第15回 ガム屋になった本屋さん――出版業を捨て他業種でさらに成功したラジオ科学社・柴田寛
河原努(皓星社)
■「○○になった××屋さん」
私の母校である公立大学は高校の校舎に毛が生えた程度の敷地と大きさで、図書館もとても小さかった(卒業後に新図書館が完成した……)。故に蔵書量も全部の書架に目を通せるほど。“点”ではなく(90年代末なのでOPACは導入されていた)“面”で蔵書を把握したかった私は、授業の合間によく図書館へ行って書架を見てまわった。そうした中で印象に残っている一冊に小泉俊一著『図書館長になったそば屋さん』(筑波書林、平成7年)がある。といっても、中を読んで感心したから印象に残ってる訳ではない(実は読んでいません)。配架されている本が不自然に膨らんでいたのを訝しんで手に取ったら、司書の女性に宛てた学生からのラブレターが挟まっていたのだ。「返却処理の時に処分せずにわざわざ挟んで棚に戻したのはどういう了見なんだ?」「学生を晒し者にしたいのか?」というモヤモヤした気持ちと「○○になった××屋さん」というフレーズとが合わさって、印象に残っているのだ。なお、ラブレターはそのままにしておいた。
今回の記事で取り上げるラジオ科学社創業者の柴田寛は出版業界からチューインガム業界に転じた人。ふと「○○になった××屋さん」式に代入すると「ガム屋になった本屋さん(出版人)」だなあと思った次第。
■柴田の略歴
さて、柴田である。戦中・戦後間もなくの出版人を調べる上で好個の資料である金沢文圃閣『出版書籍商人物事典』(全2巻、平成22年)は、昭和17年に出版同盟新聞社から出版された夏川清丸(出版ジャーナリスト・帆刈芳之助の筆名)の人物評判記『出版人の横顔』の複製(1巻)に加え、敗戦後に帆刈が創刊した出版業界紙『帆刈出版通信』から同紙掲載の人物履歴を抜き出して編集した2巻からなる。柴田は1巻と2巻両方に登場し、1巻では3頁を割いて日本放送出版協会の“再生の恩人”として紹介されている。2巻の冒頭にある経歴は以下の通り。
明治29年1月12日、岡山県小田郡笠岡町大字富岡に生る。53歳、関西大学法科卒。(株)日本放送出版協会常務を経て、現に社団法人国民ラジオ協会常務理事。国民電子管工業(株)社長、(株)ラジオ受信機保守協会専務、(株)ラジオ科学社社長。
柴田には『我夢十年』(ユース、昭和39年)と『かむかむ十八年』(ユース、昭和48年)の2冊の私家版がある【図1】。前者には「わたくしの手記」「各方面から見た柴田寛とその事業」の2章が、後者には「中小企業の繁栄は足もとから」と題した講演記録があり、ともに自伝的な内容を含む。これらをもとに柴田の半生を見てみよう。
【図1】『我夢十年』と『かむかむ十八年』
■ラジオとの出会い
大正6年新聞社の万朝報社に入社した柴田は、先輩から「新聞記者で出世するには二つの道がある。一つは新聞記者本来の道。もう一つは世の中に出る。政治を志すものは政界に知己を求め、実業界を志すものはその方面をよく研究して将来の飛躍に備える。この二つしかない」と諭されたこともあり、見聞を広めるために早々と外地の満洲日日新聞社に転じた。
7年に帰国すると「将来の交通は必ず自動車になる」と考えた柴田は東京市内で自動車屋を開業。第一次世界大戦の好況もあってトントン拍子に発展し、株にも手を出して一山当てたものの、今度は戦後の株価暴落で大損して借金を抱える羽目になった。その際、印刷所の主人から出版業を勧められ、そのためには一通りの仕事を覚えねばならぬと印刷所の校正係になる。ところが今度は関東大震災で家が焼け、やむを得ず勝手知ったる新聞業界へ戻ることに決め、報知新聞編集局長であった広田四郎の伝手で同社に入社した。
