帝国図書館の絵はがき、そして初代「書籍館」の古写真!――この目で見る図書館稼働史
小林昌樹(『近代出版研究』編集長)
■動く図書館の研究――戦前の写真絵はがきを使えば!
前からヤフオクで見かけてはいたのだが、個別決済が面倒そうで手を出していなかった戦前の写真絵はがき。それを自分の趣味――図書館史――にそって集め始めたのが2008年6月24日のことだった。
【参考図1】『うえの』1986年10月号 表紙が改修前の帝国図書館庁舎=現「レンガ棟」

建物の写真というものは多く、継承する団体や建物に保存される傾向にある。戦前、日本の国立図書館だった「帝国図書館」についても、その後継組織は戦後発足した国立国会図書館支部上野図書館【参考図1】なのでそこに写真類も保存され、現在では建物の後継組織「国際子ども図書館」のHPで生写真をどこからか探し出して掲出している(後世のためにどこの所蔵か書いておいてほしい)。
それはそれで良いのだが、建物写真というものは、竣工(完成)直後の運用開始前、キレイな状態のものが多い。私が戦前写真絵はがきを集め始めた理由は、それらよりも「運用中」「稼働中」の館内写真を見たかったからである。いわば「動く図書館の研究」だ(そういうタイトルの本が戦前あった)。
帝国図書館は例外的に写真が多く保存されている戦前図書館ではあるが(ひと昔前は職員でも見られなかった)、逆に当時一般に市販され、頒布されたはずの絵はがきが図書館に残されないことが多い。戦前から昭和30年ごろまで絵はがきは図書館資料としても収集されていたが、その後、2000年代にデジタル化予算がつくまで全くかえりみられず埋もれていた。そこで、戦前の帝国図書館絵はがきをいくつかここで紹介したい。
■現「レンガ棟」は国立図書館庁舎としては5代目
制度上、「帝国図書館」という組織は1897(明治30)年にできたのだが、組織の前身ということだと1872(明治5)年の「書籍館」開設から始まることになっている。一方で建物に関して言うと、ここで紹介する戦前の帝国図書館庁舎(現「レンガ棟」)と言われるものは5代目になる。ややこしいので、各建物と、そこに入った図書館組織名を整理して掲げておく。
(各庁舎と入居組織名)
①湯島聖堂・講堂:書籍館(1872-)(蔵書は1874年に「浅草文庫」へ移転)
②湯島聖堂・大成殿:東京書籍館(1875-)、東京府書籍館(1877-)、東京図書館(1880-)
③教育博物館(上野):東京図書館(1885-、一時的に寄寓)
④東京図書館書庫・閲覧所(上野):東京図書館(1886-)、帝国図書館(1897-)
⑤帝国図書館(上野、現・国際子ども図書館「レンガ棟」):帝国図書館(1906-)、国立図書館(1947-)、支部上野図書館(1949-)、支部国際子ども図書館(2000-)
「図書館」の原語、ライブラリーは本来、本置場(まさにビブリオテーク)の意味がメインで、建物があるかないかは付随的なのだが、和訳が「書籍館」「図書館」と「館」という独立建築が含まれた表現で訳されてしまい、また、国立図書館の組織機構名も大抵「館」がつくので(「浅草文庫」は例外)庁舎と組織名の混同が起きてややこしい。
■現・レンガ棟の珍しい一枚
【図1】は珍しい一枚。1906(明治39)年に完成した現在の「レンガ棟」、上記⑤代目の建物写真は戦前の帝国図書館の象徴として必ず使われるのだが、この写真は他に見たことがない。手前に木が茂っていて、当時の上野が東京市郊外っぽいことがなんとなくわかる。「本郷もかねやすまでが江戸の内」ってやつである。これに対し①、②代目庁舎があった湯島は江戸時代から「市中」であった。来る大正大震災で明治期図書が保存されたのは上野に移転したからと言ってよい。実際、市中にあった東京三大館のひとつ、大橋図書館は震災で焼失したし、東京帝大の図書館も焼失。震災で焼けなかった日比谷図書館も昭和20年5月の空襲で焼失。
【図1】「帝国図書館;The Imperial Library, Uyeno, Tokyo」

現・レンガ棟を東側から写した写真で、北端の書庫が見えるように撮られている。後述するように当初、この建物は計画の1/4だけしか建てられず、予定ではこの写真で左側、南に正面が来ることになっていたのだが【参考図2】、この東側からの写真が延々と仮設の正面として撮られ続けることになる。
【参考図2】1906年ごろの平面図、黒枠の部分しか建っていない

