序にかえて
椿 紅子

 私達三姉妹の父、椿實が平成十四年三月二十八日に没して一年、桜の開花と共に思い出される時期が巡って参りました。宗教学を専攻した割には、またはその故にか祭祀には熱心ではなかった父のために、一周忌法要に代りささやかな冊子をお届けすることをお許しください。現在まで広くは発表されたことのない作品数編と、手稿のリスト、出版作品の書誌を入れました。最初にお断りいたしますことは、資料の殆ど全ては旧宅で見つけた範囲のみで根津の家以外の所蔵、出版物で手許に残っていない物等の調査は行っていないことです。今後も随時更新したいと思っております。分野は異なるものの史料を用いて研究した経験から、父が独りで囲い込んできた資料の存在を縁の方々にお知らせしたいと思いました。大部分を私の独断で構成しましたが姉妹三人、その家族達からの様々な寄与は随所に反映されています。  春分の日に倒れてから一週間、一度も意識が戻ることなく逝ったので何の準備も申し送りもあろう筈がなく、実務的な処理に追われ、夏が過ぎた頃からようやく整理に手をつけました。父が一歳になる頃から育った家は台東区池之端ですが、戦災にも焼け残って現存しています。そこから文京区根津に昭和五十七年に移り住みましたが、家財道具と共に本や原稿などを少しずつ移していました。引越し荷物として整理して一度に移したのではなく、徒歩で往復できる距離を古い乳母車などを使って運んでいたのです。その結果 、根津の家には古くは小学校時代の成績表に始まり、父自身が保存しておきたいと考えたであろう品々が堆積していました。晩年の父には瘋癲老人的性癖が多少現れ、大事な物は黒鞄に詰めて先々へ持って歩く習慣がありましたが、通 帳や印鑑と一緒に、三島由紀夫や柴田錬三郎などから頂戴した葉書や斎藤茂吉の写 真等もその中に入っており、一時無人になった根津に置くのも心配で、額装品や一部の原稿などは早い時期に日本近代文学館に寄贈しました。
 暑さが過ぎて蔵書に手をつけましたが、寝室兼用の書斎の書棚とそれに付随するクローゼットの棚には、書類・書付から骨や石に至るまで、あらゆるものを二重三重に詰め込み、押し込んでありました。その他の部屋にも手当たり次第に書棚があり、最後には階段下の下駄 箱の奥にも本が充満しているのが見つかりました。しかし、蔵書の位置や置き方に全く意図的なものが見られない訳でもありません。最も身近で目立つガラス付き棚は直接の関連のあった方々(三島由紀夫・吉行淳之介・中井英夫・澁澤龍彦など)の特等席で、その中に花の育て方、蝶や熱帯魚の図鑑などが混じるのが父らしいところです。もう一方のガラス付き棚には宗教学関連とその他の自著が纏めてありました。一九八二年出版の「椿實全作品」や、収録の小説の初出を含む昭和二十年から二十五年頃の雑誌も、全作品がキッカケとなって出た幾つかの出版物もここです。
 しかし、この部屋には衣類が充満した棚で塞がった後側にもう一つの納戸があり、その中は二重の本棚に囲まれていました。図書館を利用しないのは大学時代からだったようで、宗教学・哲学・民俗学・心理学などの本が岩波書店のカタログさながら揃っていました。中には同一の本を二冊三冊と所有しているのもありました。また、森鴎外の水沫集のように明治時代の書物や戦前出版された古文書復刻版などもあり、一瀬直行や梅崎春生の初版などは父の嗜好を表していると思います。興味深いのは、あたかも他人の眼から隠すようにして、安部公房、大江健三郎、遠藤周作、島尾敏雄、北杜夫、辻邦生などの著作のハードカバーが納戸の手前の方に多数集めてあったことです。年齢的には同年代の方もありますが、自分より新しい時代の読者に注目された小説の動向をやはり気にしていたのでしょうか。勿論家族との話題にしたこともありませんが、田中現長野県知事に関しては「クリスタル文化論」という評論を発表しています。
 この納戸の中、特に下の方は埃に埋もれており、非常に狭くて暗く、足の置き場も無いような棚の隙間にPCを持ち込んで本の所在と最低限の著者・タイトルや主な出版年のエクセル・ファイルを作成しました。あまり汚いので、何度か全部をゴミとして処分したい気持ちに駆られましたが、その度に真っ黒な中から大切そうなものが見つかるので整理を続けざるを得ませんでした。[一人で時間に追われて作業した結果 、非常に不充分なものですが、ご希望があれば全体のリストのファイルを差し上げることができます。なお、巻末書誌には覚えとして発見の場所も記しました。]