13年家庭面を担当していた柴田は、登場したばかりのラジオを記事にしようと逓信省電気通信所第四部を訪ね、部長であった電気工学者の横山英太郎に話を聞いた。柴田が「結局は(ラジオは)専門家のものでしょう」と言うと、横山は「いや、そうではないんですよ。ラジオというものはだれでもつくれる。原理も何も知らなくても、見てそのまままねをして作れば聞こえるのですよ。しかし、これを世の中に普及させるのは、あなた方ジャーナリストの務めですよ」と返した。通信技術者の北村政治郎が手ずから作ってくれた鉱石ラジオをお土産に貰って帰宅し、家でラジオから流れてくる音楽放送を聞いた柴田は「これだ!」と天啓を受けた。「政治方面に行くにも、実業界に出るにも、それぞれ先輩がいる。後からついて行っても後塵を拝するようになる。このラジオの分野には先人未踏の境地がある。研究すれば、あるいはラジオによって日本一になれるかもしれない」。
この取材から「鉱石受信機の作り方」という日刊新聞のラジオ製作記事第1号を書いて横山から大いに褒められた柴田はラジオに夢中になり、夕刊が済むと木戸御免になった電気通信所に入り浸るようになった。やがてラジオの普及にはまずラジオ技術の普及をと、昭和5年電気工学者の山本忠興を校長に迎えて日本ラジオ技術通信学校(日本ラジオ通信学校)を創設、6年4月には我が国最初のラジオ技術講義録『日本ラヂオ通信講義録』を発行した。
■ラジオ+出版=“メディアミックス”の先駆?
昭和5年1月社団法人日本放送協会は、翌6年から従来のラジオ放送(第1放送)に加えて教育目的の第2放送を開始する許可申請書を逓信大臣に提出し、10月に認可を受けた。6年4月第2放送の放送開始によるラジオテキスト需要の激増を見込み、宝文館・六合館・三省堂・冨山房・目黒書店・修文館といった当時の教育/教科書出版畑の大手版元がテキストを一元的に販売する目的で営利会社の日本放送出版協会を設立(社長は宝文館の大葉久吉)、テキストを何十万部と刷った。しかし蓋を開けてみれば全く売れず返品が山積み、新会社は1年足らずで大ピンチに陥った。原因は第2放送の出力が小さく(10キロワットとのこと)、全国に電波が届かなかったためであった。事態を重く見た日本放送協会は7年2月末限りで日本放送出版協会とのテキスト発行・販売権の継続契約を破棄することを決めたが、ここで登場したのが柴田であった。
ラジオ担当記者として日本放送協会の幹部に知人が多く、日本放送出版協会とは前述の講義録の販売を委託していた関係から、出版社側から契約延長交渉を頼まれた。日本放送協会に「お前がやるなら契約を延期してもよい」と言われた柴田は、あれよあれよという内に日本放送出版協会入りすることになり、合理的な出版計画と周到な販売計画で瞬く間に同社の建て直しに成功。同社取締役兼支配人、のち常務として重きをなした。傍ら、7年10月ラジオ科学社を創業して月刊技術誌『ラジオ技術』を創刊。引き続き『日本ラヂオ通信講義録』も出し、ラジオ+出版――今で言う“メディアミックス”――の第一人者となったが、19年戦時の企業整備でラジオ科学社と日本ラジオ通信学校は日本放送出版協会に買収されてしまう(※1)。
戦後は辞表を出して日本放送出版協会を離れラジオ科学社を再建。『著作権台帳』1版(26年)と4版(30年)に掲載されたラジオ科学社の自社紹介によると同社は戦争末期に社屋を焼失したが、『ラジオ技術』は20年10月にいち早く復刊、付帯事業として東京・新橋にサービス部を設けてラジオ組み立て部品の取り扱いも行っていた。まだ秋葉原のラジオ部品屋もない時期でサービス部は好成績をあげ、経営は余裕綽々、順風満帆であった。
※1 『50年のあゆみ』(日本放送出版協会、昭和56年)所収の年表(p28)の昭和19年の条に「当社は出版用紙確保のため「時代社」「東西社」「逓信学館」「ささき書房」ほか2社の出版実績を買収した」とある。私が『新刊弘報』昭和19年3月21日号・4月1日号の報道記事から作成した「戦時の企業整備により誕生した出版社一覧(附・被統合出版社名索引)」(『二級河川』16号、平成28年)によると日本放送出版協会は「日本放送出版協会/ラジオ科学社/時代社/逓信学館/日本ラジオ通信学校/ささき書房」と統合したことになっているので『50年のあゆみ』にあるほか2社は「ラジオ科学社」「日本ラジオ通信学校」と考えられる。柴田の関わった2団体だけが略されたのは何かはばかるところがあるのだろうか?
