第17回 二見書房と三笠書房と――堀内俊宏『ふたつの坂』から
河原努(皓星社)
■二見書房2代目社長の自伝本
この連載で取り上げるテーマは全て自分で選んできたが、先日、近代出版研究所所長の小林昌樹さんから「これを連載で取り上げてみてくれないかしら?」と一冊の本を手渡された。
・堀内俊宏『ふたつの坂』(私家版、昭和51年)。
堀内俊宏(本名・俊一)は二見書房創業者の長男で、2代目社長。『出版文化人物事典』の堀内の項目は、二見書房の事実上の社史といってよい堀内著『おかしな本の奮戦記』(二見書房、昭和63年)をもとに書いた。一方で小林さんによると『ふたつの坂』は堀内の自伝本らしい。「三笠書房の創業者一族と親戚で、従弟(のち三笠書房社長・竹内肇)からいじめられる話とかがあって面白い。二見書房と三笠書房を対比して書けない?」と言われ、ちょっと荷が重いなと思いつつ、『ふたつの坂』を預かった。
堀内俊宏は文章を書くのが好きだったようで、割と本を書いている【図1】。
『ふたつの坂』私家版/昭和51年
『おかしな本の奮戦記』二見書房/昭和62年
『可笑しな旅』二見書房/平成2年
『可笑しな宿』二見書房/平成5年
『竹の歳月』二見書房/平成11年
【図1】『ふたつの坂』はとても珍しい
『ふたつの坂』を除く4冊は漫画家・わちさんぺいによる挿絵がふんだんに盛り込まれた身辺雑記(『竹の歳月』は遺稿集)。『おかしな本の奮戦記』のあとがきに「本書は、十年前の昭和五十一年の春に『ふたつの坂』という私家版をつくり、これを補足する気で書き出しました。出来てみたら、正におかしな本屋の図書目録であり、社歴書になりました。この『ふたつの坂』という本は、父の生い立ちから、私の半生(三十五歳まで)を描いたものです」とあり、おそらく堀内の項目を執筆した当時に私は『ふたつの坂』を探したのだろうが、すっかり存在を忘れていたのだった(※1)。
※1 国会図書館・都立中央図書館未所蔵で、「日本の古本屋」にもなかったのだと思う
■戦前の二見書房
二見書房ホームページにも沿革が載っているが、『ふたつの坂』『おかしな本の奮戦記』や諸資料に即して補足する。同社は昭和16年に堀内印刷所を経営していた堀内文治郎が印刷所に併設する形で創業。社名の由来は次のとおりである。
「会社の名前の由来も、当時、父が印刷会社と出版社の両方を見るという意味から、二見と命名したのだそうだ。また、それとは別に父なりの縁起をかついだ部分もあったらしい。その頃隆盛をきわめていた出版社は、「水」にちなんだ社名が多かった。新潮社しかり、岩波書店しかりである。二見が浦も水に縁があり、それにあやかって、二見書房にしたのだとも、私に話してくれたことがある。」『おかしな本の奮戦記』p13
「出版という事業はひと山あてればビルが立つ。おれの会社の前にバス停だってできるんだ。二見書房前というやつが――」(『ふたつの坂』p48)などと野望に燃えた文治郎は「幾多の格調高い文芸書」(『日販三十年のあゆみ』p244)を出版する。具体的には式場隆三郎著『ロートレック : 生涯と芸術』(昭和17年)、ロダン著・新庄嘉章訳『フランスの聖堂』(昭和18年)、それに森銑三『学芸史上の人々』(同年)など。「国会図書館オンライン」で検索してみると19年までに約60冊を刊行しているが、同年戦時の企業整備で大東出版社に統合されたようだ(※2)。そして20年3月の空襲で神田にあった印刷工場と出版社は全て焼け落ち、沈黙を余儀なくされた。ここまでが戦前の二見書房である。
※2「戦時の企業整備により誕生した出版社一覧(附・被統合出版社名索引)」(『二級河川』16号、平成28年)によると「大東出版社/二見書房/春潮社/国民教育普及会/洛陽書院/小桜堂」が大東出版社に統合されている
