三島由紀夫と「天人五衰」
三島文学の転生を辿りながら、彼が自決に至るまでの思想の深淵と苦闘をあとづける
椿 実

1 自決についての政治的評価

 三島由紀夫の「豊饒の海」は、昭和四十五年十一月二十五日に書き上がるが、同じ日に三島は自衛隊にクーデターを呼びかけ、「生命尊重以上の価値の所在を見せてやる」と「憲法に体をぶつけて」切腹して果 てた。
 三島自決は唐突奇異の感をもって迎えられ、「三島狂せるか」と思わしめた。三島についての政治的評価は全く否定的である。
 「三島の行動は民主主義に反する」という新聞の社説的見解が定着し、自決は不毛で無害なものに風化してしまったように思われる。
 死後十年の余になって、彼の檄文を読んでみると、彼の行動に対する民主主義的全面 否定は全く無意味の事であり、三島は議会制民主主義の根幹である「日本国憲法」に問題を提起しているのである。この点について世間は、「楯の会」会長という彼の仮面 にまどわされて、その行動の小児性を軽蔑し去っているが、憲法九条に擬された白刃の光芒を私は見、戦慄を憶える。この日私は、檄のコピーを入手することができたので、不可解なる三島自決を理解しようと試みたのである。
 三島の理論は歯の浮くようなもので、「自らを否定する憲法を守れ」などという屈辱的命令に憤慨し、「真の日本の自主的軍隊たるために共に起ち、共に死のう」というのである。自衛隊の体質は、四年間(学生は三年)「隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育」を受けた三島は熟知していたはずである。「『生ぬ るい現代日本で、凛烈の気を吸収できる唯一の場所』である自衛隊を愛するが故に、この挙に出た」というのは、彼が反省しているように「強弁」であろう。慎重な三島にして、昭和四十四年十月二十一日の総理訪米の日付を、二枚目では昭和四十五年十月二十一日とあやまっている。三島はよほど死に急いでいた。「死に場所、死ぬ 日」を求めていたといわざるを得ない。冷静に彼の檄文を読めば、かかる方法、かかる作戦によっては、自衛隊はその体質からしても、決起することはありえないことを承知の上で、「真の武士として死ぬ ために、切腹してみせた」のである。
 これは「愚挙」であり「犬死に」といわざるを得ないが、「葉隠」によれば「武士に犬死にといふものはなきものなり。武士道とは死ぬ ことと見つけたり」とあるから、三島は武士道を実践したのである。まさしく、それは、「一片の打算なき」死である。日本国憲法と民主主義に対する抗議である。とすれば、民主主義的打算に立つ政治的評価は色を失うにいたるだろう。
 三島は、七年制高校である学習院を、戦時の短縮のため高等科二年で東京帝大法科に入学し、そのため普通 より二年早く、最後の高等文官試験に合格し、大蔵官僚となった。戦争下の強烈なエリート教育だけを受け、しかも恩賜の時計までいただいたということは、全く不幸なことであったといわざるを得ない。彼の大義は「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことに集約し、この視点から、「核停条約は五・五・三の不平等条約の再現であり、自衛隊は真の自主的軍隊として、本土の防衛責任を自覚せねば、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵と化するであろう」と予言するのである。  戦後の民主主義教育を受けた自衛官達に、この理論の高踏性が理解されることはないであろう。まして、一場の演説で、銃をとって国会へ行動をおこすことはありえない。二・二六事件の時代とは国軍のあり方が異なるのである。三島はそのことは承知の上である。まさにその国軍のシビル・コントロールのあり方を正すために、彼は自決する。  私は戦後、大蔵省につとめた三島に逢ったことがある。国民貯蓄課というところで、木造のガタガタ倉庫の如き建物の二階で、彼は郵便貯金の取締り係をやっていた。
 大蔵省というと、霞ヶ関の厳めしい建物を思い起すが、それは何たる思い違いであろう。
 「大蔵省というところはね。昨日煙草を一本借りたというので、今日は一本の煙草をうやうやしく返してくれるところだよ。」  とモーパサンの小説に見るような小役人の小市民性を笑っていたが、彼が文学のデーモンなどにとりつかれず、次官クラスになって、郵貯戦争で大衆に味方してくれる図を思いえがくのだが、それこそ彼の本来の大義「本位 」というものではなかったろうか。  公務員法は、暴力を以て時の政府を倒したり、煽動したりすることを禁じているので、彼は公務員をやめたら参議院全国区から立候補して、与党の大物になったかと思う。こういう具体的実現性をもった場合の改憲論は、切腹的方法よりはよほど戦慄に値する。
 日本国が、外国の軍隊によって、侵寇されないという保証はどこにもない。朝鮮動乱を想起してみるならば、決起の如き南下軍は、壱岐・対馬・九州にまでせまるかと思われた。  非武装憲法を逆手にとって、時の政府は事なきを得たが、あの時点で、米軍特需に応ずるということは事実上の戦争であった。ベトナム戦争に巻き込まれたとすれば、日本は破局に立ったかもしれぬ と思う。
 三島は憲法を改正して、自主的国軍の礎石たらんとするが、改憲は先のこととしても、自主的国防を必要とする時代は必ず当来するであろう。アメリカの傭兵となっては日本は生存もおぼつかない事態となる。  このあたりを恐れる三島の政治的信念を「狂」ということはできない。
 三島は繁栄を謳歌する昭和四十五年に、栄華の中に腐臭を感じ、体制の根幹に白刃を擬して「天人五衰」を書いたのである。