絵はがきで重要なキャプションは【図1】で「帝國圖書舘」と旧漢字の右横書きと、英訳が併記されている。上野が「Uyeno」となっているのが楽しい。江戸を「Yedo」と表記したようなものか。古い絵はがきはキャプションに英訳がついていることが多く、固有名の読みなどで役にたつ。
発行年代は、いつも使う簡易判定表【表1】と絵はがき表面【図1a】を対照するとパターンbなので明治40年代。それも他の写真と合わせると樹木の繁り方から撮影年代は明治39年開館直後のように思われる。
【図1】の上端にミシン線の残りがあるのが見えるだろうか? これは冊子状にして売られた絵はがき集特有のもので、おそらく東京名所絵はがきの一枚として綴り込まれたものであろう。
【図1a】【図1】の表面

【表1】罫線パターン等による年代推定表(あくまで目安)

■満員の帝国図書館
【図2】はよく見られるパターンのレンガ棟写真。表面罫線パターンがaなので、レンガ棟が立った明治39年か40年の発行だと分かる。この絵はがきが使われたのは消印によれば明治42年なので、明治40年以降の絵はがき罫線にならって使用者が勝手に罫線を1/3のところに引いて通信文を表面に書いている【図2a】のが楽しい。
【図2】「帝国図書館」1906年ごろ

【図2a】【図2】の表面、罫線パターンaだが「駒込/42.5.16/后11-12」の消印

【図3】は私が最も好きな図書館絵はがきの一枚。帝国図書館の「尋常閲覧室」である。三階にある巨大な閲覧室だ。女性が見えないのは他に婦人閲覧室が設定されていたからだろう。
この絵はがき、同じ写真でもう一枚、青字のキャプションのものを入手済みだった。ただ写真の年代がいまひとつ不明で大正期かとも思っていたが、【図2】の絵はがきを入手し、キャプションの活字や色が同じなのでセット組みで出版された絵はがきと判断するようになった。罫線パターンaでもあるので、1906年ごろの館内と考えていいだろう。消印でより年代特定ができる事例である。
【図3】「帝国図書館尋常閲覧室」1906年ごろ レンガ棟三階

拡大すると【図3a】、奥の中央に「出納台」があり、利用者がカウンターの向こうにいる出納手とやりとりしているのがわかる。先任の出納手の左に二人、明らかに少年とわかる人物がいるが、これはまさに少年労働者で、小卒の男子を出納手として使用していた。出納手は地位も待遇も低く、こういった稼働中の図書館でしか写真に残らないので貴重な一場面だ。自分も若い頃、大学図書館や国会図書館で出納手として苦労したので気分は良く分かるつもり。国会図書館へ入省(入館)する前、戦前出納手の生き残りで『発掘・昭和史のはざまで』(新日本出版社、1991)といった著書もある山崎元に出納手時代の苦労を聞いたことは忘れられない。
【図3a】【図3】の中央拡大

カウンターの両脇には金網つきの書架が壁まで延々と設置され、職員スペースと閲覧スペースを分けている。拡大すると左側の書架には「新刊書」とふだが掛けられているのがわかるので、当時の帝国図書館では新着本を利用者に見えるように配架していることがわかる。これは戦前から昭和30年代まで一般的だった「半開架」という陳列法で、利用者は金網の隙間から指をつっこんで押し出すことで欲しい本を指定する。
今気づいたが、古参出納手の手前にあるのは黒板だろうか。利用者への連絡事項を書いたものだろうか? 自分など、実際に国会図書館で本を受け渡していたので、拡大して詮索すると楽しい。
■明治時代の「情報検索」――カード目録を繰る姿
【図4】も同じセットと思われるもの。写真複数枚を絵はがき1枚に入れることはわりとよくあるもので、余白に色刷りの図案をあしらい、エンボス加工を施したものが発行された。この絵はがきはキャプションのみでアッサリとしている。発行主体が不明だが、帝国図書館に出入りしていた業者が発行したものだろうか。
【図4】「帝国図書館貴賓室」「同目録室ノ一部」

「同目録室ノ一部」を拡大すると【図4a】、利用者が二階の目録室でカードや冊子目録を引いている姿が写っている。左端のネクタイをしている人物はカードケース(引き出し)を文字通り引き出して、天板の上に乗せているように見えるので、ボックスの実際の運用(箱から出せること、天板に乗せること)が分かる。明治末年、日本人がのちの「情報検索」をしている姿である。PCを検索する前の世界、そう1990年代までは、カードを繰ることが情報検索であった。
【図4a】【図4】の「同目録室ノ一部」拡大

