日本人物情報大系 第8回配本
朝鮮編[解題]
木村健二
一 在朝日本人の形成と展開
1 人口・職業構成
朝鮮に在留した日本人の起源は、一八七六年の釜山開港にさかのぼる。同港の開港以降、西日本各地より多くの日本人が渡航し、日本人社会を形成していった。表1は一九一○年の韓国併合にいたるまでの朝鮮渡航者数を五年ごとに追ったものである。ハワイやアメリカ合衆国への移民が多かった年を除き、朝鮮は明治期における日本人の最多の渡航先であった。
在留人口はその後も増え続け、表2に示すように、一九○○年から一九一○年にかけて一○倍以上の増え方を示し、一九二○年までの一○年間に二倍に、一九四○年までの二○年間にさらに二倍に、そして一九四四年には九○万人を突破する数となる。男女の比率は一九○○年に男性百人に対し女性八○人台となるが、この時期にはまだ家族の同行というよりも「醜業婦」の増加によるものであった。図1は一九一一年六月末時点の、京城における年代別
の人口ピラミッドである。二○代・三○代に大きなふくらみがあり、しかも二○代は女性の方が多いなど、出稼ぎ的様相もうかがえるが、若年層の人口も増加しており、併合を前後する時期あたりから、家族の同行による定着化が徐々に進行していたとみることができよう。
表3は、初期渡航者の事由別人数を、旅券発給申請事由に基づき示したものである。すべての年次で「商用」が最多を示し、これに諸用や傭、漁業などが続いていることがうかがえる。そしてこの場合、政商的大企業や大都市に本店を有する貿易商の支店員とともに、小規模の生業的商業者の渡航も数多くなされたのである。さらに一九三○年の国勢調査によって判明した有業本業者の職業別
人口構成を表4によってみると、公務・自由業、商業、工業の順となっている。公務・自由業、工業の増加が著しく、植民地支配を推し進めていくうえで総督府や地方庁の官吏が数多く在留したこと、工業化も随時推し進められていったことが反映しているといえよう。これらの構成は、農業中心の朝鮮人とは大きく異なっていることが明かである。
2 出身地と定着地
表5は在朝日本人の出身地および出生地を示している。一九一○年以前には長崎県、それも対馬の出身者が多く、それにつぐ山口県の二県で全体の五八・一%(一八九六年)を占めるという集中ぶりであったが、徐々に西日本を中心とするそれ以外の府県の比率も高まっていく。一九一○年には上位
二県は山口・長崎で変わりがないが、その比率は二○・四%に低下する一方、福岡・広島・大分・熊本など一万人前後を数える県も増加してくる。
さらに一九三○年には、本国生まれが七○・四%に対して、朝鮮生まれが二九・六%、つまり約三割に達するようになる。日本本国の出生地では、あいかわらず西日本中心ではあるが、さらに拡散化が進んでいることが明らかである。
表6は都市別の日本人在住者数を示している。日露戦争前には、当然のことながら、居住を許されていた開市・開港場が一○○%ないしそれに近い比率であったが、併合後は徐々にその比率を低下させ、一九四○年には五○%を切る水準となる。農村部や地方中小都市にも日本人が居住するようになっていったのである。併合以後、最多の日本人を擁したのは京城であり、それに釜山、平壌が続くが、徐々に内陸の地方都市などにも拡大し、とくに米の積出港(群山・木浦)や工業化を推し進める地域(大邱・清津・咸興・新義州)などでの増加がめだつようになる。
3 日本人政策と日本人の活動
この間に日本人に対する政策はどのように実施され、その下で日本人はどのような活動を展開したであろうか。
一九○五年の韓国保護国化以前にあっては、日本政府は朝鮮における勢力の誇示、支配の強化をはかるため、日本人に対するさまざまな朝鮮渡航・定着に関連する便宜・補助政策を実施した。
