プランゲ文庫所蔵の椿實作品 |
椿紅子
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昨秋(二〇〇二年十一月十五日)に米メリーランド大学に保存されている所謂「プランゲ文庫」の内容が、二〇〇一年の政治・行政・法律、経済、社会、労働の雑誌タイトルのCD-ROM化に続いて、教育、歴史、地理、哲学、宗教、芸術、言語、文学の雑誌を対象に拡大され、インターネット上で公開された。データベースのURLは
http://www.prangedb.jp 椿實の作家活動が旺盛だった時期とGHQによる検閲が行われた時期とが重なるので、私は以前より父自身は夢にも想像しなかったメリーランド州に作品掲載誌が保管されている可能性を考えてはいた。父は生前欧州へは旅行したが私が長く暮らした米国、わけても私が一時しばしば滞在したメリーランドを訪れることはなかった。データベース公開を待って早速検索してみたところ、椿實では十二件のヒットがあった。しかし、私としては昭和二十一年二月に吉行淳之介氏達と起こした同人雑誌の「葦」に特に興味があったので雑誌名でも検索してみたところ、第一号はなかったが第二号と第三号が入っていた。第三号には父の作品「泣笑」が収録されているが、活字の読みづらさからデータベースでは旧字の實(ミノル)が寛(ヒロシ)と読み誤られていることが判明した。家にあった「葦」第三号を調べると確かに目次の漢字は判別 し難い形状である。しかし、「泣笑」本文の頭には署名が新字の実(ミノル)を使って復刻として掲げてあり(終戦直後の学生同人雑誌でよくも洒落たことをしたものである)、筆跡からも間違いはない。その後、早稲田大学の宗像和重教授の研究発表では、調査なさった菊池寛のエントリの中に誤って菊池實という方が入っていた、という同じ文字間での逆の取り違え事例が見られた。 同人雑誌「葦」については吉行氏が「私の文学放浪」(昭和四十年、講談社)に書いている。戦後一番早く出た同人雑誌にしたいと思い、昭和二十年八月から計画を進めたそうで三十二頁
(公的制限があった)の学生雑誌が定価三円で飛ぶように売れ、二千部完売になったという。実は父のところにも第一号は一冊しかなく(近代文学館に寄贈)、校正と思われる鉛筆の書き込みがあるが、吉行淳之介作消しゴム印による朱文字の定価は入っていないものである。本の記述では吉行氏は一冊保存なさっていたようで、掛川の吉行文学館にでもあるのか何時か調べてみたい。「葦」という雑誌名は、吉行氏の静岡高校の同級生であった佐賀章生さんの劇作品のタイトルで、もう一人の友人久保道也さんと共に長崎医大の教室で原爆で亡くなった後、焼け跡から持ち出されたノートにあった。府立高校の生徒であった父と静岡高校出身者達のつながりは、五中の同級生で東大へ進んでいた熊谷達雄氏の紹介によるもので時期は一九四六年の「葦」創刊の頃であり、佐賀さん達には会う機会はなかったと思われる。しかし、文科系の高校生でも医大へ行けば徴兵猶予が認められる措置と家業の関係もあり長崎医大へ進むことは父も考えたらしく、吉行氏の旧友のことは私達にも度々話していた。「俺が真剣に医者になろうとしていたら、お前達は皆いなかったんだ。」 その縁の名のついた雑誌が米国に何十年も保管されていたことを知り、文学への夢を持ちながら若い命を散らした人々に思いを馳せずにはいられない。結局出版されなかった第四号の内容は第三号にあり、佐賀章生(戯曲)「葦」や父の作品「善人」が掲載されると予告されている。 「葦」第一号はとりたてていうほどの反響はなかったが、私にとってほほえましい思い出がある。同人の大島重夫が昼飯を食べていて、ふと弁当箱を包んであった日本タイムスに目を落すと、そこに私の「月光」という詩が英訳されて載っていた。私は「どういういきさつでぼくの詩が載ったのか」とタイムス社に問合せ状を出した。折り返し無名氏からの返事があって、それには、英文タイプで打ったローマ字の文章がぽつんと記されてあった。「ヨカッタカラ、ノセタノデス」。 この詩、"MOONLIGHT"の英訳版は「葦」第三号の裏表紙内側に「日本タイムス紙所載」と明記して転載されており、(translated
by Hideo Kuwahara)となっている。データベースではこの方の名前は明らかにされていない。また、執筆者JUNNOSUKE
YOSHIYUKIも記事タイトルも原文表記と同様に大文字で入力しないと検索できないので注意を要する。 次に視点を変え、父が所蔵していた雑誌で現在までのプランゲ文庫のデータベースには入っていないものはどれか? を調べてみた。GHQは地方都市の主婦達による刷り物や戦友会報なども集めたというが、小学校の同級生達が事故で亡くなった友人の追悼としてガリ版で作成した「助川君追悼 級会雑誌」(Vol. I No. 1 第一師範女子部附属小学校竹富会 1947)はさすがに入っていない。この現物が家に残っていたことを申し上げたら巻頭に大作を書かれた学生社の鶴岡●(こざと片+正)巳氏も驚かれたようだが、父が投稿した「我が身ひとつは」はおよそ追悼に相応しくない早熟な若者のウィタ・セクスアリス的短編で一九四六年三月二十七日という日付がある。ちなみに編集は荻昌弘氏だった。[ここで追悼されている助川佐さんの弟が助川弘之さん、未確認であるが現土浦市長の方かも知れないと思っている。] 第十四次新思潮では第五号にあたる「ビュラ綺譚」掲載号(昭和二十三年九月)が見つからなかった。第十四次新思潮は四号までの編集責任者が中井英夫、東大学生の雑誌とはいえ、時の有力作家に稿料を払って採算のとれる文芸雑誌まがいとすることを条件に札幌の出版社(玄文社)が用紙と印刷発行を引き受けたものだった。従って、創刊号から荒正人、上林暁、太宰治などの名が並び、父が注目された「メーゾン・ベルビウ地帯」が新人作品として出版されたのはむしろ異例な位
、同人雑誌としての特徴は薄い(第二号は新人創作特集号と銘打たれている)。しかし父にとっては吉行淳之介と共に第二号からの編集に関わり、三島由紀夫、柴田錬三郎、稲垣足穂などの知己を得るに至る重大な媒体であった。第五号がなぜGHQに捕捉されなかったかは不明だが、この号は新編集号と銘打ち、編集者の交代とともに雑誌の体裁なども大きくかわっているので何か関係があるかもしれない。執筆者は三島(由起夫と表記)、柴田、稲垣、吉行、椿、高橋宗近、佐竹龍夫、伊等森造。また、発行所玄文社の所在地がこの号では東京都豊島区池袋になっている。出版時期の近い昭和二十三年八月号の「肉体」(「狂気の季節」掲載号)もデータベースには収録されていなかった。 【Bibliography】 |
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