1999年11月22日 朝日新聞夕刊・文化欄 評者・富岡多恵子

胸うつ正確さへの意志

 「南天堂」というのは東京・本郷白山にあった1階が書店で2階が喫茶兼レストランである。詩人や小説家に愛されて栄えた飲食店もあるが、また彼らにつぶされた店も多い。「南天堂」が大正の中期に、「本屋の2階のカフェーが流行ってる」との友人のパリ便りがオーナーの松岡虎王麿を刺激してはじまったとしても、その2階に集まってきたのは、詩人の卵ばかりではない。林芙美子も「南天堂時代」に詩を書き詩誌や詩集を出しているが、彼女がつき合うアナキスト詩人たちより、もっとアヤシイ連中がその2階で連絡をとり合っていることもあった。大正12年大杉栄が殺されている。
著者の寺島珠雄は、今年7月に、この本の「あとがき」を書き、出版を見ずに病死したが、この本は一朝一夕に書けるシロモノではない。ここまでやるかと思うほどに、当時の詩の同人誌の広告にまで推理を働かせ、レストランのメニューを「読む」ような追跡はいったいなにによるのか。「南天堂」のころの「時代」、アヤシイ連中の出入りに知らぬ振りの松岡虎王麿という人物への興味等もあるだろうが、おそらくそればかりではあるまい。資料によって、はじめはうるさく思えるほどの正確さへの意志も、読み終えると、著者の静かな執意に思えて胸うたれる。(後略)

 

1999年10月29日 週刊読書人 井家上 隆幸

<南天堂伝説>を追体験

大正アナキズムの思想運動と詩運動

 大正9(1920)年、本郷白山上にあった古書店南天堂を継いだ松岡虎王麿が、3階建ての新店舗に構えた南天堂書房。<近代名著文庫>や文芸誌『ダムダム』を発行した出版部があり、2階のカフェー・レストランは、大杉栄、伊藤野枝、辻潤、近藤憲二、和田久太郎、古田大次郎、村木源次郎、岡本潤、萩原恭次郎、壷井繁治、小野十三郎、宮島資夫、秋山清、矢橋丈吉、中西伍堂、村山知義、今東光、橋爪健、高見順、五十里幸太郎、きだみのる、川崎長太郎、菊田一夫、菊岡久利、林芙美子、友谷静栄ら、アナーキスト・ダダイスト・ニヒリストたちの狂乱喧騒の酒場であり、時に前衛美術家の展覧会場となったこの書店は、それゆえに大正・昭和文学史の<伝説>となった。
 <伝説>は、実と虚が無数といってもよいほどの断片となってちらばっていて腑分けしがたいところに生まれる。その断片の虚と実を、巻末にある分権115、人名826が示すように、いわば多岐亡羊の道にわけいって徹底的に検証し、<南天堂2階>を起点に、異端であり美的放浪者であった彼らの青春と志を、アナキズムの思想運動と詩運動にまたがって幾重にも重ねあわせ、浅草・京都など空間をおしひろげ、それをまた松岡虎王麿の生涯に求心させて、<大正ロマンティシズム>の内実に迫る本書は、大正末から昭和初年という<時代の相貌>をくっきりと浮かびあがらせている。
 といっても、寺島珠雄はたんにデータ・ジャーナリズムに徹しているということではない。その徹底した検証は、昭和15(1940)年、15歳で辻潤に出会い、異端者や落伍者の歌をわがこととしたアナキスト・詩人寺島珠雄のロマンチシズムと、ダダイストからアナキスト、コミュニストとうつって労働運動家となった陀田勘助(山本忠平)のそれに重なる敗戦直後の労働運動体験を、<南天堂伝説>を彩った人びとのそれに重ねあわせ、彼らの人生と仕事を追体験しようとする熱い想いにささえられているのである。
 岡本潤、小野十三郎の年譜に西山勇太郎、萩原恭次郎、壷井繁治、上村諦、草野心平、伊藤和、矢橋丈吉、菊岡久利などの年譜を重ね読みすれば、一時代の相貌がおのずと浮かんでくるはずだといい、自分が<南天堂>を囲うと思ったのは15歳の時だともらしていた寺島珠雄には、もう10年いや15年早く生まれていれば自分も<南天堂伝説>を生きられたのにという想いに、である。南天堂の“落城”が昭和5(1930)年末であることを思えば、その想いはなおさらのことであっただろう。
 とかく虚無と頽廃の風俗で情緒的に語られる「大正末期―昭和初年」を、混沌たる思想潮流の渦巻くなかで、絶対の自由を求めて青雲の志に生き死んだアナキストたちの、闊達で美しくも激烈な疾風怒涛の時代として甦らせた本書は、文学史の落丁をうずめるといったことを超えて、われわれに歴史を生きるとはいかなることであるかを問いかけているのだ。
 人びとの年譜を何層にも重ねる徹底した実事求是、大正アナキズムの思想運動と詩運動をまるごと追体験しようとするみずみずしい精神をもって、生涯を異端者としてみごとに<南天堂伝説>を生きたアナキスト・詩人、寺島珠雄は、今年7月22日、本書の校正をすべて終えて逝った。(いけがみ・たかゆき氏=エッセイスト)
 ★てらしま・たまお氏は詩人。アナキズム詩史に通じ、文献の博捜と綿密な考証で知られる。著書に「どぶねずみの歌」、編集・解説「時代の底から 岡本潤戦中戦後日記」「小野十三郎著作集」など。1925(大正14)年生、1999(平成11)年没。