まず何はさておいてもあげなければならないのは、朝鮮に対する不平等条約の締結であり、治外法権や初期の無関税権、居留地での日本貨幣流通
権などに守られる形で、日本商人の営業活動は有利に展開できたのである。そして、釜山・元山・仁川・京城と続く開港・開市と居留地の設定に際して、専管居留地の確保(釜山)や店舗の建設(元山)、航路の開設(元山)などの便宜が与えられていく。また渡航便宜政策としては、表7に示すように、旅券発給地の開港場以外への拡大や、旅券そのものの免除、そして当時海外渡航許可を得るうえで厳格なチェック機能を果
たした「移民保護法」の適用外としたことなどがあげられる。さらに「甲申政変」や「防穀令事件」などの際に、日本政府を通
して朝鮮側に過分な賠償請求を行い、これを実現させていった。
こうした保護・補助策の下で、先にみたように、商人層を中心とする渡航がなされたが、それらの中には「冒険商人」・「一攫千金」・「徒手空拳」・「食いつめもの」と呼ばれるようなものたちも含まれていた。彼等は、共同で商店を立ち上げたり、居留民会や商業会議所を組織して自分たちの要求を反映させる一方、武器を携帯して内陸部に行商する団体を組織したり、恫喝や詐欺まがいのことを行って朝鮮人側と取引をし、利益をあげるものなどもあった。
以上の状況がさらに定着への措置として拡充されていくのは、日露戦争の勃発と韓国保護国化の過程である。
すなわちまず、一九○五年の第二一帝国議会には、在外指定学校職員への恩給に類する金額を支給する提案がなされて可決し、また在外医療団体同仁会への補助金支給も決定する。つまり定住化に際して不可欠の、教育・医療の体制が整えられたのである。さらに同議会には、懸案であった「居留民団法」が提出され成立し、この法律にそって韓国統監府が最初に「居留民団法施行規則」を制定する。そこでは、議員選挙規定が整備され、民団税の滞納処分権が明記され、民団債の発行が可能になるなど「自治権」が強化される一方、従来は領事は認可権であったものが、統監府の理事官になると、これに監督権あるいは解散権を付与し、一九○八年からは居留民長は官選となるなど、逆に「自治権」が弱体化する側面
もみられたのである。それは将来、朝 鮮人を包含した体制を作るうえで、できるだけ権利的側面
を削減しておこうという措置だったのである。
一九一○年に併合が実施されると、総督府の管理・監督的側面はいっそう強化され、一九一三年の府制の施行によって、翌年居留民団は廃止される。居留民の「自治」として唯一残されたものは、朝鮮人側と同一化されなかった初等教育事業であり、それは「学校組合」を設置することによって以後も独自に運営されていったのである。
この間、日本人商人の代表機関としてあった商業会議所は、日露戦争直前ころより京城・釜山・仁川・木浦・元山が合同して連合会を組織し、とくに日露戦時下に日本内地に特設された「米穀輸入関税」の撤廃をめぐって、大々的なキャンペーンを展開する。その実現をみたのは一九一三年であり、他の関税は併合後も一○年据え置き措置がとられ、それがようやく撤廃をみるのは一九二○年であった。また日本人内部には、朝鮮人側の商業会議所と合同する要望も出され、一九一五年の朝鮮商業会議所令の発布によって実現するが、それによってまた意見を行政庁に開申する権利などを剥奪されることになる。
同様の既得権の剥奪・後退は、そのほかにもみられ、とくに一九一一年施行の朝鮮会社令は、会社設立・支店設置に際して「許可主義」をとっていたことで、在留日本人はもとより、本国の実業家にも大きな不満を醸成することになった。これが改訂・廃止されるのは、第一次大戦を経た一九二○年である。
