第13回 森銑三が肩入れした雑誌『伝記』の創刊版元社主は、戦後に尋ね人となっていた――南光社二代目の渡辺龍策
河原努(皓星社)
■「帆刈出版通信」をよむ
前々回、文潮社の池澤丈雄の訃報を確認するため『出版文化人物事典』執筆時以来10年ぶりに出版業界紙「帆刈出版通信」にさわった。同紙は昭和21年に練達の出版ジャーナリスト・帆刈芳之助が創刊、芳之助没後(38年12月)は子息が後を継いだが42年に休刊(廃刊)している。通しで所蔵する機関は全然無く、国立国会図書館(NDL)に一部が残されているのみ、私が確認のために手にした束は雑誌別室扱い(かつ複写不可)になっているものだ。人物情報の基本となる出版人の訃報が一番手薄なのは、業界紙が成立する前で『出版年鑑』も存在しない大正末期以前といってよいが、次の谷間が昭和20年代になる。同じく21年創刊の「文化通信」などとともに、「帆刈出版通信」はこの谷間をかろうじてフォローしている。
NDLで「帆刈出版通信」は雑誌カウンター、憲政資料室、布川文庫(人文総合情報室内)の3ケ所に分散している。憲政資料室のものはいわゆる「プランゲ文庫」で、米国メリーランド大学図書館が所蔵する昭和20~24年の日本で刊行された出版物の網羅的なコレクションを撮影したもの。その中に、23~24年、約2年分の「帆刈出版通信」が含まれている。
■温古知新 今はどうしたか
せっかくの機会なので、10年前に見ていない雑誌カウンター以外の分も確認しようと決意。NDLに通い始めて約15年、初めて憲政資料室に足を踏み入れ、「帆刈出版通信」が収録されているマイクロフィルムのリールを回してノートを取る。掲載されている人物情報(「業界人の横顔」「新評議員の横顔」)に見覚えがある。「あー、戸家誠さんが解題を書かれた金沢文圃閣『出版書籍商人物事典』(文圃文献類従19、平成22年)の第2巻の原典か、なら転記は不要だなー」と思いつつぐるぐる。「日本出版協会にいる相島敏夫(のち法政大学出版局長)、悪く言われているなあー」とぐるぐる。
23年12月に新しく連載「温古知新 今はどうしたか」が始まった。その第1回に取り上げられていたのは「元南光社渡辺龍策/元叢文閣西村豊吉」の二人。「渡辺龍策……この人って森銑三らが書いていた戦前の雑誌『伝記』の奥付で見た発行者じゃん!」。以前に私が筆名で「雑誌『伝記』と「伝記研究家一覧」」という記事(※2)を書いたときに目になじんだ名前である【図1】。
元南光社渡辺龍策
大正の初期から昭和の初期にかけて相当長い期間活躍した教育書出版書肆に南光社がある、同社の出版書は約八百種に上ったということでも相当のものであったことが分る、創立者は当時代議士の加藤知正氏であった(新潟県選出)昭和六年ごろ加藤氏は引こんで、あとを渡辺龍策氏に譲った、渡辺氏は当時名古屋高商校長文博渡辺龍聖氏の長男で東大出身の法学士であった、同社を引受けると共に従来の個人経営を株式組織に改めて社長に就任した、而して教育書に併せて一般書を出版し花やかに活躍した、氏は剣道二段で、また文筆に長じ、「少年少女満洲国の話」「少年少女満洲帝国全史」等の著書があるが、その夫人がまた文章を能くし、ときおり感想文などを発表して評判になったものである、併し残念なことには仕事が長くつゞかず二三年で廃業した、其後支那へ渡って通訳をしているとかいうことだったが、今はどうしたか
(「帆刈出版通信」昭和23年12月9日号)
【図1】「温古知新 今はどうしたか」と『中京大学教養論叢』第30号掲載の略年譜
※2 同人雑誌『二級河川15 古本仁義』(平成28年)所収。雑誌『伝記』は南光社発行で昭和9年10月号が創刊号、10年5月号を以て同社との関係を絶ち、6月号から伝記学会発行となる(19年2月号を最後に休刊)。49~50年広文庫から複製が出た。なお、敗戦直後に菁柿堂から出ていた同名誌(1947-1950)とは別物
■渡辺龍策について調べると……
ご無沙汰の名前との再会に興奮して憲政資料室での作業を切り上げ、さっそく渡辺龍策について調べてみる。人文総合情報室に開架されている『昭和人名辞典』(日本図書センター、昭和62年、『大衆人事録』第14版・帝国秘密探偵社 昭和17~18年刊の改題複製)で父の渡辺龍聖を引くと、長男の箇所に龍策(明治三六年生)とある。これで家族関係の裏が取れ、生年がわかった。明治36年=1903年なので、亡くなっているはずだが『著作権台帳』の最後の版である26版(2001年)を引くと(※3)、まだ生きている(ことになっている)。続いて著書があるかをNDLオンラインで引く。目当ては本の末尾にある著者略歴で、新しい方から遡って見ていく。これは没年を知るためだ。