 第一の発見は終戦直後の雑誌類でした。父が亡くなって「作家」と呼ばれる所以は、旧制高校の終りから吉行淳之介達と同人雑誌を発刊し、第十四次「新思潮」編集に携わったのがキッカケとなり、一時多くの商業雑誌に小説を書いた事です。最初の同人雑誌「葦」第一号は一冊だけありました。その質素な体裁からは終戦後一番早く発行したかった、という背景が見えますが、他に先駆けて刊行したその創刊号が最も売れ、用紙供給が緩和されページ数が増えるに従い、二号三号と家に残っている売れ残りの部数が多くなるのは、何か哀れなような苦笑を誘われるような思いでした。「葦」は文字通 り三号雑誌として姿を消しましたが、第四号の予告は第三号に出ています。府立高校の縁で誘われて加わった第十四次「新思潮」のタイトルは父の経歴と重ねてよく引用されていましたが、私が実物を見たのは初めてです。もともと一高出身者の雑誌の名称で当時「空いていた」のを使用前に仁義を切りに行った話を中井英夫が書いています。この雑誌は同人雑誌というよりは商業雑誌に近い性格で、掲載した太宰治の小説原稿が自筆である「極書」を中井と父が墨書したりしています。父にとっては第二号に掲載された作品「メーゾン・ベルビウ地帯」が世に出る契機となったものです。これらの他、商業雑誌の自作掲載号を複数保存してあったものも含め、根津には全部で七十冊内外の古い文芸雑誌がありました。これらは手の届く所にあったものも私達は見たことがなく、自己誇大的な人だったのに周りの者には見せなかったし手許にあることも言いませんでした。
 古い資料を見るうえで自然に興味の対象になるのは、最も早期の作品があるかどうか、ということです。上述の通 り、旧宅から持って来た物には恣意的セレクションが働いていると考えられますが、その中では最も古く外部に発表したと思われる散文が、「助川君追悼級会雑誌」収録の「我が身ひとつは」です。「葦」三号に発表した小説「泣笑」と似た傾向の作品ですが、吉行によると「その後のものとは大きく傾向が違う」ということになります。追悼文集を作成したことは同級生の方々でも忘れておられるかも知れないので、ここに父の分を採録しました。本自体は傷んでいますが手許にあります。文集では第一師範女子部附属小学校竹富会となっている現在の学芸大学附属竹早小学校昭和十三年卒業のクラスで両親は同級でした。卒業アルバムもありますが男女それぞれ一組だけの少人数、皆とても仲良しで担任は植田先生だったこと、祖父母の年代まで含めてお名前が何かと話題に上ったので私達も身近に感じておりました。植田先生は両親の葬儀にご参列くださいました。小学校の教え子を二人も先立たせて申し訳ない思いです。  同人雑誌や同級生と合作の文集だけでなく、独りで本を作ることにも早期から取り掛かっていたようです。旧制中学時代の手稿のノートは歌集、句集、日記、観察日誌などでタイトルや挿画に凝っています。中でも「潮流」と題した旧制高校一年の日記二冊の装丁には随分手間を掛けた様子です。最近知ったのは三島も学習院中等科時代、自作を自装して楽しんでいたらしく、当時の文学少年達(少女も?)共通 の趣味だったのだろうかと思います。父は幼時から絵を描くのが好きで、自作ノートの他、手近な紙切れにも花などが描いてあったりしました。[この冊子のカットもそれらから選びました。]ノートの一冊にある旧制五中在学時のアカタテハ、クモマツマキチョウの蝶の飼育日誌は、帝国大学理学部で出されていた「採集と飼育」に収録され、文章が公になった最初と思われますが、この雑誌の編集者の一人が私のICU在学時の学長、篠遠喜人先生だったのは奇遇でした。もう一つの偶然を挙げると、父が新人特集号に入った当時の「群像」昭和二十四年の別 の号で手許に残っていた中に、私の義父の従兄に当たる野口彌太郎の挿画が見つかりました。
 父個人での本作りとしては、大学院修士論文の「東大本新撰亀相記」からが本格的に自家出版と呼べるものでしょう。古文書の解題でオリジナルと見比べなければ意味をなさないので、今でいう復刻になっています。その後も一九五〇〜六〇年代頃に三回に亘り自分で活字を拾って歌集を印刷していました。重いローラーでインクを引く印刷機械や沢山の活字が池之端の家にあります。第一歌集は出征前に書き溜め纏めた歌が中心で、第二歌集の「絵画風小景詩」、第三歌集の「海邊にて」に詠まれた風物は私達にも馴染み深いものです。また、自家出版に近いもので珍しかったのは「国文法要説」、勤務先の東京都立第四商業学校定時制で広報委員会に関わった繋がりから一九五六年に発行したようです。当時国文法の参考書が無いので自分で作った、と義弟に語ったことがあるそうで、簡潔に纏まっていて今でも便利に使えそうです。論文の抜き刷りのような体裁ですが四十円という意欲的な定価も付いています。