一九一九年の三・一独立運動は、日本人および日本側統治政策に大きな影響を及ぼすことになる。そのなかで日本人独自に展開された政策というのは、学校組合を通
した初等教育部門にとどまり、逆に「内鮮融和」の名のもとに、日朝間通
婚なども推し進められていく。日本人の間では、通婚に反対する風潮が強く、また両民族の混血により見分けがつかなくなる世代が増加することを懸念する論調も盛んであったが、それでもとくに一九三○年代になると、表8に示すような通
婚数をみるようになるのであった。
以上のような矛盾する構造のなかで、在朝日本人は、官吏層を中心にますます増加していき、皇民化政策が推進されるようになると、いっそう矛盾は深化し、その過程で朝鮮人差別
も深化していくことになる。当局はこうした事態をみかねて、日本人に反省を迫る『朝鮮同胞に対する内地人反省資録』のようなパンフレットを発行して配布することも行ったのである。
図1(工事中)
表1 朝鮮渡航日本人数の趨勢
年次
|
海外渡航者数
|
朝鮮渡航者数
|
同割合(%)
|
1880
|
1,510
|
934
|
61.9
|
1885
|
3,461
|
407
|
11.8
|
1890
|
8,166
|
1,791
|
21.9
|
1895
|
22,411
|
10,391
|
46.4
|
1900
|
44,222
|
4,327
|
9.8
|
1905
|
35,132
|
11,367
|
32.4
|
1910
|
68,870
|
25,396
|
36.9
|
(1)『日本帝国統計年鑑』、『朝鮮総督府統計年 報』各年より作成。
(2) 1905、10年の海外渡航者数には台湾・朝鮮等 植民地・勢力圏を含む。その際の数値は、前年
末の在留者数を差し引いて求めた。
表2 在朝日本人数の推移
|
男
|
女
|
計
|
男百に付女
|
出生数
|
死亡数
|
自然増
|
社会増
|
1880 |
550
|
285
|
835
|
51.8
|
|
|
|
|
1890 |
4,564
|
2,681
|
7,245
|
58.7
|
|
|
|
|
1900 |
8,768
|
7,061
|
15,829
|
80.5
|
|
|
|
|
1910 |
92,751
|
78,792
|
171,543
|
84.9
|
|
|
|
|
1920 |
185,560
|
161,059
|
347,850
|
87.8
|
76,475
|
64,101
|
12,374
|
114,787
|
1930 |
260,391
|
241,476
|
501,867
|
92.7
|
102,296
|
79,010
|
23,286
|
110,963
|
1940 |
356,226
|
333,564
|
689,790
|
93.6
|
|
*71,087
|
*41,243
|
*77,411
|
1944 |
345,561
|
567,022
|
912,583
|
164.1
|
|
|
|
|
(1)1880〜1940年は丹下郁太郎編『朝鮮に於ける人口に関する諸統計』朝鮮厚生協会、1943年、3〜4頁、1944年は朝鮮総督府『人口調査結果
報告』其ノ一、1944年5月、1頁より作成。
(2) 出生数は10年間分で、*は1931〜38年まで。
表3 事由別朝鮮渡航者数
|
公用
|
留学
|
商用
|
諸用
|
職工
|
傭
|
漁業
|
遊歴
|
計
|
1880
|
174
|
5
|
350
|
332
|
73
|
―
|
―
|
―
|
934
|
1885
|
30
|
6
|
186
|
142
|
17
|
24
|
―
|
2
|
407
|
1890
|
24
|
10
|
970
|
450
|
85
|
219
|
33
|
2