2 「豊饒の海」の文学的評価

 「豊饒の海」とは月の海の名であると三島は「春の雪」の後註に記している。月はこの小説の転生輪廻する円環の上にあって、直円錐状に、意識の隅々を照らしている。
 見事な「様式」の完成であって、鴎外の「雁」以外に、これ程完璧な「様式」美を成した日本の作家を私は知らない。転生する夢の物語は、「浜松中納言物語」を典拠とすると註されているのは国文学者を悩ませてやろうという三島の策で、大古典の権威をもちだして転生輪廻する松枝清顕の話を現実化することに成功している。清顕は綾倉聡子と恋をして子を宿させるが聡子は宮家へ輿入れの話が進行する。やむなく聡子は月修寺で尼になるというプロットは浜松中納言の王朝の夢を再生して、川端康成に「古今を貫く名作、比類を絶する傑作」といわしめている。清顕は死ぬ が、その友本多繁邦は、三輪神社の剣道試合で飯沼勲を見出し、滝に打たれる飯沼少年に三つの小さな黒子があるので松枝の生まれかわりだと確信する。勲は奔馬の如く切腹して死ぬ が、暁の寺で、シャムの王女月光姫に再生する。ジン・ジャンの左乳首の左に、三つの黒子があるのを、本多は覗き見る。「浜松」では中納言と大姫の契りは、大姫が式部卿宮に嫁することになったので破れ、大姫は尼となり、中納言は、亡き父宮が唐の第三皇子に生まれ変わっているという、夢のお告げによって渡唐する。
 三島の転生は「男―男―女」というように性を変えながら、それを思慕する本多(三島的人物)によって画かれてゆく。三島の転生は浜松の作者とされる菅原孝標女の夢よりも更に壮大である。私はここらに三島の間性をみるのであるが、年老いた本多は月修寺をたずねて、門跡となった聡子に逢う。八十三才の老尼は、「松江清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしやらなかつたのと違ひますか」と言う。「それなら勲もゐなかつたことになる。ジン・ジャンもゐなかつたことになる。……その上、ひよつとしたら、この私ですらも」と本多は、自己の存在も無とみる。
 門跡の目ははじめてやや強く本多を見据え、「それも心々ですさかい」という。
 この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。  庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる……          
 「豊饒の月」完 昭和四十五年十一月二十五日  と、こう三島は書いて「決死」の行動を起こしたのである。
 三島文学の「豊饒と不毛」については、「国文学 解釈と鑑賞」(一九七八年一〇月)に長谷川和泉氏の「神話か近代小説か」があり、長谷川氏は「天人五衰」を三島自身の「様式」の衰弱とみておられる。長谷川氏の分析によれば、「豊饒の海」各巻のキー・ワードは左のようになる。
 「春の雪」 ― 「優雅」  「奔馬」 ― 「純粋」「武」  「暁の寺」 ― 「終末」  「天人五衰」 ― 「無」  そして、戯曲に於て卓抜な作品を残した三島が、戯曲を捨てた時に、様式家としての衰弱を示したものが「天人五衰」であるという。
 長谷川氏の見解は『様式家が、外在的様式を充実させる緊迫、内面的充実と、創造性を喪失した場合に、内部から崩壊する危険をはらむことは当然』ということで、文学的評価もまた「不毛」であるとするのである。
 佐伯彰一氏の「現代史のなかの三島由紀夫」は三島の政治性について同情的ではあるが、「神話的認識の作品化」「神話小説」であると「評伝 三島由紀夫」でのべておられる。これに対し長谷川氏は、「黒子」に転生のあかしを求めるようなおとぎ話を、すべて否定し去った老門跡に近代性に拮抗するものを見ておられる。
 いずれにせよ、三島文学は五衰したと見るのであって、文学的評価もまた否定的といわざるを得ない。


