第54回 手元の饅頭本と仰ぎ見る先輩とのつながり――名著出版の中村安孝
河原努(皓星社・近代出版研究所)
■「じんぶつプラス」の登載冊数、ようやく1000冊を超えました
今年(2026年)4月に正式リリースした、弊社の人物情報データベース「じんぶつプラス」。これを端的にいえば、多数の人物情報が掲載された書籍(人名事典、紳士録、人物列伝、名簿など。総称して「人物叢伝」という)の目次を集積して一括横断検索できるデータベースだ。著作権をクリアしている書籍については本文を見られるようにして、本文の全文検索もできる。
1万人を収録した人名事典も、5人しかいない人物列伝でも等しく1冊なのだが、今週、構築を始めて約2年でようやく登載冊数が1000冊に到達した(目次の延べ登載人数は約78万人)。
これらの中には「自治体史(誌)の人物編」が多数含まれている。自治体史(誌)というのは『石川県史』『金沢市史』『津幡町史』『白峰村誌』の類で、これらの中にはその郷土ゆかりの人物を顕彰した「人物編」を含むものも、それなりに存在する。この「人物編」、これまで存在を意識する人はいただろうが、どの自治体史(誌)に誰が掲載されているかを調べる手段はほとんどなく、ブラックボックスになっていた。「じんぶつプラス」はこの整理に着手しており、あと数年経てばかなりのところがデータベースに登載され、その全体像が明らかになる(はずである)。
明治大学図書館は自治体史(誌)を意識して収集しており、この分野では指折りの蔵書を持つ(注1)。弊社は同大の協力を得て、それらを1冊1冊確認して「人物編」を探し、スキャンしている。その確認作業を誰がしているかというと、私だ。(忙しいときは無理だが)毎週図書館に伺って、2時間ほど、棚から1冊1冊抜き出して確認しているのである。数をこなすということは得がたい経験で、いくつもの県をみているうちに、戦前の「郡誌」の復刻版の大半がどれもクリーム色の布装に箔押しの共通した装丁をしていることに気がついた【図1】。その版元が名著出版で、たまたま創業者の饅頭本『無常迅速 中村安孝遺稿集』『追悼 中村安孝』の2冊が手元にあることから、今回は名著出版創業者・中村安孝を取り上げてみよう【図2】。
【図1】名著出版の復刻郡誌の例(「日本の古本屋」ホームページより)

【図2】『無常迅速 中村安孝遺稿集』『追悼 中村安孝』ともA5判並製。前者は168頁、後者は児玉幸多・桑沢章・久保田正文の弔辞を収めた12頁の小冊子。背景は長男の手による追悼文(後述「出版人生」)