日本で二番目の図書館学本、『図書館管理法』明治33年版に、まさにこのカードボックスが「目録抽斗」として図示されているが【参考図3a】、その運用が分かるのが写真絵はがきのミソである。画面真ん中のいかにも回りそうな掲示板に何が掲示されていたのかは不明。新着図書でもリストアップしていたのだろうか?
カードの大きさは国際標準サイズ【参考図3b】の縦を半分にしたもの(昭和後期、現場で「半裁判」と呼んだ)だろう。ちなみに【参考図3b】は昭和期の件名カード。国際標準サイズ(75×125mm)だが長年の利用でカードの頭がすり減っている。すり減りを予防するため茶色のニスを頭に塗って固くするのだが手前のカードの頭に茶色で少しそれが残っているのがわかる。
【参考図3a】「目録抽斗」『図書館管理法』明治33年版より

【参考図3b】帝国図書館カード目録(2014年、廃棄直前に撮影)

【図5】にも同様に写真にあまり写されない場面が写っている。「帝国図書館書庫ノ一部」がそれ。まぁ「中庭」も珍しいといえば珍しい。本来この中庭(レンガ棟の西【参考図2】の白抜き部分)のほうへ四倍、建物が増築されるはずだったわけだが、新設の国立国会図書館に抵抗後、統合されてしまう40数年後まで結局、実現しなかった。
【図5】「帝国図書館書庫ノ一部」「同中庭」

■『女子文壇』を持っていっちゃったの誰?
【図5b】は「書庫ノ一部」の拡大である。本来暗い書庫内の写真というのが珍しいし、それだけでなく運用中のものは超珍しいので細かく見てみる。
【図5b】「帝国図書館書庫ノ一部」の拡大

まず書架。棚板などの薄さから、これは建築構造に組み込まれた鋼鉄製に見える。右の一列は本が縦に置かれ白っぽいが、これは和本(あるいは漢籍)をタテ置きしているせいだろう(和本には「背」がない)。同人誌『あったかもしれない大東亜図書館学』ぐらいでしか指摘されないが、戦前図書館界で和本はタテ置きするのが正しいことだったのだ。各段とも本が9割方詰まっているのは「固定排架(配架)」(判型ごとに到着順に左から詰める)だから。現代図書館のように主題別排架だと途中に新着図書がどんどん割り込むので、8割程度で「満架」ということになる。
天井からは電球が吊り下がっている。防火対策としてランプでなく全面電化されたというわけだろう。
手前のテーブルは閲覧席でも使っていたものを書庫内の「ステーション」(これは戦後の用語、出納手の待機所、ここで本を粗わけする)に置いたものだろう。2台見える。私が分類件名係にいた1995年ごろ、このテーブルを係のお茶台に転用していたのでなつかしい。昭和36年の蔵書移転と一緒に上野から永田町へ運ばれたのだろう(コート、帽子かけなど旧帝国図書館の木製備品が1990年代まで現用で使われていた)。右の本の山が崩れているが最上段に「女子文○」という冊子が載っていたことが分かる。おそらくだが日本最初の女性投稿雑誌『女子文壇』と思われるのだが、なぜか、1905、6年の『女子文壇』が現在の国会図書館に残されていないので確認できない。誰かが持っていってしまったのだろうか。
本に請求票が挟まっていないので、この山は利用者から返納され、納架を待つものと考えられる。
■昭和5年で成長が止まっちゃった「レンガ棟」
【図6】から【図8】は昭和5年、南側の部分が増築された際に記念で配布されたもの。タトウ(包み紙)【図9】に入れられて、平面図【図10】がおまけでついている。帝国図書館の絵はがきとしてはわりあい出回っているものである。竣工時の公式絵はがきなのできれいで面白みが少ないのはやむを得ない。
【図6】「帝国図書館」1930年

【図7】「図書出納室 帝国図書館」二階のカウンターへ請求票を出すと三階から本が出る

【図8】「閲覧室 帝国図書館」増築部分の三階だろう

セットの絵はがきの場合、タトウに重要な情報、例えば発行の理由、頒布年月が記載されていることが多い。絵はがき本体同様に大切にしたい。
【図9】「増築記念」絵はがきのタトウ

建築物の新築、増築、落成、竣工記念の絵はがきだと、建物のスペック(諸元)などを書いた紙が付録でつくことが多い。平面図(一般配置図)なども記載されることがあり、これも貴重な情報となる。
【図10a】「帝国図書館平面図」