3 「天人五衰」に対する宗教的唯識論的評価

 「豊饒の海」は「正統的と見なさるべき神話小説であり、神話的認識の作品化」であると認めたのは佐伯彰一氏の「評伝 三島由紀夫」である。それでも佐伯は、「輪廻、魂の持続の全否定であるのか、それとも一種の解脱、個我超越の境地を暗示したものであるのか」という疑問を提起し、「最高の解脱の境地として、輪廻転生をすら一つの妄執と断じて、この途切れざる連環から解き放たれた状態を思い描くことができる」と唯識的思考構造を是認して、これは神話小説だというのである。
 「春の海」に月修寺の先の門跡が、「唯式三十頌」についてのべ、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識の奥に、第七識「末那識」(自我意識)があり、そのさらに奥に阿頼耶識があり、「恒に転ずること暴流のごとし」とし、無着の「摂大乗論」(大乗を総集したもの)の時間論をのべて、阿頼耶識と染汚法が現在の一刹那に同時存在して、それが互いに因となり果 となることで、この一刹那をすぎれば双方共に無になるが、次の刹那にはまた阿頼耶識と染汚法が新たに生じ、それが交互に因となり果 となる。存在者(阿頼耶と染汚法)が刹那ごとに滅することによって、時間が成立している。時間というものは点と線のように、刹那(点)に断滅しつつ連続する。
 こういう説をのべて門跡のさとりが「池を照らす天心の月のやうに」自分たちの運命を照らし出しているのに気づかなかった。  と書いている。  月は、この意味で、円環をなす輪廻の頂点に立って見事である。様式の崩壊を説く、長谷川説は当をえないというべきであろう。
 しかしながら、大乗のアーラヤ識を体得した三島であるなら、何故に不毛の死を遂げたのであるか、という疑問が生ずるであろう。
 一切を無と観ずる悟りに立つなら、三島の行動は何と評価すべきか。これはおかしいのではないか、と宗教的評価もまた否定的にならざるを得ない。随所にちりばめられた三島の博識も印度哲学史をもう一度聞かされるような退屈の感を覚える。