注1 『地方史文献年鑑』編集者で元明治大学図書館司書の飯澤文夫さんの直話。新刊書は毎日のように全国の教育委員会などに電話で問い合わせ、古書は一誠堂書店に見計らいで持ってきて貰い、所蔵していない本を購入していた、とのこと。
■大学卒業まで
中村安孝は本名を瓊杵江といい、長野県上伊那郡箕輪町に農家の二男として生まれた。15歳で父を亡くす。上伊那農業高校に学び、当時の恩師の一人に文芸評論家の久保田正文がいた。久保田は弔辞に
伊那町の学校のとき、君は、お母さんが仕事に懸命にはげんでいる姿を作文に書いて、僕は感動し、批評を書いた。しかし、その作文の文末に僕の書いた僕の文章がもとで、昭和十七年の僕の、あのいやな事件のとき、君は未成年であったにもかかわらず、検察官に呼び出されて、あの学校の寒い室で、校長立ち會いのもとで訊問された。そのことを僕は、ずっと今も、君に申しわけないことと思っている。
と思い出を綴っている。特別高等(特高)警察がらみの事件に巻き込まれたのだろうか。
昭和18年弁護士を志して中央大学に進み、20年8月5日陸軍に歩兵として入隊、10日後に敗戦を迎える。22年中央大学専門部法科を卒業。同じ年「商学部に再入学したが、病気のため中退」と『無常迅速 中村安孝遺稿集』の略年譜にあり、自身の随想によると結核のようで(注2)、肋骨を7本も切り取る胸部成形手術を受けた、とある。吉村昭の回想『私の文学漂流』などに肋骨を切除する胸郭成形手術の話が出てくるが、同じ手術なのだろう。
注2 「生き続ける、ということ」『信州の東京』788号、1979年1月初出。『無常迅速 中村安孝遺稿集』に収録。
■イモの担ぎ屋から出版業界へ
中村安孝の長男・直行には父の遺稿集の序文である「父・中村安孝を偲ぶ」と、『出版クラブだより』に掲載された「『ああ、もうやめた!!』息子が語る、親父中村安孝の出版人生」(以下「出版人生」)という2つの追悼文がある。「出版人生」については【図2】を参照。
私〔筆者注・中村直行〕の父方の祖父が他界したのは、父が十五歳の時だった。
父は、中大の法科に学び、弁護士を志望した。苦学生だった父に、気の利いたアルバイトなどなかった。藷の担ぎ屋の類のバイトで学費と生活費を工面する毎日であった。
この藷の担ぎ屋というバイトが、四十年を超える出版人生になるキッカケの発火点に連がろうとは、当の本人すら、予想しなかったことだろうと思う。
先輩からの助言である。「学生らしい、もう少しましなアルバイトをやったらどうか」
西東社の若松寿男氏に出会い、ご援助戴いて、『誰にもわかる民法の話』を上梓した。
下宿先を発行所にした、素人商法だった。売れゆきはよかったと聞く。
その後は、西東社にて、『道路交通法令集』を企画し、ベストセラーに育てた。
「父・中村安孝を偲ぶ」
敗戦という蹉跌の代償として、平和と民主主義が根を下ろし始めた昭和二十二年、処女作を世に出してから、父の出版界との切ってもキレナイ縁が始まった。
素人商法ながら、上梓した自著は売行きを伸ばし、出版の魅力と出会うことになる。
片肺を剔出するという大病を患い、体力的な限界も考慮し、出版界に入ることにした。昭和二十三年、西東社に入社し、『道路交通法令集』を企画したが、これもベストセラーになった。父の企画力に惚れ込んだ、西東社の若松社長の勘が的中した訳である
「『ああ、もうやめた!!』息子が語る、親父中村安孝の出版人生」より
略年譜の昭和22年の項目には「自著『誰にでもわかる民法の話』を刊行」とあったので、「国会図書館サーチ」を書名や著者名で引いてみるが、出て来ない。「国会図書館デジタルコレクション」を「中村安孝」で引くと、吉永嘉吉『誰れにもわかる改正民法の話 再版』(清和書院、1948)という本が出てきた。奥付の発行者に「中村安孝」の名前があり、初版は「昭和23年2月10日」になっていた(再版「昭和23年10月15日」)。吉永嘉吉(1894-1982)は九州の弁護士で、中村とのつながりは現時点では不明である。健康に心配を抱えていたこと、清和書院名義で発行したこの本の売れ行きが上々だったことが、出版業界に入るきっかけとなったようだ。なお『道路交通法令集』も同名の本は無く(注3)、『改正道路交通取締法 昭和24年11月施行』(西東社、1949)という本があるので、この本のことだろう。
注3 西東社から昭和36年に『道路交通法令集』が出ているので、改訂を重ねて、こちらのタイトルに改題したものか。
■西東社・福村出版・人物往来社、そして名著出版創立へ
中村の略年譜には「昭和23年 西東社入社」「昭和28年 福村出版入社」「昭和29年 人物往来社入社」とある。「父・中村安孝を偲ぶ」には「新聞公募で、福村書店へ入社することになる。入社後、先任者山本七平氏の辞めた後釜だと知る」とある。山本七平(1921-1991)は『日本人とユダヤ人』(注4)『「空気」の研究』『洪思翊中将の処刑』などで知られる有名な評論家で、キリスト教書を出す山本書店を経営した。
その後、人物往来社へ入社。「編集者として、最も充実感を味わえた時代」である。
本人自ら記した「人物往来社時代」という資料にコメントが付されている。
『日本の名城』・『歴史の旅』がベストセラーになり、編集者としての自信を固めたようである。『物語藩史』・『日本の合戦』・『東洋の歴史』等々次々に企画は成功を納めた。
「出版人生」
人物往来社にも、経営が非常に厳しい時期があった。その時、社員数は百四十人をはるかに超えていた。
役員だった父は、責任をとって辞め、歴史図書社で一年間、お手伝いをすることになる。
そして、名著出版創立となる。
「父・中村安孝を偲ぶ」
業界興信録ともいうべき『出版社調査録 昭和40年版』(丸之内興信所、1965)によれば人物往来社の「従業員」は「67人(内女子20人)」とあり、役員に中村の名前はない。同書の次版である『出版社調査録 昭和44年版』(丸之内リサーチセンター、1969年)では人物往来社は新人物往来社になっており、「沿革」には「昭和26年6月設立せし(株)人物往来社の経営蹉跌により、昭和43年9月あらたに当社が設立」となっている。「従業員」は「49人(内女子9人)」とある【図4】。
中村の略年譜には
昭和43年 人物往来社の倒産により同社を退社/歴史図書社を泰山氏らと創立。昭和44年、同社を退社。
昭和44年 10月、名著出版を創立。事務所を、東京都文京区西片町の中村孝也博士(東京大学名誉教授)の邸内におく。
昭和45年 1月15日、株式会社名著出版(代表取締役・中村安孝)となる。資本金百万円。創立メンバーは中村の他、中村榮・栗田治美・石塚良造。
とあり、45歳にして独立した。
注4 『日本人とユダヤ人』はイザヤ・ベンダサンの著書で、山本は訳者だが、ベンダサンは山本の筆名とされ、実際は山本の著書とされている。
【図4】「出版社調査録」掲載の人物往来社と新人物往来社の会社情報