|
1,791
|
1895
|
144
|
90
|
3,665
|
1,787
|
517
|
2,919
|
1,265
|
4
|
10,391
|
『帝国統計年鑑』各年より作成。
表4 職業別本業人口の割合(1930年)
|
日本人
|
朝鮮人
|
農 業
|
8.7
|
80.6
|
水 産 業
|
3.1
|
1.2
|
鉱 業
|
0.4
|
0.3
|
工 業
|
17.6
|
5.6
|
商 業
|
25.7
|
5.1
|
交 通 業
|
9.0
|
0.9
|
公務・自由業
|
31.8
|
1.2
|
家事使用人
|
1.6
|
1.2
|
其他ノ有業者
|
2.0
|
4.0
|
前掲『昭和五年朝鮮国勢調査報告』247頁 より作成。
表5 出身地・出生地別日本人
|
1910年
|
出身地別
|
1930年
|
出生地別
|
(1)
|
山 口
|
20,990
|
山 口
|
32,615
|
(2)
|
長 崎
|
14,087
|
福 岡
|
28,532
|
(3)
|
福 岡
|
13,510
|
長 崎
|
24,452
|
(4)
|
広 島
|
10,838
|
熊 本
|
22,849
|
(5)
|
大 分
|
9,300
|
広 島
|
22,734
|
(6)
|
熊 本
|
8,283
|
佐 賀
|
17,078
|
(7)
|
大 阪
|
6,364
|
大 分
|
16,691
|
(8)
|
岡 山
|
6,231
|
鹿児島
|
15,511
|
(9)
|
佐 賀
|
5,983
|
岡 山
|
13,509
|
(10)
|
東 京
|
5,690
|
愛 媛
|
11,485
|
其他共
|
171,543
|
本国計
|
368,532
|
|
朝鮮内
|
154,954
|
『朝鮮総督府統計年報』明治44年度、 57頁、『昭和五年朝鮮国勢調査報告』
全鮮編、第一巻結果表、64〜65頁よ り作成。
表6 都市別日本人人口
都 市
|
1890年
|
1900年
|
1910年
|
1930年
|
1940年
|
釜 山
|
4,344
|
5,758
|
24,936
|
47,761
|
52,003
|
元 山
|
680
|
1,578
|
4,636
|
9,260
|
11,121
|
京 城
|
609
|
2,115
|
38,397
|
105,639
|
124,155
|
仁 川
|
1,612
|
4,208
|
11,126
|
11,758
|
13,359
|
木 浦
|
|
894
|
3,612
|
7,922
|
9,174
|
鎮南浦
|
|
339
|
4,199
|
5,333
|
5,967
|
群 山
|
|
488
|
3,737
|
8,707
|
9,400
|
馬 山
|
|
252
|
7,081
|
5,587
|
5,966
|
平 壌
|
|
159
|
6,917
|
20,073
|
25,115
|
大 邱
|
|
|
6,492
|
19,426
|
21,455
|
新義州
|
|
|
2,742
|
7,526
|
8,916
|
開 城
|
|
|
(1,470)
|
1,531
|
1,612
|
清 津
|
|
|
(2,182)
|
8,873
|
12,411
|
咸 興
|
|
|
(1,383)
|
8,984
|
10,594
|
大 田
|
|
|
|
|
9,576
|
全 州
|
|
|
(1,541)
|
|
5,494
|
光 州
|
|
|
(1,326)
|
|
8,085
|
比 率
|
100.0%
|
99.8%
|
66,4%
|
53.5%
|
48.5%
|