 

1999年10月26日 奈良新聞 くぬぎ丘雑記52 川崎彰彦

充実した大冊に夢中 「南天堂」の歴史克明に

 灯火親しむ候になった。このところ私は、これほど読みごたえのある本には近年お目にかかったことがないというほど読みごたえのある充実した大冊にかかりきりだった。
 ことし7月22日、食道がんから転移した肝臓がんのため八尾の病院で73年の生涯を閉じた詩人・寺島珠雄さんの遺著となった「南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和」(皓星社刊)である。
 南天堂といっても、知る人ぞ知るといったところであろう。大正から昭和初期にかけて東京・白山上にあった書店の名だが大杉栄らの著書の出版もやり、売り場には無名の同人詩誌なども常時並べていたという書店そのものより、その2階が喫茶(カフェー)兼レストランになっていて、酒も置いてあるところからアナーキストとかダダイストといわれる思想家・運動家や詩人・芸術家が夜ごと集まってきて談論風発し、乱闘騒ぎになることも珍しくなかったという、その2階のほうでむしろ名高い。
 林芙美子の「放浪記」にも出てくる。私は戦後間もなくの中学か高校生時分、小野十三郎さんのエッセー集「多頭の蛇」に収められている「南天堂時代」という一文で知った。
 当時、進駐軍から与えられた、お仕着せの「自由」に限界を感じていた私は、辻潤も常連の1人だった南天堂における疾風怒濤の青春こそが生命の輝きに満ちた真の自由なんだと今はなき南天堂に強いあこがれをいだいた。
 関西育ちの私が東京の大学を選んだのは東京へ行けば自分の南天堂とめぐりあえるかもしれないと期待したからだった。結局めぐりあえなかったが。
 著者の寺島珠雄さんは東京生まれの千葉育ち(関西暮らしは1954年ごろから)だけれど、生まれたのは大正が昭和に変わった年だから南天堂の営業期間には、まだ生まれていないか、幼児だったころだから、むろん南天堂には出入りしていない。だが早熟な人で、戦時中の中学生時代に辻潤を読んで思想的に目覚め、いらい、いわば「不良少年」「非国民」として信念を持って一生を貫いた。
 アナーキズム系の詩人・岡本潤や小野十三郎とは身内以上の親交を結び、二人に関する多くの仕事を遺(のこ)した。だから寺島さんは、大杉栄の友人だったという松岡虎王麿を経営者とする南天堂の歴史を書く最適任者だったのだと思う。
 じっさい病気の進行と追いかけっこをするように半年間に七百枚書きあげたという(そのころの寺島さんについて身近な人々は「鬼気迫るようだった」と証言している)文章は、まことにライフワークと呼ぶにふさわしい菊判(大型本)466ぺージの堂々たる大冊になった。
 博覧強記(とくに人間わざと思えなかったのは、人名に対して異常なほど鋭敏な感度計を身に備えておられた点だろう)の寺島さんの筆は微に入り細をうがち、大正・昭和思想史の比類のない細密画を描き出している。大正・昭和のまたとない副読本というべきだろう。
 がんと知りつつ、こんな原稿を仕上げてから入院、校正刷りに目を通しながら死ぬなんて、やはり寺島さんは豪傑だったなぁ。
 (作家、大和郡山市在住)