4 「天人五衰」と三島の死の意味 ― その哲学的評価

 三島は、望月「仏教大辞典」によって、「天人五衰」の項を書いている。それは「天人五衰」と題された四部作の最終章、四で、本多が夢を見るところからはじまる。三保の松原を天人が群飛するところで、望月「仏教大辞典」(Vol.4 P.3815)「天人五衰」の項を引き、起世経第七、三十三天品を引いて、その身には、火、金、青、赤、白、黄、黒の光明ありとし、特に、欲界天の交会について説明する。
 「欲事を成ずるに、夜魔諸天は手を執り、(手をとり合ふだけで)兜率陀天は憶念し、(お互ひに心に想ひ合ふだけで)、化楽諸天は熟視し、(見つめ合ふだけで)他化自在天は共語し、(語り合ふだけで)情を遂げることができる」。  としている。  「魔人諸天は相看て共に暢適なることを得」というところは省略しているが、これは「見つめ合ふだけ」の化楽諸天と同じようなことになってしまうからであろう。
 「仏説によれば」として
  「天人の男は天子の膝辺、天人の女は天女の両股の内に生じ、自ら過去の生処を知り、常に天の須陀味を食する」とあるのは同経からの孫引きで、「又その寿量 尽きんとする時、五衰の相現ず」によって、五衰の一つの「本位を楽まず」という言葉を思い出し、「ずつと昔から本位 を楽しんだおぼえのない自分が、一向に死なないのは、天人でないせゐにすぎぬ のか」と考え、「本位はいささかも五衰を怖れてはゐなかつた」と重要なことを述べている。
 五種の衰相についても、増一阿含経第二十四、仏本行集経第五、摩訶摩耶経巻下、大毘婆沙論第七十の大小二種の五衰をあげて、「もつとも詳細に亘つてゐる」と、仏教大辞典「五衰」(Vol.2 P.1232)の順に引用を続ける。
□小の五衰は、
  一、音声は不如意にかすれてしまふ。
  二、身は薄暮のやうな影に包まれてしまふ。
  三、肌にも水が着くやうになる。
  四、一ヶ所に低迷して、いつまでもそこを脱け出すことができない。
  五、しきりに目ばたきするにいたる。
□大の五衰は、
  一、衣服先には浄くして今は穢る。(浄らかだつた衣服が垢にまみれる)
  二、華冠先には盛にして今は萎む。(頭上の華がかつては盛りであつたのが今は萎み)
  三、両腋忽然として汗を流す。(両腋窩から汗が流れ)
  四、身体にたちまち臭気を生ず。(身体にいまはしい臭気を放ち)
  五、本座に安住することを楽まず。(本座に安住することを楽しまない)
 を挙げ、「小の五衰の生じてゐるあひだは、死を転ずることも全く不可能ではないが、ひとたび大の五衰が生じた上は、もはや死を避けることができない」と述べる。
 三島は、遺書としてこの遺言を残していることを知る。彼は、「本座に安住することを楽しまなくなつた」ので死を避けることはできないと述べているのである。  謡曲、「羽衣」の天人は、大の五衰の一をすでに現じているというのは、北野天神縁起絵巻の五衰図によっている。「手近の写 真版で」とことわりながら、
 「頭上華は悉く萎み、内的な空虚が急に水位を増して……身体と精神の一番奥底で、まだたき続けてゐた火が今消えたのである。もはや腐敗がどこかではじまつてゐる気配を嗅いだ。遠い空を染める水あさぎ色の腐敗」を三島は絵巻の五衰図に見たのである。
 三島自決の動機は、「本位を楽しまなくなつた」彼自身の腐敗である。のがれ難く、それは死に至るであろう。
 作家は通例、辞典を引き写しをやらぬものである。やってもわからないように韜晦するのがふつうである。にもかかわらず、手のうちをトランプのカードのように示したのは、彼が遺書のつもりで、最後の切札を示しているのである。三島は「五衰」のカードを示し、そしてあとは、サッとカードを切ってしまった。
 心にくきわざであるが、「豊饒の海」は「浜松中納言物語」を典拠とした夢と転生の物語であり、因みにその題名は月の海の一つのラテン名なる Mare Foecunijatis の邦訳である、などと後註する。これでもか、これでもか、と故人は五枚つづきのストレート・フラッシュをかけてくるように思える。昭和四十五年といえば、高度成長華やかな、豊饒の時代であった。三島は、この豊饒の中に、腐敗を嗅ぎとったのである。この腐臭に対して、「本位 を楽しんではゐられなかつた」のは三島の天才的直感といわねばなるまい。