■「第一次」二見書房の成功と失敗
ホームページの沿革では空襲から一足飛びに「新しい二見書房が出発したのは、昭和35年の1月でした」とある。そこで35年からの二見書房を第二次とすると、戦前からの第一次は実は戦後も続いていた。戦後、文治郎は姉の夫である東堀という編集者と二見書房の再建を企図、神田に戦火を免れた親類の家を訪ねた。
「神田小川町に、戦火を免れた父の親類が一軒だけあった。父はその親類小林氏に、二見書房の事務所として二階を借りたい由を申し入れた。
「いや、お前もやるのか!」
と、それを聞いて小林氏は驚きの声をあげ、
「実はな、三笠書房の竹内が、お前とまったく同じ用件を持って昨日頼みに来たんだよ」
と続けた。三笠書房の創立者である竹内夫人富子は父の妹にあたるから、いわば義兄弟でひとつの場所を奪い合う型になった。父はなんとしてもその場所がほしかった。もしだめなら、二見書房再建の夢は初っぱなから挫折してしまうのだ。」『ふたつの坂』p94
結局、二階の二間を二見書房と三笠書房に一部屋ずつ貸すことで決着を見たが、二見書房はモーパッサン著・新庄嘉章訳『女の一生』(昭和21年)というロングセラーを放ったものの、やがて不渡りを出し、「父の夢は事ここに至って、あえなく潰え去ったのである」(『ふたつの坂』p151)。日時は記されていないが「国会図書館オンライン」の検索結果は24年の次は35年に飛ぶので、24年のことであろう。
一方、文治郎の妹夫妻が経営する三笠書房は、本邦初訳のミッチェル著・大久保康雄訳『風と共に去りぬ』(昭和13年)や、ザルテン著・内山賢次訳『仔鹿物語』(昭和15年)、ブロンテ著・田中西二郎訳『嵐が丘』(昭和26年)などお得意の翻訳文芸が映画化もあって大ヒット、100人を超える社員を抱えるまでの出版社に成長した。文治郎は印刷業から再スタートすることを決め、成功していた三笠書房から資金面・仕事面で援助を受ける形で、同社の下請けとなったのであった。
■今度は三笠書房が……
昭和27年早稲田大学商学部を卒業した堀内俊宏は家業の堀内印刷所に入社する。三笠書房のおかげで息をつき、事業も軌道に乗り始めた堀内印刷所であったが、28年突如暗雲が立ちこめる。肝心の三笠書房が倒産してしまったのである。叔父・竹内道之助の父に必死に食い下がってようやく小さな持ち家一軒を引き渡して貰ったものの焼け石に水、それでも印刷技術の高さが認められ始めたことから、なんとか持ちこたえた。
30年父の病気のため俊宏は会社を継承、戦後の復興期も相まって印刷業では戦前以上の成功を収め、34年暮れに三笠書房が再び倒産したときには被害は最小限に留めることができたのであった。逆に三笠書房にいた田沼文夫を迎えて「親父の仇を討つ」(『おかしな本の奮戦記』p12)ため二見書房の再建に着手し、35年第二次となる二見書房をスタート。処女出版である吉岡専造の育児写真集『人間零歳』、第2弾の豊原兼一・佐野勇・山下昭夫著『アフリカ大陸を行く』が好評を博した。以後、初めて手がけた小説『女のいくさ』(昭和38年)の直木賞受賞や、束見本にヒントを得た『白い本』(昭和47年)など数々のヒットを飛ばして中堅出版社としての地位を確立、これらのことは前述した『おかしな本の奮戦記』に詳しい。
■二見書房と三笠書房の共通点――翻訳、お色気
実の兄妹(堀内文治郎・竹内富子)が創業しているからなのか、二つの会社の出版傾向はよく似ている。翻訳者であった竹内道之助が興した三笠書房のみならず、昭和16年創業の第一次二見書房も翻訳文芸に強かったことは「国会図書館オンライン」の検索結果からわかる。二見書房に関しては義弟の竹内がブレーンとして関わっているのかもしれない。戦後についても三笠書房は前述の通りで、二見書房も『ジョルジュ・バタイユ著作集』(昭和44~53年)などを出し、アルサン著・長島良三訳『エマニエル夫人』(昭和44年)も大きな話題になった。