例えば【図10b】の「三階平面図」を見ると、【図3】に比べて「閲覧室」の真ん中を東西に区切るカウンター(出納台)が南(右)へ1柱分ずれているのがわかる。
【図10b】「帝国図書館平面図」

この絵はがきセットには、けなげにも、残り2/3まで含んだ平面図が添えられ、「帝国図書館を完成させたい、記念式典への来場者のみなさんわかってね」という図書館関係者の気持ちが表現されている。しかし、帝室博物館と異なり、帝国図書館は名前ばかりがいかめしく、実態は文部省の直属研究所にすぎない格付けだったので一向に予算がつかず、敗戦を迎えることになった。
■新発見! 初代「書籍館」の写真
ところで戦前の図書館の話になると、必ず「明治5年に日本最初の図書館「書籍館」が〜」という話になる。これは誰がやってもそうなる。ところが肝心の、第①代書籍館の姿を誰も見たことがないのである。図書館学を始めてから30年以上経つが私も見たことがなかったし、おそらく150年以上、誰も見たことがなかったようなのだ。
ところがである……。
見つけちゃったのだ、盟友(?)書物蔵クンが初代「書籍館」を。(ちなみに初代「書籍館」は固有名と一般名詞が一致してしまっている。なんてったって日本に1つしかなかったものだから。翌年、京都で図書館「集書院」が開館したけれど、それもまた違う名称。そして明治10年代まで日本語に「図書館」という言葉自体がなかった。ややこしい)
【図11】を見よ。これが1872(明治5)年、日本初の近代図書館「書籍館」の庁舎、建物だ。明治初年のドタバタぶりがひしひし伝わってくるではないか。
【図11】「講堂之図」1875(明治8)年ごろ この家屋が初代「書籍館」

明治5年から7年にかけて明治政府は湯島聖堂の講堂を書籍館にしていた。【参考図4】はキャプションの年代が間違っているが『上野図書館八十年略史』に掲載された、初代書籍館の庁舎平面図である。【図11】は【参考図4】下(南)の家屋を南側から撮影したもののようだ。どうやらこの講堂を書庫として使い、閲覧は北にあった離れの「観書室」で行ったようだ【参考図4】。「書籍館」北にある「土手」は防火用。
【参考図4】湯島の書籍館平面図

【図11】は、他に3枚一緒に購入した古写真の1枚で残りは次の文献に掲載されている。同じ湯島聖堂で、②代目の庁舎「大成殿」(【参考図3】の右、図外にあった)が東京書籍館として稼働中の写真も載せられている。この、図書館として稼働中の大成殿写真も150年間、見られなかったものである。
・書物蔵「日本初の図書館「東京書籍館」は「安全開架」だった?!:書籍館(明治5年)と東京書籍館(明治8年)の建物のこと」『文献継承」(38)p.6-10(2021.10)
■写真絵はがきというもの
写真絵はがきは面白い画像を我々に見せてくれる。特に組織に残っているおすまし系写真と異なり、動いている図書館、稼働中の図書館をこの目でみるよすがになるのだが、明治30年代より以前に絵はがきはほぼないといえる。私製はがきの発行許可が明治33年であり、絵はがきブームが明治37年ごろからだからだ。そこでそれ以前の写真は明治10年から20年代の「横浜写真」を使うか、それ以前は【図11】のような本物の古写真をたまたま入手するしか手がない、ということになる。
2000年代の古本フレンズ、ライターの黒岩比佐子さんはあっという間に逝った。図書館史仲間だった「図書奉行」こと鞆谷純一さんも死んだ時には40前ではなかったか。コロナ禍初期、30代で1週間で逝った出版史の研究仲間がいた。それから6年、生きている間に初代「書籍館」をこの目で見られて本望だ。そしてみなさんも150年ぶりにザ「書籍館」を見た日本人ということになる。

書名:『近代出版研究』第5号
特集「エフェメラって?――軽薄短命の紙がみ」
発行:近代出版研究所
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ISBN:978-4-7744-0882-8
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小林昌樹(こばやし・まさき)
1967年東京生まれ。1990年と92年、慶應義塾大学文学部を2回卒業。2021年国立国会図書館を早期退職し、近代出版研究所を設立。『近代出版研究』編集長。近代書誌懇話会代表。現役時代の秘伝テクニックを盛り込んだ『調べる技術』がヒット。それを応用して書いた前代未聞の『立ち読みの歴史』は五大新聞紙すべてで紹介。専門は図書館史、近代出版史、読書史。