5 意識と記憶の円環

 私は、「豊饒の海」は三島の意識と記憶(こころ)を象徴的に画いてみせた意識小説だと想う。プルウストと同様の事を、三島は唯識論を借りて試みたものである。佐々木現順氏「仏教における時間論」は刹那の本質とその意義について、仏教における刹那(Ksana)という概念は、瞬間(Moment)と考えてよい。諸行とは events である。有部は「諸行無常にして生滅ある法」(長阿含遊行経)といい、世親は「諸有為法皆刹那滅」であるという。生・住異・滅は北伝の衆賢や南伝アビダルマ仏教の仏音によれば、インドの根本思想である輪廻転生の世界であると解釈し、仏教的刹那の構造としてこれを論理化している。
 シチェルバトスコイ(大乗仏教概論)によれば、「唯識」とは唯心論的見解 Vijnana-vada ということで、小乗では限定できぬ意識(citta 心=manas 意=vijnana 識)に加えて、基本的な意識(alaya-vijnana 阿頼耶識)の存在を認め、外的世界の実在性を否定した。このヨーガ行派は二派に分れ、古派はアサンガ(無着)の流れをくみ、新派はディグナーガ(陳那)を継承する。神秘的直観にはいったヨーガ行者は、差別 を絶した純粋意識(advaya-laksanam vijnapti-matram 不二法相唯識量)の直接的認識を有していると考えられる。  かくして、小乗における因果律の理論は、大乗において変容され、実在して不滅なるブッダは神秘的直感にたよって認識せられる。
 仏教は多元論から一元論へ向うのである。永遠の相の下に、輪廻は即ニルヴァナとなり、それは視角の変化によるとされている。
 こういうヨーガ的神秘主義に、三島が近親感をいだいたのは、思えば三十数年の昔である。三島は稲垣足穂を「日本で唯一の天才」と認め、その「ミロク」について語ったことがある。弥勒(マイトーレア)の作とされる「瑜伽師地論」を展開したのが無着(アサンガ)の「唯識説」であるから、もともと三島はヨーガ的純粋意識に興味をもっていた。
 「クナーベン・リーベ」と題する三島の未発表原稿によれば、稲垣のクナーベン・リーベは、「文体そのものが、かたい、少年のような肉感をもつ」という。
 三島の自決を、政治的に、また文学的に、また宗教哲学的に、評価する時に、それぞれ否定的評価が下されること、前述の如くであるが、三島の意識の少年愛的展開とみれば、これはまことに同感、肯定せざるをえないのである。三島の間性については先に述べたが、彼は「若い時、結婚と自殺はしない」と約束したものである。自殺しそうなのは私の方であった。それにもかかわらず、三島は結婚して児をなし、遂に自殺し果 てた。
 「豊饒の海」の巻頭にあらわれる滝の中の黒い犬の屍は、三島自身の屍を象徴するものである。三島の自決はまさに、黒い犬の屍のように「犬死に」である。
 しかし武士道には、犬死にというものはない。武士道とは死ぬことであると葉隠は言う。切腹を報じる新聞紙上に、ころがされた三島の黒い頭部を見て、私は「春の雪」の黒犬の屍を思い出した。『これはまさしく「犬死に」を遂げたな』と思うのであった。  生命より貴いものとは何か。  三島の死は、のがれ難く死に至る昭和四十五年の、高度成長のもろもろの政治的腐臭を予感していないか。さらに最近の防衛論議の中核をも指し示してはいないか。アメリカの傭兵になるなとは、これは三島の残した決死の遺書なのである。