 これら色々の発見をしつつ整理を一段落し他の廃棄物を処理する日に、義弟が「椿實全作品拾遺」という封筒を発見しました。ドア横の大きな書棚の上にポンと置いてあり、自分が非常時に持ち出すつもりか、他人にも必ず見つけられることを期待したかのようです。全集刊行時に各作品の初出コピーに手を入れたものと章割のアイデア、全集未掲載作品コピーを纏めて綴じたもの、同様に「椿實宗教文学論集」としたものがあり、その「椿實宗教文学論集」は殆ど同一の物が別 の場所にも保管してある、という用意周到さでした。更に「メーゾン・ベルビウの猫」というタイトル、ビニール・カバー付き封筒で格別 大切に保管された未完の草稿も見つけました。副題は「アメ横繁盛記」で「三〇〇枚」と表紙にあり、章立てしたアウトラインと九十ページ程書かれている文章です。内容には一九六〇年代半ばの家庭風景、居着いた仔猫を姉妹で飼ったこと、シアトルからの交換留学生Deniseのことなどが入っています。夏目漱石の猫の家から目と鼻の先に住んでいた環境で、ネコものを書きたかった意欲は強く感じられますけれども、この原稿では作品としては纏まっていない段階を表して終わっています。一部は一九九七年発行の豆本「メェゾン・ベルビウの猫」(桑原倶楽部)の前半に反映されていますが、後半は従前に書いた「メーゾン・ベルビウ地帯」を再録しているので、その段階で残りは未完成だったと思われます。
 ここに至り、遺されたものの記録を何とかしなくては、という合意が遺族の間で自然に出来ました。よく「お父様への愛情が感じられる」と優しく評価してくださいますが、実態は父が独りで抱え込んで公にしなかった資料がかなりに上るので申し訳がない、という思いです。また、一九八〇年代に再評価されて気を良くしたためか、中井英夫初め古くからの友人達に既に指摘された自己陶酔癖がかなり増幅された形で発言や著作にも散見され、独り歩きして引用されているのに危惧を覚えたからでもあります。甥と私とがある日に得た結論は『椿實の話でいかにもありそうなことには創作がある、しかし奇想天外な話には裏付けがある』です。一例を上げると、三島由紀夫の未発表原稿を口述筆記したノートを所持していたのは本当ですが、それに関して書いた文章の中には家族にはすぐ判る創作要素があります[一九七二年「うえの」、一九八二年の「全作品」付録に再録]。それらは三島夫人が一九九五年に亡くなられて以降に出版された本にも引用され、事実のように扱われている場合もあります。父は一九七九年になって三島観の集大成のような「三島由紀夫と『天人五衰』」を書きましたが、相対的には知られていないようです。その後に宗教学会でも数回に亘り発表をしています。内容には多くの異論がありましょうが、父にとって書かずには終えられないテーマだったのだと思います。三島のご長男が在籍した当時のお茶の水女子大附属小学校長、勝部真長先生が関係しておられた「日本及日本人」に掲載されたことにも意味があるのではないでしょうか。

 この冊子には早期の作品、文学と宗教学の接点を示すものに加え、執筆回数の多い「うえの」と「健康」のエッセイを各々一例、未発表と思われる原稿から起こした掌編を一編入れました。遺された原稿や作品から、椿實の二十歳代作品の特異なスタイルが非常に短期間に完成されたように見える軌跡は変わることがなく、数少ない作品から「幻の作家」として評価されるのは大変に有難いことです。その経験を一度持った父としては、ある時期に小説執筆に戻りたいと内心ではずっと思い、しかもそれは割合簡単に出来ると考えていたのではないでしょうか。手許の多くの資料はそのための材料として人に見せずに抱えていた、と解釈することもできます。しかし、ここに一部をお眼に掛けるように、媒体がコミュニティ雑誌でも啓蒙雑誌でも、好きな内容でエッセイや評論に類するものは相当数書いており、宗教学会では一九九〇年代を通 して割合頻繁に論文発表を行い、教育関連の活動も残されています。マックス・ヴェーバーには特に興味があったようで、最近になって原書がかなり集めてありました。花や昆虫、美術や音楽への興味も生涯変わることなく生活を潤しておりました。父は小説を書き始めるのに苦労しなかった代わり、社会的活動から小説では表現し切れないテーマが多くなるにつれ、ロマンの領域に留まることが出来なくなったのかも知れません。また、宗教論文や教育関連の仕事も丹念に残していたことから、父の中で創作の比重のみが格別 に高かった、とも思えなくなりました。後半生に小説の大作を遺すことはありませんでしたが、振り返れば充実して幸福な人生を送ったのは、この冊子をお読みになられる多くの方々による御厚意の恩寵であることを深謝しつつ筆を措きます。  別に発表した文章二編と重複する点も多くありますが、お許しください。

(2003/03/28)