■不思議な円環
以後、20年にわたって中村は名著出版を経営する。私が明治大学図書館で出会った「郡誌」の復刻は初期の仕事のようで、略年譜の「昭和46年」の項目に「この頃より、戦前に出版された郡誌・市町村誌の覆刻刊行を全国的規模で展開する」、「昭和47年」の項目には「この年と翌48年、覆刻刊行点数のピークをむかえる(47年225冊、48年267冊)」とある(注5)。
その後は歴史雑誌『歴史手帖』を月刊で刊行する傍ら、歴史・宗教・民俗学に関係する大部の叢書を中心に新刊を続々と刊行。社内に地方史研究協議会の事務所を置くなど、地方史研究の振興にも貢献した。昭和62年には郷里の長野県箕輪町の図書館に名著出版のほとんどの刊行物約1600点を寄贈して「中村安孝文庫」が開設されたが、それから3年後の平成2年9月、脳出血のために急逝した。享年64。大正15年生まれの中村の人生は昭和の年号と実年齢が一致しており、昭和の終わりとともに亡くなったようにもみえる。なお存命なら今年で100歳を迎えている。
先日、古巣・日外アソシエーツのウェブサイトに飯澤文夫さんのインタビューがあることを教えられた。飯澤さんは書誌作成者として仰ぎ見る先輩で、編集者としてもその謦咳に接する機会があるのだが、その飯澤さんが名著出版とゆかりが深く、その縁が『地方史文献年鑑』の編纂に繋がっていることをインタビューで初めて知った。不思議な円環を感じつつ、今回の稿を終えよう。
注5 自治体史(誌)の複製についていえば、1980年代に入って国書刊行会や臨川書店も手がけている印象がある。特に国書刊行会については創業時期が近いことと(昭和46年創業)、復刻出版で基盤を築いたという意味では出版史上の共通点があるように思える。
【図5】名著出版の自社紹介(『日販三十年のあゆみ』1980より)

■といいつつ、おまけ。
「出版社調査録」の最終版となった『出版社調査録 : 380社の実態調査 1978年版』(丸之内リサーチセンター、1977)に「名著出版」が掲載されている(これが唯一)【図6】。「経営評」には「創業は昭和45年であり、比較的業歴は新しい。地方史研究家、郷土史愛好者を中心に安定した読者層を有し、業績は着実に伸びている」とある。ちなみに「従業員」は「13人(内女子3人)」。
【図6】「出版社調査録」掲載の名著出版の会社情報

○中村安孝(なかむら・やすたか)
本名=中村瓊杵江(なかむら・にぎえ)
名著出版創業者
大正15年(1926年)1月15日~平成2年(1990年)9月29日
【出生】長野県上伊那郡箕輪町
【学歴】上伊那農業高校〔昭和17年〕卒、中央大学専門部法科〔昭和22年〕卒
【経歴】農家の二男。15歳で父を亡くす。昭和18年弁護士を志して中央大学に進み、20年8月5日陸軍に歩兵として入隊、10日後に敗戦を迎える。22年中央大学専門部法科を卒業。この頃、結核を病み、肋骨を7本も切り取る胸部成形手術を受ける。また、西東社の若松寿男と知り合い、その援助を受けて、清和書院の名義で吉永嘉吉『誰れにもわかる改正民法の話』を出版。同書がよく売れたことと結核予後の健康問題から出版の道を選び、23年西東社に入社。28年福村出版に転じたが、あとで山本七平の後釜だと判明。29年人物往来社に出版部門の責任者として迎えられ、最初に手がけた大類伸監修『日本の名城』は日本の城郭ブームの火付け役となり、2冊目の亀井勝一郎監修『歴史の旅』も歴史と旅を結びつけた出版物の端緒として、それぞれベストセラーとなる。35年『特集・人物往来』を『歴史読本』と改題。43年同社の倒産により同社専務であった泰山哲之らと歴史図書社を創立したが、44年名著出版を創立、最初の事務所は日本史学者の中村孝也の邸内に置いた。45年株式会社名著出版を設立、以後歴史・宗教・民俗学書を中心に出版活動を行い、『山岳宗教史研究叢書』(全18巻)、『系図纂要』(全18巻)、『新修平田篤胤全集』(全21巻)、『漢方医学書集成』(全90巻)などを刊行した。平成2年脳出血のため急逝。遺稿集『無常迅速 中村安孝遺稿集』がある。
【参考】『無常迅速 中村安孝遺稿集』1992、中村直行「『ああ、もうやめた!!』息子が語る、親父中村安孝の出版人生」(『出版クラブだより』1992.10.1)
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