6  心とは何か

 世親の『唯識二十論』は『世界は表象のみのものであると証明する二十詩頌』論というのが原題である。心、意、認識、表象はみな同義異語である。唯識は唯心ということで、世界はただ心の表象にすぎないと教えられる。人には自我がないと(人無我)さとり、人は、物事に実体がないこと(法無我)に悟入する。
 『唯識三十論』は、三十の詩頌よりなる『唯現象識論』が原題で、ダルマパーラ(護法)の注が玄奘によってもたらされ、漢訳されて『成唯識論』として法相唯識宗の根本聖典となる。仏教来伝当時、道昭がこれを伝え、行基、良弁等の学匠が現われる。唯識では瑜伽行者の菩薩道という神秘階梯が述べられるが、これが日本人の心を深くとらえたのはなぜであろうか。
 菩薩道は四段階に分れ、第一段階では、眼、耳、鼻、舌、身という物質的認識能力によって、認識される客体と、認識する主体を別 々にとらえる二種の執着が去らず、その潜在形態は滅することがない。
 第二段階では、対象として実在する物自体にかかわりなく、唯、心であるにすぎないと見ても、現前に固執して、いまだその現象識を表象することを放棄していない。
 第三段階では、認識される客体がないときには、その客体を認識する主体もないと知るので、知られる対象も、知るはたらきも、まったく平等で、いかなる構想もなく、衆生の世界内存在を超越した知が生ずる。主客二種の執着は放棄されて、みずからの心の存在するがままの如性の中心に心そのものがあって定まる。天人五衰の最後に、門跡がこういう心・心の無について説いている。  最高段階では、心は、認識する主体としての心がなくなり(無心)、迷いの存在根拠が転換し、新たなるさとりの存在根拠として、現成してゆくはたらき(転依)となる。解脱して自由の身になった身体は(解脱身)であり、大いなる沈黙の聖者(大牟尼)の、真理そのものと呼ばれる身体(法身)となる。
 月修寺門跡は、こういう神秘体験を通してものを言っているので、あらゆる迷いの存在をあらしめる可能力をもつアーラヤ識の存在根拠を転換し、主体、客体という二種の限りなく深い迷いの有限性を知れ(無二知)というのである。心とは、「世界は観念である」と大乗仏教で説くもので、「心、意、認識、表象と、それに伴う心作用の連合」であって、「三界は心のみのものである」という時には外界の対象の存在をすべて否定するから、「のみ」というのである。
 唯識は一元論的唯心論で、これはシャマンの神秘的融即(Participationmystique)に近いものがある。人間は側頭部に強い衝撃を受けると、記憶はなくなり、したがって時間の意識もなくなる。刹那の連続に痛覚だけがやって来るが、昨日痛かったということは忘れてしまう。これを軽度に実修するには、意識を眉間に集中したり、シャマンの出土例のように、側頭部を緊縛して成育し、側頭部が変形するほどの、「はちまき」を着けたりする。日本人がはちまきをするのは、記憶をやや喪失し、刹那に連続する心のはたらきにより行動するので、このはたらきを霊魂とみて不滅と考えれば宗教となり、一種の記憶喪失と考えれば心理学の問題となる。
 三島にとって、心は唯識の説く神秘的認識であって、漢訳仏典の難解な壁を取去ってみれば、一元的唯心論に外ならない。三島が門跡に見たのは、永遠に母なるものへの思慕であるし、三島の行動は史的唯物論に対する刹那唯心論の最後の突撃である。
 三島は「休戦ラッパの鳴り渡る、何の物音もしない世界」、を理想としていた。私も嚠喨と鳴り渡る休戦ラッパを敗戦の日、浜松の営庭できいた。三島は日本精神という「たてまえ」でなく、「本音」のところで日本人の心(意識)を描いてみせたのである。

「日本及日本人」昭和五十七年陽春号