■マーケティングで成功?――チューインガム業界へ
そんな29年の始め、痔疾の手術で入院していた柴田のもとに紹介状を持って訪ねてきた人がいた。紹介状には「ある製菓会社(チューインガムの町工場)が行き詰まっている、五百万円ほどあれば立ち直れるのでなんとか助力してもらえないか」とあった。紹介状の主は新聞記者時代の恩人で断り切れず、柴田は小切手を切ったが、期日が来ても金が戻ってこない。そこで調べてみると経営者が競輪・競馬・麻雀にうつつを抜かして経営に身が入らず、材料代の未払い・社員給与の遅配も積み重なっていることが判明。当初、貸した金は諦め手を引こうと考えていた柴田だが、社員の陳情もあって再建に乗り出した。
出版やラジオ技術に伝手はあるが、ガムというものがどんな材料で出来ており、どう作ればよい品ができるのかはさっぱりわからない。会社を引き受けて最初にやったのは、当時としては珍しい市場調査であった。「将来のお菓子の本命はキャラメルかチューインガムのどちらか?」を調べるために山の手・下町・郊外の小学校22校を選んで二年生から六年生まで1863人にアンケートを採ると約6割(58.3%)がガムの方が好きという結果がでた。菓子問屋の調査でもキャラメル類の売れ行きが下降気味とわかったので狙いをガム一本に絞り、自信を得て本腰を入れることを決断。社名も心機一転、カメリヤ製菓に改めた。
当初は明治製菓の協力工場であったが、やがて江崎グリコとも提携して、34年別会社のユースを設立。中外製薬とは薬用ガム「グロンサン・ガム」を製造、各社にガムを提供する下請けメーカーとして実力をつけ一時はハリスガムに次ぐ業界2位の座にあり(36年当時)、柴田が亡くなった48年に刊行された『かむかむ十八年』を見ても経営は順調のようにみえる。
この間、柴田は35年にラジオ科学社を社員であった神田龍雄に譲って完全に出版業から手を引いた。神田は社名をラジオ科学出版社に改名したが、国会図書館が所蔵する同社の出版物は2点のみで最後のものは37年、雑誌『ラジオ科学』の所蔵も36年1月号までで、以降同社がどうなったのかはわからない(※2)。
※2 ここまで書いてきて、高橋雄造著『ラジオの歴史 : 工作の〈文化〉と電子工業のあゆみ』(法政大学出版局、平成23年)に「柴田寛と『ラジオ科學』」という一文があるのに気づいた。これによると『ラジオ科学』は36年1月号が最後のようだ。
■柴田の没後
ラジオ科学出版社のその後はわからないが、カメリヤ製菓はどうなったのか? こちらも調べてみたがわからず、代わりにユースの倒産記事(※3)が見つかった。
ユースが自己破産へ 負債21億、受注減響く 横芝光の菓子製造業
2013年1月8日 14:30 | 無料公開
帝国データバンク千葉支店によると、横芝光町の菓子製造業、ユース(山中正一社長)は7日までに弁護士に事後処理を一任し、自己破産申請の準備に入った。負債額は約21億7千万円。
同社は1959年設立。大手菓子メーカーなど約40社を相手に、チューインガムやキャンディーの相手先ブランドによる生産(OEM)を手掛けていた。高い技術力を背景に小ロット生産、製造時間の短縮など事業基盤を強化。2006年10月期には売上高約31億円を計上した。
しかし、近年は少子高齢化や消費者の嗜好(しこう)変化で受注が減少、自社製品の販売も収益が折り合わず撤退に追い込まれ、11年10月期には売上高約20億円まで落ち込んだ。
