名ではまずいですよね」
「そりゃ、そうでしょう」
「ついでに、小竹さん、いいペンネームを考えて下さい」
「あんたの方でも、考えなさいよ」
私たちは、思いつく限りの名前を並べたが、いざとなると、容易に決められなかった。ペンネームの決まらぬままに、私は彼の原稿を印刷に回した。
「何か、ないかな……」
窮余の一策で、私は、
「いっそのこと、あんたがいま、住んでいる場所から採りましょう」
と、提案した。
「それだと、大森の新井宿、字子母沢ですが……」
「子母沢、それがいいですよ」
大森や新井より子母沢の方が、語呂もよく、ペンネームにふさわしく思われた。
「じゃ、それに決めます」
ここに子母沢寛が誕生した。いわば、私は子母沢寛の名付親になったわけである。このような経緯から、子母沢寛の『新選組始末記』は昭和三年八月、萬里閣から出版された。彼にとっての処女作は、高い評価を受け、それこそ飛ぶような売行きを示した。
“世界最長の小説”の一つである『徳川家康』で知られる山岡荘八(本名・藤野庄蔵)は作家になる前は印刷所を自営していて、萬里閣にも出入りしていた。ある日「倒産したので雇ってください」とやってきたので、小竹は大笑いして採用、藤野は萬里閣の社員となった。間もなく小竹は26歳の藤野を新雑誌『大衆倶楽部』の編集長に起用、同誌は10年5月で休刊したが、その後藤野は長谷川伸に師事して小説家・山岡荘八として大成した。なお、藤野の妻は小竹の秘書をしていた女性であった。
■萬里閣のその後
小竹は『人生みな我が師』の著者略歴に「昭和2年,事業之日本社を発展的に解消して新たに「萬里閣」を設立。「支那行脚記」「新撰組始末記」「大支那大系」はじめ数千点に及ぶ出版を重ねた。戦後,20年にアランの「幸福論」を発行。28年には「政経社」を興して今日に至る」と記している。とりあえず「国会図書館オンライン」で「萬里閣」を引いてみると400件余しか出てこないので、数千点という出版点数はどうなのだろう。萬里閣は戦時の企業整備を他社に合併させられることなく乗り切り、敗戦を迎えた。
アランの『幸福論』は、『人生みな我が師』本文によると昭和21年3月に発行、400万部を売り上げたとある。「国会図書館オンライン」を引くと、国会図書館には萬里閣から刊行された石川湧訳の『幸福論』が昭和15年版と23年版の2冊収蔵されている。これは、戦前すでに出していたものを、戦後に出し直して大当たりをとったということだろうか。
この大当たりもあって有頂天になっていたところ、石炭鉱山売却の話が持ち込まれこれを買ったが、粗悪な亜炭しか出ず失敗。高利貸しとして知られていた森脇将光から無担保で1000万円の事業資金を借りるも10日で1割の高利に音を上げていたところへ出版界の不況に追い打ちをかけられ、萬里閣は25年間の歴史に幕を閉じた。昭和28年小竹は政経社を設立して再起を図り、月刊誌『政経人』を発刊。以来、平成に入って亡くなるまで現役を続けた。小竹が電力業界と接近した理由などは『人生みな我が師』からは伺えず、その辺りはまた別の資料が見つかるのを俟ちたい。
○小竹即一(こたけ・そくいち)
萬里閣創業者 政経社創業者
明治33年(1900年)8月13日~平成4年(1992年)3月6日
【出生地】新潟県佐渡郡真野村(佐渡市)
【学歴】早稲田中学中退
【経歴】佐渡島の時宗の寺・海潮庵の長男。大正2年時宗の総本山・清浄光寺(遊行寺)へ修行に出るが、肌に合わず帰郷。4年上京して早稲田中学に通うも中退、6年友人の紹介で野依秀市の実業之世界社に給仕として入社。10年同社の営業担当・藤本秀之助が独立するに際して編集の一切を任せると誘われ事業之日本社の設立に参画、経済誌『事業之日本』を編集して渋沢栄一を始め実業界に多くの知己を得る。12年藤本の失踪により社長を引き継ぎ、昭和2年同社を発展的に解消して萬里閣を設立。社名は中国旅行中に目にした万里の長城に由来し、同道していた後藤朝太郎からお祝いにもらった原稿『支那行脚記』が処女出版となった。3年旧知の東京日日新聞社記者・梅谷松太郎から見せられた原稿を『新撰組始末記』として出版、梅谷が勤め人であったことから筆名をつけることにして二人で相談したがなかなか決まらず「いっそのこと、あんたがいま、住んでいる場所から採りましょう」と提案、「それだと、大森の新井宿、字子母沢ですが……」「子母沢、それがいいですよ」ということで作家・子母沢寛が誕生した。8年社員の藤野庄蔵(山岡荘八)を創刊編集長に『大衆倶楽部』を創刊。他にも新橋の芸妓・照葉(のちの高岡智照尼)の『照葉始末書』、犬養毅『箭は弦を離れたり』、辻潤『辻潤詩集』などを出版。戦後もアラン『幸福論』が数百万部のベストセラーになったが紹介されて購入した炭鉱で失敗、森脇将光から高利の金を借りて四苦八苦する内に出版不況に追い打ちをかけられ、27年倒産。28年政経社を創業して再起を図り、月刊誌『政経人』などを発刊。総合エネルギー研究会を主宰し、電力業界に関わった。著書に自伝『人生みな我が師』の他、『日本人に直言』『燃える男の魅力』『世界一の電力会社 : 東京電力の実体』などがある。
【参考】『人生みな我が師』、『政経人』1992.4
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