思った以上に本を出している。1980年代の徳間文庫から出ている『馬賊頭目列伝』(昭和62年)、『大陸浪人』(61年)、『川島芳子その生涯』(60年)……いろいろ怪しげな書名が並ぶなあ。「中国で通訳」という情報もあったが、そもそも珍しい名前なので、同名異人はいないだろうと、デジタル化されている本を片端からクリックしていく。明治36年生の東京帝国大学卒といった記述を見つけたのでビンゴ、出版人渡辺と、著者渡辺は同一人物と認定するが、徳間への文庫化にあたって新しく文章を書き下ろしているので、この時点では確かに生きていたようだ。違う出版社の本も開ける(同じ出版社の本は略歴データを使い回すことが多いので見る意味が少ない)。通算25年間中国にいて政治文化工作に従事、昭和23年または24年に帰国、中京大学で教鞭を執ったことがわかったが、土曜日の午後4時になったのでここで時間切れ(※4)。
帰宅後に最近絶版本の「個人送信」を始めた「国立国会図書館デジタルコレクション」で渡辺龍策を検索した。すると、中京大学社会科学研究所が出している『社会科学研究』9巻1号(昭和63年)掲載の「中国あれこれ」という渡辺の文章が読めた。ありがたし。これは講演を紙に起こした自伝的な内容で、南光社について触れられているか期待したが残念、それはなかった。しかし、文末に「昭和六三年七月一日 逝去」との記述を発見。これで没年がようやくわかった(※5)。
※3 書籍での最終版(平成13年刊)。翌14年に「著作権台帳CD-ROM 2002年版」が出ている
※4 土曜日のNDLは午後5時閉館で、4時に出納及び複写受付終了
※5 近代出版研究所員の森洋介さんに草稿を読んで貰うと「歿後再刊『秦の始皇帝99の謎』(PHP文庫、一九九四年)の著者標目を見ると歿年が出てゐました。『国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス(Web NDL Authorities)』のこともたまには想ひ出してあげてください。小林さんのレファレンス・チップスでも取り上げてゐたツールだから、該當回への參照をしておくと吉」「最初に歿後再刊本を国会図書館サーチで引けば、著者標目に歿年は明らかであり、そんなに調べるまでもなかったのでは」「そこから『国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス(Web NDL Authorities)』に飛べば、「出典」に「社会科学研究 9(1)」も擧がってゐましたし」と指摘されてしまった。私は『国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス(Web NDL Authorities)』に今ひとつな印象を持っているのでこのときは引かなかったが、そうするとこれだよ……。また、著者略歴も最新刊から調べていくのがセオリーだが、NDLで時間が押していたために手間を惜しんで『秦の始皇帝99の謎』を出納しなかったら、こういうご指摘を頂くのである。皆さんは人物調査の際はまず『国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス(Web NDL Authorities)』を引いてみましょう。あ、2冊組みの『「現代物故者事典」総索引』(日外アソシエーツ、平成24年)を引くという手もありますね
■渡辺の社長就任時期と南光社の行方
後日、再びNDLで調査を進めると、退職記念号である『中京大学教養論叢』第30号(中京大学学術研究会、昭和50年)に略年譜(と著作目録)を見つけた。これによると東京生まれで(『社会科学研究』では愛知県名古屋市昭和区御器所町生まれ)、昭和7年に「(株)教育図書出版南支社経営」これは「南光社」の誤記であろうから、これで南光社の渡辺龍策と中国研究の渡辺龍策は改めて同一人物と確定した。