三笠書房は43年の倒産の後に同社を立て直した押鐘冨士雄が営業部長・編集部長として台頭、やがて社長に就任して創業者の竹内一族は同社から離れた。以降同社は文芸路線から撤退し、59年創刊の「知的生き方文庫」に代表されるように自己啓発本に注力する一方で、翻訳文芸の官能路線の受け皿としてフランス書院を作り(50年創業)、同社から官能小説を出している。二見書房も62年にマドンナメイト文庫を創刊して官能小説に進出。翻訳とエロという、なんとなく似ている道筋を辿ったのはある種の必然なのだろうか(※3)。
※3 両社を対比して書くのはやはり私の手に余った訳だが、竹内一族について書かれた本を見つけられなかった。よって本稿は二見書房の視点に立ったものになった。ところで『戦後20年・日本の出版界』(日本出版販売弘報課、昭和40年)の「二見書房」の項目によると「昭和三十五年、現社長、堀江泰治によって再編成され」とあり、社長が「堀江泰治」になっている。だが、同書の事実上の続編である『日販三十年のあゆみ』(日本出版販売、昭和55年)の「二見書房」の項目では「そして戦中戦後の混乱期をへて、35年、現社長によって再建され」と書き改められている。この項目では社長は堀内俊一。ならば堀江泰治も堀内俊宏同様に堀内俊一の別名なのかと思えば、『出版社調査録』(丸之内リサーチセンター、昭和50年)の「二見書房」の項目には「昭和35年8月現取締役堀江泰治が、1,000千円の資本金をもって当社を設立」とあり、同頁の「役員」に取締役(総括)の堀江は社長の堀内俊一の義兄と補記されている(『竹の歳月』に「専務である私の義兄」(p92)とあるのも堀江氏か)。『ふたつの坂』『おかしな本の奮戦記』を読む限り、堀内俊一が2代目社長であることは疑いないように思われるが、ここら辺、どうなっているのだろう【図2】
【図2】上が『日販三十年のあゆみ』、下が『戦後20年・日本の出版界』
○堀内俊宏(ほりうち・としひろ)
本名=堀内俊一(ほりうち・しゅんいち)
二見書房社長
昭和5年(1930年)11月27日~平成10年(1998年)6月19日
【出生地】東京市牛込区(東京都新宿区)
【学歴】早稲田大学商学部〔昭和27年〕卒
【経歴】父は二見書房創業者・堀内文治郎で5人きょうだい(1男4女)の3番目の長男。東京・牛込で生まれ、神田で育つ。父が創業した堀内印刷所に入社、昭和30年社長。35年父が戦前に創業して24年頃に畳んだ出版社・二見書房を再建、吉岡専造の育児写真集『人間零歳』を処女出版して成功を収める。37年持ち込み原稿である佐藤得二の処女作『女のいくさ』が直木賞を受賞してベストセラーとなった他、印刷されていない白い紙を製本しただけの『白い本』、アルサン著・長島良三訳『エマニエル夫人』、テレビドラマ『刑事コロンボ』のノベライゼーション、ロス疑惑の三浦和義による事件解説本『不透明な時』など異色ベストセラーを連発した。著書に自伝『ふたつの坂』や、事実上の二見書房の社史といえる『おかしな本の奮戦記』などがある。二見書房の社名は、創業者が印刷会社と出版社の両方を見るという意味から命名された。
【参考】『ふたつの坂』堀内俊宏【著】1976、『おかしな本の奮戦記』堀内俊宏【著】/二見書房/1987.7、『出版トップからの伝言』小林二郎【著】/小学館/1992.4
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