(1)1910年までは開市・開港場を(ただし1910年の( ) 内は郡)、1930、40年は府を掲載。
(2)『日本帝国統計年鑑』、『韓国統監府統計年報』、 『朝鮮総督府統計年報』、『朝鮮国勢調査結果
報告』 各年より作成。
表7 日本人渡航便宜政策
年次
|
政 策 事 項
|
1878
|
朝鮮行旅券付与地を広島・山口・島根・福岡・鹿児島・長崎県厳原に拡大 |
1895
|
居留民の一時帰国者は帝国領事館現住証明書によって再渡航許可証必要なし |
1900
|
韓国への漁業者の旅券必要なし |
1902
|
清韓両国を移民保護法の適用外とし、厳しい審査を免除 |
1903
|
清韓両国渡航者出発時期切迫の際旅券必要とせず |
1904
|
本人希望の外は韓国渡航に際し一切旅券の携帯必要なし |
木村健二『在朝日本人の社会史』未来社、1989年、21頁より作成。
表8 日本人・朝鮮人間の通婚状況
年次
|
日本人の家に入った場合
|
朝鮮人の家に入った場合
|
1921.7-1930
|
179
|
426
|
1931 -1940
|
1,688
|
2,182
|
(1) 前掲『朝鮮に於ける人口に関する諸統計』50、51頁より作成。
(2) 日本人の家に入った場合の内訳は、婚姻が15.1%、入夫婚姻が
24.6%、養子縁組が23.1%、婿養子縁組が7.6%であり、朝鮮人 の家に入った場合は99.8%が婚姻であった。
二 本シリーズの構成
本シリーズでは、第一巻から第五巻までは、年代別、すなわち併合前、一九一○年
代、一九二○年代、一九三○年代半ば以前、一九三七年以降に時期区分し、それぞれ
の時期における人名録を掲載している。第六巻以降はテーマ別、すなわち出身府県
別、営業種別、公共団体別人名録、そして三大都市の商工人名録を収録している。
まず第七一巻の併合前に関しては、日本本国の農商務省が調査・編纂した『農商務省商工局臨時報告』(一八九七年)を収録した。朝鮮への商業人の進出がいかに豊富であったかを示すため、世界各国への進出状況も同時に収録している。農商務省の調査はこのほか、外務省に調査依頼して作成した『本邦人外国ニ於テ商店ヲ開キ営業スル者ノ氏名住所営業種類等取調一件』一八八八〜一八九六年(外務省記録三―三―七―十三)があり、また外務省も『農工商漁業等ニ従事スル在外本邦人営業状態取調一件』一九○三〜一九二○年、(外務省記録三―三―七―二五)を毎年作成しており、
朝鮮在留日本人商人の氏名、出身地、業態、財産・取引額等を知るのに便利である。このほか朝鮮で設立された民間の新聞社・雑誌社によって紳士録等が刊行されている。そのうち、木浦新報社の『在韓人士名鑑』(一九○五年)は、現存するもっとも古い在朝日本人の「名鑑」であり、その出版趣旨には、「韓国在留の我紳士商工家成功の事歴を表彰し、併せて対韓貿易其他各種方面
に縁故ある我本国の紳士商工家を紹介し、以て彼我の連鎖となり相互の関係を密接ならしむ」とある。また、雑誌『朝鮮及満州』を出していた京城日韓書房の『京城と内地人』(一九一○年)は、「京城の沿革は朝鮮に於ける日本勢力の消長を示す」としたうえで、「内地人の京城に於ける
過去の事歴を伝え、更に現勢を示し、新来者の参考に資せん」(序、一〜二頁)とあり、いずれも併合にいたる居留民の成功の跡を紹介し、新来者への参考に付せんとする意向をよく示している。これらの資料を利用することで、居留民が朝鮮に来住する経緯を知ることができるようになるといえる。『日韓商工人名録』下、(一九○八年)は、併合直前の朝鮮主要都市にあった会社・個人商店のリストであり、日本人の部と朝鮮人の部に分かれ、営業種目や税額が記載されているのが特徴である。