ところで「今はどうしたか」によると「昭和六年ごろ加藤氏は引こんで、あとを渡辺龍策氏に譲った」とある。6年と7年、どちらが正しいのであろうか? こんな時には「NDLオンライン」でその社が版元になっている本を検索し、そこからデジタルコレクションの画面を表示させ、奥付の「発行者」名前を見ていく。昭和6年12月刊行の『最新大日本地理精義 上巻』(小林房太郎著)、7年12月刊行の『生活・労作・自律・形象実践国語教育学』(西原慶一著)、8年2月刊行の『新小学国語読本指導精説 巻1』(浅黄俊次郎著)の奥付では発行者が加藤知正になっているが、8年3月刊行の『師範出身の異彩ある人物』(横山健堂著)の奥付では発行者が渡辺龍策になっている。このタイミングで社長に就任したということかしら。
「南光社」で検索される本は12年でいったん途切れる。17年に復活し翌年まで6冊の刊行物があるが、最後の18年刊の岡村津三郎著『ふた夜 : 短篇集』を見ると「発行者」は川端徳三という別人。6冊全てがそうである。12年までに出た本をサンプリング調査するといずれも発行者は渡辺だった。どうも渡辺は昭和12年にいったん南光社を閉めているように思われる。
『出版年鑑』昭和12年版の「版元一覧」には南光社の名前があったが、13年版には落ちていた。渡辺の年譜・略歴には「11年 私立浅草女子商業学校講師」(『中京大学教養論叢』)、「一二年 軍嘱託(高等官)華北軍司令部」(『社会科学研究』)とあることから推測すると「渡辺は8年に南光社を継いだが、12年頃に日本を離れ、出版人時代は4~5年程度であった」と言えるだろう。17~18年には川端徳三の南光社が存在したが(※6)、これは渡辺の南光社とは別会社ではないだろうか。
敗戦直後、NHKのラジオ放送で「尋ね人」という番組が始まった。「尋ね人の時間」の通称で知られるこの番組は、戦争で離ればなれになった肉親や知人の消息を知りたい・消息を伝えたいという、この時代ならではの番組だったが、「帆刈出版通信」の「今はどうしたか」欄はこの番組から着想を得たのかもしれない。
※6 『日本紙業大観 : 全国紙業関係各種団体総覧,全国紙関係主要業者総覧』(紙業日日新聞社、昭和16年)によると川端徳三は「神保町1-56」にあった明光社印刷所代表者で、17〜18年の南光社の住所も同じく「神保町1-56」になっている。印刷会社「明光社」が「南光社」の名義で出版業を行ったと考えられる
○渡辺龍策(わたなべ・りゅうさく)
南光社社長 中京大学教授
明治36年(1903年)6月3日~昭和63年(1988年)7月1日
【出生地】東京都
【学歴】小樽中学〔大正10年〕卒→八高文甲科〔大正14年〕卒→東京帝国大学法学部法律学科〔昭和3年〕卒
【経歴】東京音楽学校校長や、小樽高等商業学校と名古屋高等商業学校の初代校長を歴任した渡辺龍聖の長男として東京で生まれる(『社会科学研究』では愛知県名古屋市昭和区御器所町生)。父が直隷総督であった袁世凱の学事顧問となったため2歳から7歳までを清朝末期の中国で過ごす。この間、顧問団にいた吉野作造にかわいがられた他、袁が手をぐっと上げたときに肩を脱臼、後々まで冬に古傷がうずくたびに袁を思い出したという。小学校から日本で教育を受け、昭和3年東京帝国大学法学部を卒業。同年三井物産大連支店勤務から、8年頃に叔父の加藤知正が起こした教育書出版書肆の南光社を引き受け、従来の個人経営を株式組織に改めて社長に就任。教育書に併せて一般書を出したが、数年で廃業。12年軍嘱託(高等官)華北軍司令部となり、20年華北総合調査研究所理事の時に敗戦を迎える。戦後は国防部研究専員、北京市企画委員、亜東協会特約研究員などを務め、23年末帰国。通算25年にわたって中国に在住し、政治文化工作に従事した。32年中京大学専任講師、35年助教授、38年教授、45年教養部長、50年定年退職。法学及び中国政治史を専攻。学術書の他、番町書房や秀英書房から『大陸浪人』『川島芳子』『馬賊頭目列伝』、木々天六の筆名で『スパイと貞操』(朋文社)といった本を著している。
【参考】『社会科学研究』9巻1号/中京大学社会科学研究所/1988.7、『中京大学教養論叢』第30号/中京大学学術研究会/1975.6、『帆刈出版通信』1948.12.9
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