柴田の長男で、その没後にユース社長を継いだ柴田明彦(1940-2004)の経歴情報が『人事興信録』41版(平成13年)に掲載されているのが見つかったが、その肩書の一つに「カメリヤ製菓取締役」があった。以降はわからない。明彦は陶器蒐集で著名だったようで、佐賀県立九州陶磁文化館に「柴田夫妻コレクション」がある。
柴田はたまたま出版業に辿り着いて一山あて、新たな役割を見つけて他業種にするりと移った。良書を志し理想を持って最初から業界に足を踏み入れる人、または別の世界で成功して出版業にも進出する人、いずれにしても(倒産を除くと)最後まで出版業に携わることがほとんどの中で、一山あてた出版業を捨てて他業種でも成功を収めた柴田は、私の知る中でも、とても珍しい出版人である。(当時どこまで自覚的だったかは不明だが)早い段階でメディアミックスやマーケティングに着目できたのは、元々出版人にとどまらない、起業家としての資質が強かったのであろうか(※4)。
※3 千葉日報2013年1月8日付
※4 高橋雄造は『ラジオの歴史』の中で『ラジオ科学』の終刊に触れて「柴田は自作の時代はラジオで終り、テレビでは続かないと見ていた。(中略)その後の業界の推移を見ると、ラジオ雑誌の時代は終ったという柴田の判断は正しかった。見切りの早さは、彼が事業人であって技術者ではなかったからだろう」(p34)と記している
○柴田寛(しばた・かん)
日本放送出版協会常務、ラジオ科学社社長
明治29年(1896年)1月12日~昭和48年(1973年)11月3日
【出生地】岡山県小田郡笠岡町(笠岡市)
【学歴】関西大学法科〔大正6年〕卒
【経歴】岡山県笠岡で苗字帯刀を許され二十代続く名家に生まれたが父の代には没落していた。大正6年関西大学法科を卒業して上京、万朝報社に入社するが間もなく満洲日日新聞社に転じる。7年自動車屋を開業、株式で一山当てるも第一次大戦後の株価暴落で大損して印刷所の校正係となった。関東大震災後、報知新聞編集局長であった広田四郎の伝手で同社に入ると、普及が始まったばかりのラジオの新規性に着目。ラジオの普及にはまずラジオ技術の普及が肝心とみて、昭和5年電気工学者の山本忠興を校長に迎えて日本ラジオ技術通信学校(日本ラジオ通信学校)を創設、6年4月我が国最初のラジオ技術講義録『日本ラヂオ通信講義録』を発行した。7年10月にはラジオ科学社を創業して月刊技術誌『ラジオ技術』を創刊。また、教育放送のラジオテキストの出版・販売を目的とした日本放送出版協会が経営危機に瀕すると、同社入りしてその建て直しに成功。戦後は同社を辞してラジオ科学社を復興、サービス部を設けてラジオ組み立て部品も取り扱い好成績を挙げたが、29年製菓会社(カメリヤ製菓)の再建を引き受けて製菓業界に進出。34年江崎グリコと提携して別会社のユースを設立。35年ラジオ科学社を社員の神田龍雄に譲って出版業から身を引き、製菓業界に専念。高い技術力を武器に相手先ブランドによる生産(OEM生産)を手がけて自社をチューインガム業界2位の会社に育て上げた。著書に『我夢十年』『かむかむ十八年』がある。
【参考】『我夢十年』柴田寛〔著〕/ユース/1964.3、『かむかむ十八年』柴田寛〔著〕/ユース/1973.3、『出版書籍商人物事典』帆刈芳之助〔著〕/金沢文圃閣編集部〔編〕/金沢文圃閣/2010.8、『著作権台帳 4版』日本著作権協議会〔編〕/日本著作権協議会/1955、『日本出版クラブ三十年史』小宮山量平〔編〕/日本出版クラブ/1987.2
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