1999年10月18日 朝日新聞夕刊・文化欄

アナキスト詩人の死
命かけて執筆 本来の自由人

 待ちに待った『南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和』の出版記念会は、残念ながら著者追悼の会を兼ねることになってしまった。
寺島珠雄さん(本名・大木一冶=写真、撮影・武内祐樹)、7月22日、食道がんのため死去。享年73歳。アナキスト詩人でアナキズム詩誌にくわしく、『小野十三郎著作集』の編者でもある。
 「南天堂」は、大正から昭和のはじめにかけて、東京・白山上にあった伝説のカフェ兼レストラン、書店だ。大杉栄、伊藤野枝、辻潤、林芙美子、岡本潤、小野十三郎といった人々が集う場で、前衛美術の展覧会場にもなり、出版部からは文芸誌が発行された。数年のにぎわいののち消えた「大正文化の交差点」の輝きと、店主松岡虎王麿の生涯を描き出した。構想40年以上。カフェの包装紙やメニューまで含めた一時資料を博捜し、記述の正確を期した。
 体の不調に気付いてからも、兵庫県尼崎市の自宅で執筆を続けた。入院期間はわずかひと月。「あとがき」の日付は亡くなる12日前になっている。「文字通り、命をかけて書いておられました」。秘書的な役割をはたしてきた企画制作会社エンプティの紫村美也さんは話す。
 東京生まれ。少年のころから辻潤らの作品に共鳴する。戦争中は海兵団にいたが、戦時逃亡罪で刑務所で終戦を迎えた。映画会社、労働組合や東京・山谷の食堂などで働いたのち、1960年代半ばからは大阪・釜ヶ埼に暮らした。トビ職として働きながら詩作を続け、竹中労、秋山清、小野十三郎らとも親しかった。
 先月、東京・お茶の水のホテルで開かれた追悼の会には、友人ら80人が集まった。交友のあった詩人の伊藤信吉さんは「文化的無宿者というんでしょうか。本来的な意味での自由人だった」と話す。姿勢の良い人だった、と寺島さんを知る人は口をそろえる。6月に入院するまで住民票すら持たなかった。アナキストとして、国家との距離をとり続ける姿勢を最後まで通した。

 

 待ちに待った『南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和』の出版記念会は、残念ながら著者追悼の会を兼ねることになってしまった。
寺島珠雄さん(本名・大木一冶=写真、撮影・武内祐樹)、7月22日、食道がんのため死去。享年73歳。アナキスト詩人でアナキズム詩誌にくわしく、『小野十三郎著作集』の編者でもある。
 「南天堂」は、大正から昭和のはじめにかけて、東京・白山上にあった伝説のカフェ兼レストラン、書店だ。大杉栄、伊藤野枝、辻潤、林芙美子、岡本潤、小野十三郎といった人々が集う場で、前衛美術の展覧会場にもなり、出版部からは文芸誌が発行された。数年のにぎわいののち消えた「大正文化の交差点」の輝きと、店主松岡虎王麿の生涯を描き出した。構想40年以上。カフェの包装紙やメニューまで含めた一時資料を博捜し、記述の正確を期した。
 体の不調に気付いてからも、兵庫県尼崎市の自宅で執筆を続けた。入院期間はわずかひと月。「あとがき」の日付は亡くなる12日前になっている。「文字通り、命をかけて書いておられました」。秘書的な役割をはたしてきた企画制作会社エンプティの紫村美也さんは話す。
 東京生まれ。少年のころから辻潤らの作品に共鳴する。戦争中は海兵団にいたが、戦時逃亡罪で刑務所で終戦を迎えた。映画会社、労働組合や東京・山谷の食堂などで働いたのち、1960年代半ばからは大阪・釜ヶ埼に暮らした。トビ職として働きながら詩作を続け、竹中労、秋山清、小野十三郎らとも親しかった。
 先月、東京・お茶の水のホテルで開かれた追悼の会には、友人ら80人が集まった。交友のあった詩人の伊藤信吉さんは「文化的無宿者というんでしょうか。本来的な意味での自由人だった」と話す。姿勢の良い人だった、と寺島さんを知る人は口をそろえる。6月に入院するまで住民票すら持たなかった。アナキストとして、国家との距離をとり続ける姿勢を最後まで通した。


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