第七二巻の一九一○年代は、やはり新聞社・雑誌社を中心として刊行されたものが中心である。朝鮮実業新聞社(京城)の『朝鮮在住内地人実業家人名辞典』第一編(一九一三年)は、「最近母国人の移住日に月に激増し社会的組織亦次第に複雑を極む現に朝夕相見ゆるも何人たるを知らず」(例言、一頁)という現状に鑑み、京城における日本人商業会議所会員を中心に採録したものであり、年代を付した略歴はとりわけ貴重であるといえる。なお、第二編以下が刊行されたかどうかはいまのところ不明である。平壌日日新聞社の『平壌と人物』(一九一四年)は、同紙に連載された「人物評」であり、平壌における有力実業家とともに、官吏・医師・弁護士・教員等の著名人も採録されている。青柳綱太郎が朝鮮研究所から刊行した「新朝鮮事業と人物」(『新朝鮮成業名鑑』一九一七年)は、道別
に会社・人物・病院などの概要を記述したものである。牧山耕蔵により『朝鮮公論』という雑誌を一九一五年以来出版していた朝鮮公論社の手になる『在朝鮮内地人紳士名鑑』(一九一七年)は、約一五○○名の略歴を掲載しており、当時の実業家(学校組合税二十円以上)・官吏(判任官六級以
上)のもっとも網羅性の高い資料であるといえる。その「発刊の辞」には、在留者相互の認識を深め、それを通
した事業展開への利便を図るとある。民天時報社(東京)の『海外邦人の事業及人物』(一九一七年)は、その採録範囲が中国本部・香港・
浦潮斯徳・「満州」・朝鮮・台湾であるが、第一次大戦期の海外事業展開を知るうえで貴重なことから採録対象とした。その発刊趣旨は、「海外に商取引を為さむとする向の為め」とある。
第七三巻の一九二○年代は、その採録対象が、従来の実業人とともに、徐々に総督府等の官吏のウエイトが高まり、また朝鮮人側の採録者数が増加していることが特徴と
いえる。すなわち、朝鮮新聞社の『朝鮮人事興信録』(一九二二年)は「全鮮に渉り各階級を網羅し」とあり、また「此書に依りて在鮮同胞の親和を増し」という点を「発行の趣旨」(二頁)に記載している。東亜経済新報社(京城)の『京城仁川職業名鑑』(一九二六年)も同様の採録内容であるが、京城・仁川に集中して掲載している。その「発刊之辞」には、産業第一主義や産米増殖、交通
の完備という秋に際し、「事業経営上将た又社交上各人相互の事業、人物、閲歴其の他の実際を識ることの極めて肝要」(一頁)としている。大陸民友社(京城)の『半島官財人物評論』(一九二六年)は、朝鮮総督からはじまり高級官吏・著名実業家の略歴と人物評を記載したものである。朝鮮総督府編纂の『朝鮮総督府及所属官署高等官名簿』(一九二五年、
一九二七年)は、両年の一月一日現在の判任官以上の高等官のリストであり、これは
ほぼ異動のあるごとに刊行されていたようである。
第七四巻は一九三○年代中葉まで、つまり日中戦争前の時期のものである。京城新聞社の『朝鮮の人物と事業』(一九三○年)は、同社の創立二十周年にあたり刊行したもので、「人に対して紳士録あり、事業会社に対して銀行会社要録ありと雖も、余り
に事務的なるが故に、無趣味な羅列になる。所謂人物評論では、筆者の主観が勝ち過
ぎる、その中間を縫うて何かそこに掴まんとした」という方針のもとに、事業会社の創業の苦心、発展の経路を知らしめようと編纂したという(「編者より」一〜二頁)。民衆時論社の『朝鮮人物選集』(一九三四年初版、三六年第三版)は、「政治経済界に雄飛し朝鮮統治に努力し朝鮮産業の発達に貢献している人々の、過去及現況
を記する事は、朝鮮の変遷を知る上からしても最も必要な事である。本書は将来朝鮮事業界に活躍せんとする人々にとっては一の指針たらしめ、現在飛躍している人々に
とっては唯一の伴侶たらしむると共に、その第一線より後退せる人々にはその記念と
なり、生きたる記録たらしめんとする」(「序」三頁)と趣旨を述べ、財界・官界の
四百余名(うち朝鮮人は二四名に過ぎない)を収録している。朝鮮紳士録刊行会発行
の『朝鮮紳士録』(一九三一年版)は、朝鮮総督府施政二十周年および総督総監の更迭を期して発行されたものであり、「朝鮮に活躍せる官界、実業界の有力者、乃至朝
鮮統治又は内鮮融和の為め直接間接に貢献功労少なからざる人士を網羅し」、誇張等
は避けて経歴そのままを記したという(「緒言」一頁、「凡例」一頁)という。また
末尾には、「銀行会社組合」のリストも掲載されている。朝鮮新聞社『朝鮮人事興信録』は第七三巻所収本の一九三五年版であるが、採録情報はより詳細化し、家族構成に
ついても触れている点に特徴がある。朝鮮総督府『施政二十五年史・人事』(一九三五年)は朝鮮総督府の局長、各道知事の始政以来の一覧が掲載されている。
第七五巻は日中戦争以降、敗戦にいたるまでのものを収録している。民衆時論社(京城)の『朝鮮都邑大観』(一九三七年)は、「朝鮮の都会地に就ての研究は従来余り重きを置かれていなかった」(序)という観点から、都邑別
に概況を示すとともに、 人物や会社について収録したものである。京城日報社の『朝鮮財界の人々』(一九四一年)は、一九三九年以来同紙に「人物月旦」として連載されたものをまとめたもので、京城を中心とする財界人に関する評論である。同じく京城日報社の『朝鮮年鑑』
の付録として収録されている「朝鮮人名録」は、一九四○年度、四一年度、四三年
度、四五年度版があり、それぞれ出身府県・生年・職業・現住所・出身校が掲載さ
れ、とくに最終版は貴重である。
第七六巻・第七七巻は出身府県別の人名録を採録している。まず、茨城県人の高橋刀川が長崎市の虎與号書店から出版した『在韓成功之九州人』(一九○八年)は、地方別
の人名録としてはもっとも古いものであり、当時流行した「成功」という観点から、
九州出身実業家十七名をとりあげ、その経歴や事業内容を解説している。その後、出身地別
の人名録は、前掲『朝鮮公論』が第一次大戦期に山口・佐賀・福岡・大分・茨城県人について特集したことはあったが、単行書としてはしばらく刊行されなかった。それが再開されるのは一九二○年代中ごろからであり、
その後二○年代後半から三○年代中葉にかけて、西日本・北陸を中心にあいついで刊行されるようになる。まず、四国人発展史編纂社(京城)の『朝鮮満州支那四国人発
展史』(一九二四年)は、「今や時勢の進展は東洋に延び将た南洋に波及して鮮内満支に対する興味と研究とは著し勃興し」という情勢認識のうえに、「母国同胞に対する指針と郷党後進の誘致に努めんが為め」(「自序」一頁)として刊行をみている。
内容は原籍・現住所・略歴という順に記されている。ついで越佐新報社鮮満支社(京城)の『新潟県人鮮満名鑑録』(一九二六年)は、「鮮満に於ける本県出身者の立功
苦心の情を慰し、一致団結郷土と内外呼応本県出身者の発達と繁盛に資し、一は郷党
の間に刺戟誘導して鮮満方面に発展の機を動かすべく」(「刊行之辞」三頁)刊行し
たとあり、やはり出身地・現住所・職業・略歴が記されている。元大阪朝日新聞社勤
務の稗田秀吉編纂になる『和歌山県人鮮満発達史』(一九二七年)も、同様に同郷人
の精神的統一と郷土との呼応、さらなる県人の鮮満方面への発展を企図して刊行した
とある(「自序」)。大分県人に関する『朝鮮台湾支那豊国人奮闘史』(一九二七
年)、福井県・石川県・富山県・新潟県人に関する『朝鮮及び満蒙に於ける北陸道人
史』(京城・同史編纂社、一九二七年)、そして『朝鮮在住福井県人名簿』(京城・
橋本印刷所、一九二八年)も、同様の観点から刊行されたものである。けっきょく一
九二○年代は、「国際協調」の時代といわれ、また民族独立の風潮も高まる時期であり、いわば海外雄飛・膨張の気運は沈滞した時期であったといってよい。そうした時
期にあって、その沈滞した気運を喚起すべく、上記のような郷土出身成功者の名簿が
あいついで刊行されたすることができよう。なお、鹿児島新聞京城支局発行の『朝鮮と三州人』(一九三三年、三州は薩摩・大
隅・日向)は、『内鮮満三州人名録』を朝鮮に関してさらに充実化したものである。
『朝鮮及満州に活躍する岡山県人』(一九三六年)も、その「自序」から、やはり同
様の観点であったことが知られる。
第七八巻は営業種別の人名録でまとめたものである。中外金物新報発行元である工業界社(東京)の『朝鮮之金属商工録』(一九二九年)は、朝鮮の金属商工業を紹介し取引の参考資料に供すべく刊行されたもので、地域別
・製品別に業者名が付されている点、また一括記載ではあるが参考資料が明記されている点が特徴である。『在鮮日本人薬業回顧史』は戦後(一九六一年)の刊行であるが、朝鮮における薬業の事跡をたどるのに便利である。『朝鮮商品取引便覧』(一九三六年)は、朝鮮産商品の生産と販路をいっそう円滑化すべく総督府商工奨励館が発行したもので、紡織品以下各種
品目別に製造または販売業者の一箇年の取扱高を示している。
第七九巻はもっぱら公共団体や同好会のメンバーを収録している。『朝鮮棋友名鑑』
追補(一九二七年)は、将棋の段・級別人名が、出身地と職業とともに記載されており、巻末には各地の旅館一覧も掲載されている。『朝鮮官私鉄道軌道職員録』(一九三四年)は、各鉄道会社の役員・駅長から課長クラスまでを網羅している。『朝鮮総督府施政二十五周年記念表彰者名鑑』(一九三五年)は、施政二十
五周年を記念して総督府に表彰された人々のリストである。京城新聞社の『大京城公職者名鑑』(一九三六年)は、京城の府域拡大を契機として編纂されたもので、京城
府会議員、京城商工会議所議員、京城府町会総代の略歴・家族・趣味等が収録されて
いる珍しい資料である。『朝鮮金融組合と人物』(一九三七年)は大陸民友社の編纂
によるもので、金融組合の役員を中心に、その活動・普及に尽力した人物を掲載している。
第八十巻は京城・釜山・平壌という、日本人人口の上位
三都市をピックアップし、同地に設立された商工会議所の会員を網羅した『商工人名録』を収録している。そこでは、業種とともに営業税額が日本人・朝鮮人別
に記載されており、時代を経るごとに、民籍別にどのような業種の営業者が浮沈を示していくかということを把握し得る、有力な資料といえる。営業税それ自体は、明治初年以来、まず地方税として導入され、朝鮮居留地にあっても同様の形式で、当初は業種別
・三ランク別に賦課され、 のちには「外形標準」を基準に等級別に賦課され、居留民団や商業会議所の選挙権資格に利用された。一九三○年以降は、やはり日本本国と同様に「営業収益税」となって年次毎の収益に応じた賦課がなされるようになり、いっそう営業状況を知る格好の材料となったのである。
以上、本シリーズに収録した人名録を利用することで、在朝日本人各層の実態究明がよりいっそう進み、日本人として反省あるいは克服すべき点は反省・克服し、新たな世紀における良好な関係の構築に寄与することができれば幸いである。
参考文献
木村健二『在朝日本人の社会史』未来社、一九八九年
「在外居留民の社会活動」『近代日本と植民地』5、岩波書店、一九九三年
梶村秀樹「植民地と日本人」『日本生活文化史8』河出書房新社、一九七四年
「植民地朝鮮での日本人」『地方デモクラシーと戦争』文一総合出版、一九七八年
宮田節子『朝鮮民衆と「皇民化」政策』未来社、一九八五年
(きむら・けんじ 下関市立大学教授)
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